猟すなどり章 一帖目 第三通

本文

 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。
 ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず弥陀如来の御たすけにあづかるものなり。
 このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
 これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
 文明三年十二月十八日

取意

 (まず、浄土真宗の信心とは煩悩を離れて清らかなこころになることではないと示す)
 まず、親鸞聖人によって伝えられた安心(信心)のあり方についていえば、強いて自分のこころの悪いことや、妄念妄執のこころがおこることを止めよということではありません。

 (次に、生業や暮らしを捨てる必要はなく、罪悪深重の凡夫を目当ての本願であり、このわたしが救われるのであると信ずる信心一つで救われることを述べて信心正因の義を明かす)
 日頃の生業のまま、商いをし奉公をもしてよいのです。このようなあさましい罪業にばかり朝夕惑ってきた私たちのようなつまらぬ者を、たすけようとお誓いになったのが阿弥陀如来の本願であると深く信じて、阿弥陀如来なればこそと、ふたごころなくその悲願にすがって、ありがとうございます、どうぞおたすけ下さいませと思う一念の信心がまことであれば、必ず如来のおたすけにあずかるのです。

 (さらに転じて、念仏は救いに対する報謝であるという称名報恩の義を示す)
 この上にはどのように心得て念仏申すべきかといえば、往生は今の信心にそなわった如来真実のはたらきによって(すでに定まったのであって)、おたすけ下さったことのかたじけないご恩を報謝するために、自分の命のあるかぎりは報謝のためと思って念仏するのがふさわしいことです。

 (最後に、以上の通りに心得たのが信心の行者であると述べて結ぶ)
 これこそ浄土真宗の安心の定まった信心の行者ということができるのです。
まことに勿体ないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 安心
    信心のこと。語意としては、心を一処に安置して不動なこと。善導大師が『往生礼讃』の中で、起行・作業に対して信心を安心といわれたのが始め。
  • わろき(悪き)
    粗悪な、お粗末な
  • 妄念妄執
    迷い故のさまざまなとらわれ「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。・・・妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて決定往生疑いあるべからず」源信『横川法語』
  • すなどり
    漁業
    「海・河に網をひき、釣りをして、世をわたるものも、野山にししをかり鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商いをし、田畠をつくりて過ぐるひともただおなじことなり」『歎異抄』十三条
  • 奉公
    主家に仕えて耕作・商い・侍などをすること
  • あさましき罪業
    武士は戦で殺生、農民は耕作で虫などの殺生、工商は両舌・綺語・偸盗など、五戒にそむく生業と考えられていたことを示す。
  • いたづらもの(徒ら者)
    つまらぬもの。空しく無意味に生きるもの。凡夫をさす。
  • 悲願
    大悲の誓願 罪悪深重の衆生をも、信心を与えて救おうという誓願。
  • すがりて
    信順して、ようこそと仰せに従うこと。請い願うの意ではない。
  • 一念の信
    本願成就文と呼ばれる「諸有衆生 聞其名号信心歓喜乃至一念 至心回向願生彼国即得往生」によって、二心なく一心なる信心の相を示し、また信心定まる時、往生も同時に定まる信益同時の徳あることを示す常套句。
  • 信力
    信心の本体は如来から回向された真実心であり如来の功徳・願力の全体であることを示す。
  • 信心の行者
    信心を得て念仏を行ずる者。信心を得た決定往生の念仏者の意。

私釈

 真宗のすくいは迷い多く罪深い在家止住の凡夫をめあてとしたものであることを明ら かにした一章である。また、庶民の暮らしの中に生きてはたらく信心であり、念仏であ ることを示して、出家聖道門自力の教えとの違いを際立たせた教示である。悪人正機の 義を、源信和尚、親鸞聖人の法語に沿いつつ、かみ砕いて示したものである。
 後半には信心正因称名報恩の義を説いてある。最後に、これが信心の行者であると、 如来の願われたわがすがたとはこれであるという言い方で結んであるのは、蓮如上人独 特の教示である。第三者的、客観的な理解や知識を述べようということではなく、如来 からわが身にかけられた願いとは何であったかを明らかにし、それに応える道とは何か を示して、あなたも同信の行者になってほしいと呼びかけてある。