門徒弟子の章 一帖目 第一通
門徒弟子の章 一帖目 第一通
本文 或人いはく、當流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候やらん、如来聖人の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。また在々所々に小門徒をもちて候ふをも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候 ...
本文 或人いはく、當流のこころは、門徒をばかならずわが弟 ...
本文 或人いはく、當流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候やらん、如来聖人の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。また在々所々に小門徒をもちて候ふをも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候 ...
本文 或人いはく、當流のこころは、門徒をばかならずわが弟 ...
本文 當流親鸞聖人の一義は、あながちに出家發心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標ぜず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。 さればこの信をえたる位を、経には「即得往生住不退転」と説き、釈には「一念発 ...
本文 當流親鸞聖人の一義は、あながちに出家發心のかたちを ...
本文 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。 ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらもの ...
本文 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころの ...
本文 そもそも、当流を、昔より人こぞりてをかしくきたなき宗と申すなり。これまことに道理のさすところなり。 そのゆゑは、当流人数のなかにおいて、あるいは他門・他宗に対してはばかりなくわが家の義を申しあらはせるいはれなり。これおほきなるあやまりなり。 そ ...
本文 そもそも、当流を、昔より人こぞりてをかしくきたなき ...
本文 そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、不思議の名言をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に心中にこころえおきたり。そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへ ...
本文 そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、 ...
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立ちなり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずし ...
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふこと ...
本文 それ、当流開山聖人のひろめたまふところの一流のなかにおいて、みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、所詮向後は、当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、また来集の面々も、各々に当門下にその名をかけんともがらまでも、この三箇条の篇目をも ...
本文 それ、当流開山聖人のひろめたまふところの一流のなか ...
本文 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり。後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄燿にあまるといふとも、盛者必衰会者 ...
本文 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは ...
本文 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。 そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにい ...
本文 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国におい ...
本文 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮らして年月を送るばかりなり、これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊よ ...
本文 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるも ...