出立の章 二帖目 第二通
出立の章 二帖目 第二通
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立ちなり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずし ...
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふこと ...
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞというに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立ちなり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずし ...
本文 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふこと ...
本文 それ、当流開山聖人のひろめたまふところの一流のなかにおいて、みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、所詮向後は、当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、また来集の面々も、各々に当門下にその名をかけんともがらまでも、この三箇条の篇目をも ...
本文 それ、当流開山聖人のひろめたまふところの一流のなか ...
本文 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり。後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄燿にあまるといふとも、盛者必衰会者 ...
本文 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは ...
本文 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。 そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにい ...
本文 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国におい ...
本文 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮らして年月を送るばかりなり、これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊よ ...
本文 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるも ...
本文 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへ ...
本文 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、ま ...
本文 それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、 ...
本文 それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過 ...
本文 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。こ ...
本文 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は ...
本文 南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかればなにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。 これを心得べきやうは、まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも南無阿弥陀仏の体は、すなはちわれら衆生 ...
本文 南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかれば ...
本文 そもそも、毎月両度の寄り合いの由来は何のためぞといふに、さらに他のことにあらず自身の往生極楽の信心獲得のためなるが故なり。しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄り合いといふことは、何処にもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつても ...
本文 そもそも、毎月両度の寄り合いの由来は何のためぞとい ...