神明三箇条の章 二帖目 第三通

本文

 それ、当流開山聖人のひろめたまふところの一流のなかにおいて、みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、所詮向後は、当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、また来集の面々も、各々に当門下にその名をかけんともがらまでも、この三箇条の篇目をもつてこれを存知せしめて、自今以後その成敗をいたすべきものなり。

 一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
 一 諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
 一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。

 右この三箇条の旨をまもりて、ふかく心底にたくはへて、これをもつて本とせざらん人々においては、この当山へ出入を停止すべきものなり。
 そもそもさんぬる文明第三の暦、仲夏のころより花落を出でて、おなじき年七月下旬の候、すでにこの当山の風波あらき在所に草庵をしめて、この四箇年のあひだ居住せしむる根元は、別の子細にあらず、この三箇条のすがたをもつて、かの北国中において、当流の信心未決定のひとを、おなじく一味の安心になさんがためのゆゑに、今日今時まで堪忍せしむるところなり。
 よつてこのおもむきをもつて、これを信用せばまことにこの年月の在国の本意たるべきものなり。

 一 神明と申すは、それ仏法において信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめしてこれをなにとしてもすくはんがために、仮に神とあらはれて、いささかなる縁をもつて、それをたよりとして、ついに仏法にすすめ入れしめんための方便に、神とはあらはれたまふなり。しかれば今の時の衆生において、弥陀をたのみ信心決定して念仏を申し極楽に往生すべき身となりなば、一切の神明はかへりてわが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、念仏の行者を守護したまふべきあひだ、とりわき神をあがめねども、ただ弥陀一仏をたのむうちにみなこもれるがゆゑに、別してたのまざれども信ずるいはれあるがゆゑなり。

 一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。

 一 諸仏・菩薩と申すことは、それ弥陀如来の分身なれば、十方諸仏のためには本師本仏なるがゆゑに、阿弥陀一仏に帰したてまつれば、すなはち諸仏・菩薩に帰するいはれあるがゆゑに、阿弥陀一体のうちに諸仏・菩薩はみなことごとくこもれるなり。

 一 開山聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽する体とす。されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、一念をもつては往生治定の時剋と定めて、そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
 しかれば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つにかぎれり。これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。そのほかかならずしも外相において当流念仏者のすがたを他人に対してあらはすべからず。これをもつて真宗の信心をえたる行者のふるまひの正本となづくべきところ件のごとし。
 文明六年甲午正月十一日これを書く。

取意

 (まず、浄土真宗の伝道ということについて、三箇条の心得を示すから、今後はこれに従うべきことを宣言する)
 この親鸞聖人のお広めくださった浄土真宗において、それぞれが皆、教えを伝えようとするやり方がまちまちのありさまであるので、今後は、当吉崎御坊の多屋の坊主や、その他の一巻の聖教を読むような人も、また参集の面々も、それぞれ当宗の門下にその名を連ねた人々までも、この三箇条の項目を心得て、今後は規制していただきたいと存じます。

 (次に、その三箇条の内容を掲げる)
 一 浄土真宗以外のさまざまな教えや他宗など、どれも誹謗してはなりません。
 一 阿弥陀仏以外の神々、さまざまな仏・菩薩を軽んじてはなりません。
 一 信心をお獲りになって真実報土への往生を遂げられますように。

 (その上で、これは共に信心に住するための掟であって、従わない者は吉崎への出入りを禁ずるのが当然という罰則が伴うことを示す)
 右の三箇条を趣旨を守って、深く心底にとどめていただきたいものです。これを基本の心得としないような人々は、この吉崎御坊へ出入りすることを差し止めるのが当然です。そもそも、去る文明三年の五月頃、京都を出て、同じ年の七月下旬の頃にはすでにこの波風荒い在所に草庵を構えて以来、この四年の間住まわせてもらってきた理由の根本は、別のことではありません。この三箇条の内容に沿って、この北陸で、浄土真宗の信心の未だ定まらぬ人を、同じく一味の安心の身にならせるためにこそ、今日今時まで辛抱させてもらってきたのです。ですから、この趣旨に沿って行動してもらえれば、まことにこの年月をこの国で過ごしてきた本意にかなうということができるのでございます。

 (さらに加えて、三箇条の趣旨を詳しく解説する)
 一 浄土真宗においては、他教・他宗を誹謗することがあってはなりません。いずれも釈迦一代の説教でありますから、説かれた通りに修行するなら相応の利益があるはずです。しかしながら、末代の私たちのような在家暮らしの身は、聖道門の諸宗の教えにはついていけないので、自分ではあてにせず信じないだけのことなのです。
 一 諸仏菩薩というのは、もとより阿弥陀如来の分身でありますから、十方諸仏にとっては阿弥陀如来は本師本仏であるわけで、阿弥陀一仏に帰依すれば、そのまま諸仏・菩薩に帰依することにもなるという道理がある故に、阿弥陀一体のうちに諸仏・菩薩はみなことごとくこもっているわけなのです。
 一 親鸞聖人のお勧めになる阿弥陀如来の他力真実信心というのは、さまざまな聖道門自力の行を捨てて、身も心も挙げてただひとすじに阿弥陀如来の仰せにしたがうことをもって本願を信楽する本体とするのです。だから、歴代の宗主から継承している通り、阿弥陀如来の真実信心とは、かえすがえすも他力によって授けられる仏智の不思議であると心得て、信心を得た一念のたちどころを往生の定まる時刻と思い定め、その時の命が延びれば自ずから称名念仏も数重なることとなる道理であります。こういうわけで、平生の時、信を得た一念の即時に往生は決定した上での、仏恩報尽のための多念の称名であるとならってきたところでございます。
 それゆえ、祖師親鸞聖人よりご相伝のこの浄土真宗の肝要は、ただこの信心一つにかぎるのでございます。これを知らないものを他門とし、これを知っていることをもって真宗のしるしとします。このことの他には必ずしも外面のすがたにおいて真宗念仏者としての特徴や主張を表すべきではありません。

 (最後に、信心を得たもののふるまいの基本を示すのが掟の趣旨であることを述べて結ぶ)
 以上をもって、真宗の信心を得た念仏行者のふるまいの基本と名づけるのです。

参考

  • 向後
    今後はの意
  • 勧化
    すすめおしえるの意。伝道教化をいう。
  • 成敗
    定められた法に従って物事を処置すること。
  • 花落
    花洛に同じ。京の都を指す。
  • 如説修行
    釈尊の教え通りに修行すること。
  • 在家止住
    出家修行に対する語。悟りに近づくことのできない生き方ということ。・本師本仏   一切の仏は、もともと阿弥陀如来の弟子であったか、阿弥陀如来の分身であるということ。『仏説無量寿経』の意に沿っていう。
  • 弥陀如来の他力真実信心
    阿弥陀如来の真実心が届いての他力信心ということ。
  • 弥陀如来の真実信心
    信心の本体はあくまでも阿弥陀如来の真実であること。
  • 一向一心
    一向は念仏一行を行ずること、一心は弥陀一仏を信ずること。
  • 往生治定
    決定往生・往生一定というに同じく、往生定まること。
  • 時剋
    時刻に同じ。
  • 多念
    念仏相続して称名の回数の多く重なること。
  • 平生
    臨終の時にではなくということ。
  • ならふ
    伝承すること。
  • 相伝
    口伝相続すること。
  • 他門
    同じく法然聖人を祖とする浄土宗の各派を指す。
  • 正本
    基本・お手本の意。

私釈

 あなかしこ、あなかしこの結句がないという点が珍しい。書き落としたのではもちろ んなく、お手紙というより、居住まいを正しての通達であるという趣旨を示すものかと 思われる。
 要件として掲げられた三箇条のうち、前二箇条は、法然聖人の七箇条制誡の伝統を引 き継ぐものであるが、その理由を阿弥陀如来のお手回しという観点から説明してある点 が特徴である。それによって最後の一条の、どうか信心をとって真実報土の往生を遂げ てもらいたいという一句が際立つことになっている。
 「先達より承りつたへし」「いくたびも他力よりさづけらるるところの」「ならふと ころなり」「祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつ」などの言い回しに、 全てを賭けて素っ裸で聴衆一人一人の胸に飛び込もうという上人の決意がにじみ出てい て、感動せずにはいられない。
 特に注目すべきは、「信心をとらしめて」という表現である。「信心をお取り下さい まして」というに当たる最高級の敬語表現である。この姿勢こそ、上人が親鸞聖人から 受け継がれたものだと思わずにはいられない。