出立の章 二帖目 第二通

本文

 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立ちなり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。
 これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失い、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人摂取して捨てたまはざるものなり。
 かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。かやうにこころえたる人をこそ、当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。
 このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 いまこの文にしるすところのおもむきは、当流親鸞聖人すすめたまへる信心の正義なり。この分をよくよくこころえたらん人々は、あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。これまことに弥陀一仏の功徳のうちにみな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。総じて一切の諸法においてそしり
をなすべからず。これをもつて当流の掟をよくまもれる人となづくべし。
 されば聖人のいはく、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」とこそ仰せられたり。このむねをよくよくこころえて念仏をば修行すべきものなり。
 文明第五、十二月十二日夜これを書く。

取意

 (まず、信心為本の宗義を掲げる)
 親鸞聖人のみ教えには、何よりもまず、信心ということを第一となさってあります。

 (次にその信心は何のためかといえば、地獄往きの者が極楽往生するための身支度となるためであると示す)
 その信心が何の役に立つのかといえば、善根も功徳もなく、悪を造ることしか知らぬ私たちのようなあさましい凡夫が、やすやすと阿弥陀如来の浄土へ参らせていただくための身支度なのです。この信心を得なかったならば、極楽浄土には往生せずして、無間地獄落ちるのも当然のところであります。

 (さらに、その信心を得るためにはどうすればよいかを示す)
  では、どうすればその信心を獲ることができるのかといえば、阿弥陀如来一仏を深く信じさせていただいて、その他のさまざまな善行や修行にも心を向けず、またもろもろの神々や菩薩に向かってこの世の願いごとばかりを祈るこころを離れ、また、自力などという悪しき心得違いをなげ捨てて、身も心も挙げてひとすじに阿弥陀如来を光と仰ぎ、力とたのんで二心のない人を、阿弥陀如来は必ず救いの光の中に摂め取り、決して捨てたもうことがないのであります。

 (さらに加えて、すでに信心を得て往生安堵の身となった上は、称名念仏は報恩のためと心得るべきことを示す)
 このように信を獲った上には、寝ても起きてもつねに申す念仏は、阿弥陀如来がこの私をたすけてくださるご恩を、報じさせていただく念仏であると心得るべき道理です。

 (最後に、この通りに心得た人こそ信心の行者であり、これ以外に別の信心があるというのは妄説であるから耳を貸すなと念を押して結ぶ)
 このように心得た人こそ、真に正しく浄土真宗の信心を獲った人ということができます。この他にまだ別に信心ということがあると言う人がいたら、それは大間違いです。一切耳を貸す必要はありません。
 まことにもったいないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でございます。

 今、この文に記した趣旨こそ、親鸞聖人お勧めくださる浄土真宗の信心の正統教義です。この内容をよく心得た方々は、決して他宗・他流の人に対してこのことを吹聴などしてはなりません。また他の一切の仏・菩薩ならびに諸神等についても、自分が信じないだけのことです。決して軽んじてはなりません。実は弥陀一仏の功徳の中に一切の諸神は含まれていると思うのがよいのです。
 総じて一切の他宗教に対して謗りをなしてはなりません。他宗教を謗らない人こそ、浄土真宗の掟をよく守っている人と呼ぶことができるのです。
 だからこそ親鸞聖人は、「たとえ牛盗人とは言われても、後世者、或いは善人、或いは仏法者と見せかけるようなふるまいだけはしてはならない」と仰せになったのです。
 以上のことをよくよく心得て念仏を行じていただきたいものでございます。

参考

  • 出立
    門出、準備、用意、身支度
  • 獲得
    信心を得ることを、獲の字で表し、覚りを得ることは得の字で表す。「獲信」「得仏」のごとし。『自然法爾章』参照。「獲」はキャッチの意。「信」はメッセージの意「信心をとる」は「信心を獲る」の意。
  • 無間地獄
    八大地獄の一番底。絶え間のない苦しみの世界という意味で無間の名。・今生のいのり 成仏と衆生救済の「後生を願う」と対称させた語。利己的な現世的な祈願・祈祷。
  • 信楽
    第十八願文の「至心信楽欲生我国」から引いた語。信心に同じ。「楽」は「ねがう」と訓じて、仏意をようこそと受けとめて喜ぶ意。
  • 摂取の光明
    「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」『観無量寿経』摂取の光明とというに同じ。念仏申させて漏らさず救おうとの阿弥陀如来の救いの光。
  • かやうにこころえ
    どう信ずるかだけでなく、信を得る時往生また定まること、その上で称える念仏は報恩のいとなみであることをも含めて示す。
  • 当流の掟
    法然聖人時代の『七箇条制誡』以来の伝統を指す。智者・善人のふるまいをせず、愚痴の凡夫になりかえって、ひとすじに本願を信じて念仏し、他宗を謗らず、争わずということ。引用の文は、覚如上人の『改邪鈔』に出る。
  • 牛盗人
    俗語で、愚鈍な人を指す謗り言葉。念仏者賀古の教信沙弥の代名詞。
  • 仏法者・善人・後世者
    法然聖人・親鸞聖人を訴えて流罪にした学僧たちの立場を批判的に言った言葉。「南都北嶺の仏法者」という言い方で『愚禿悲歎述懐和讃』に出る。自力聖道門的スタンスを象徴する言葉。

私釈

 信心正因(信心一つが往生の決定用件)・信益同時(信心定まる時往生また定まる) ・称名報恩(称名は報恩のいとなみ)という浄土真宗の教義の基本を明示し、その上で 守るべき掟の要点を示した一章である。
 掟についての部分は追伸の形にして添えられている。その要点は、押しつけがましい 伝道はするな、他の宗教・宗派の崇拝対象を軽んずるな、他の宗教・宗派を謗るな、愚 鈍の身であることを忘れるな、ということである。広範な内容を簡潔に、しかも峻厳な 文体で述べた一章である。