至徳の名号 1

 无碍光如来の名号と

 かの光明智相とは

 無明長夜の闇を破し

 衆生の志願をみてたまふ

 「無碍光如来」とは阿弥陀如来のことでございます。衆生の悪業煩悩をもさまたげとせずにおさめ取って下さる光であるから無碍なる光と讃えられる如来なのでございます。  その無碍光如来の「名号」と申しますのは、「南無阿弥陀仏」という、お名乗り、お呼び声ということでございます。
 「かの光明智相」とは、その無碍光如来の名号に具わっているはたらきが、智慧の光明というものであるとのお示しでございます。
 「無明長夜の闇」とは、「無明」は、心の暗闇、疑いの闇のこと、「長夜」は、自分の力では、明けることがなかったはずの闇夜ということでございます。曠劫の昔より流転輪廻して疑いの闇の中をさまよって来たのが私どもであることを表します。
 その闇を「破する」とは、この南無阿弥陀仏に具わる智慧の光明はその無明の闇、疑いの闇を破って、心の夜明けをもたらして下さったということでございます。
 「衆生の志願」というてありますのは、仏となって、悩み苦しむ人々を救いたいという願いということでございます。そんな尊い願いなど、このわたくしは持っておりませんと言いたいところですが、「みてたまふ」と仰ってありますのは、身に具えさせて下さるという意味でございますから、持っているはずのない尊い願いが、南無阿弥陀仏とその光明のはたらきとして、身に具わることになる。如来の願力のなせるわざであるとのお示しでございます。

 法にそむき、真実に背を向け、如来から逃げることしか知らぬ者までもすべて、浄土に迎え取って仏にならせよう、そのためには、まずわたしが智慧も慈悲も限りない救い主となろう。そして、わたしの真実のすべてを南無阿弥陀仏の名に込めて、十方一切の仏たちの口を通して、あらゆるものの耳に届けよう。耳から心の中に忍び込んでゆこう。心の内側から、疑いの扉を押し開き、信心の光となって差し込もう。念仏の声となって叫ぼう。そう誓われたのが、阿弥陀如来でした。法蔵菩薩だったいにしえの本願でこざいます。
 法蔵菩薩の五劫思惟の本願も、その後の永劫のご修行も全ては南無阿弥陀仏の名号に結晶して私たちに届けられているのでございます。ですから、親鸞聖人は、万行円備・円融至徳の嘉号と讃え、大行と呼ばれたのでございます。

 そもそも、阿弥陀如来の名号は、『仏説無量寿経』には、「聞其名号」といい、『仏説阿弥陀経』には、「執持名号」といい、『仏説観無量寿経』には、「称南無阿弥陀仏」と示してございます。
 この「名号」という文字の元来の意味が、なかなか味わいのあるものでございます。「名」は夕と口を合わせた字です。日が暮れて暗い闇の中では、そばにいても相手にはわからないので、口を開いて、「奈々ちゃん、お母さんよ」と名乗りをあげるという意味の字でございます。常に阿弥陀如来がそばにいて下さっても、わからないでいる私に、お前のそばにいるよと名乗って下さるすがたが「南無阿弥陀仏」だということになります。「号」は、大声で、声を嗄らして呼びかけるという意味の字です。名乗っても、名乗っても背を向けて逃げ去ろうとする私ゆえに、大声で呼びつづけていて下さるすがたが「南無阿弥陀仏」だということになりますね。
 このことを知れば、「南無阿弥陀仏」がお祈りの呪文とは全く別物であることがはっきり致します。私から如来への呼びかけではなく、如来から私へのお名乗り、お呼び声であったわけでございます。
 けれども、こういう疑問が湧いてこないでしょうか。「南無阿弥陀仏」は、私たちが称えるのであって、私たちがお念仏申すのではないのでしょうか。阿弥陀如来が目の前に現れて、私に向かって、「南無阿弥陀仏」と仰るのなら、如来から私へのお名乗り、お呼び声であるというのはわかります。称えるのは私なのに何故如来からのお名乗りといえるのでしょうかと。