生死出ずべき道

  若く元気な時はひたすら生の永続を願い、死を何よりも恐れます。しかし老いて病に苦しむ身ともなれば、もうそれ以上の生を願う元気もなくなるのが私たちでありましょう。最後に与えられる万人平等の安らぎこそ「死」であると言えるはずなのであります。

 ところがそうは言えない。そうは思われないのが正直なところではないでしょうか。人生の終着点を素直に受入れられない。ましてや、とても喜ぶ気にはなれない。

 何故か。そもそもが、「生」を、誕生を、この世に人間と生まれてきたことを、あり難いと思えない。ようこそと、よろこんだことがない。「生」をよろこぶことを知らぬものがどうして「死」をよろこべましょうか。 要するにまだ本当の、本物のいのちを生きたことがない。まだ生きていないのにもう終わっては困るのでございます。それでは終わりではなく破綻である。絶望である。予定外の悲劇である。何かがおかしい。こんなはずではない。このままでは死ねない。死ぬことなんか考えたくもない。違うんだ、何かが違うんだということにならざるを得ません。

 自分が自分に成れないまま時を過ごしてきた。自分が生き物である、死ぬものである、だからこそ、死をも安らかに受入れ、死を賜り物といただけるような自分にならなければならない。そんな生き方をしなければならない。それが宿題だったのでございます。

 未だ宿題をしていない。まだまだのはずだった。もう夏休みが終わるとは・・・そう感じるが迷える人間の相場というものではないでしょうか。

 これを「生死」ということばで表しまして、迷い・苦しみ・空しさを言うのでございます。これが仏法の出発点、課題ということになります。それで仏法とは「生死出ずべき道」とこう示されるならわしなのでございます。

 これを言葉を変えて、「後生の一大事」という言葉で示されたのが蓮如上人です。「生死出ずべき道」というより、もっと私たちの実感に引き寄せた表現になっていることに気がつきます。ただ毎日をいたずらに明かし暮らして、人間に生まれたことの意味をたずねることも忘れ、いつまでも今日のいのちが続くような錯覚に陥っていてよいのかという厳しい問いかけの響きがあります。 また、これを現在のことばで、「いのちをかがやきを見つめ直す」と言い表しておりますのが宗門の基幹運動計画書でございます。

 最初に唱えさせていただきました『三帰依文』にあります通り、仏法は人間に生まれたこと、今人間としてのいのちを与えられてあることそのことの不思議さ・尊さ・あり難さを教えておるのでございます。いのちのかがやき、いのちのよろこび、いのちの真の実りを、「受け難くして今すでに受け、聞き難くして今すでに聞く」すなわち「あり難い今を戴いている」という表現で示しておるのでございます。

 そしてその感動とよろこびの具体化として、身も心もあげて、人格完成者・人間の完成者・いのちのかがやきの究極である仏に帰依するのであります。迷いを破って安らがせ、いのちに火を点じて燃えあがらせ輝かせる、不滅の法に帰依するのであります。よきひとびとの和合せる集いに帰依するのであります。
 

 「生死出ずべき道」「後生の一大事」「いのちのかがやきを見つめ直す」というこの仏法のテーマはそのまま、私たち一人一人の生涯をかけた大問題でございます。
 生死出ずべき道は二つに示されました。一つは大聖釈尊の生き方にならってわたしも釈尊のように修行し、釈尊と同じ道(さとり)に至ろうという道。聖道門と呼ばれます。これは難行、こちらからさとりに近づく自力の道。世間のかんがえる仏法は大抵この発想法です。
 もう一つは釈尊が自分のまねのできないものにも救いの道ありと説かれた念仏の道。浄土に往生してさとりに至り、この世に帰り来てあらゆるいのちを導く道。浄土門と言います。この一生を、阿弥陀如来の久遠の真実、南無阿弥陀仏を光りと仰ぎ、いのちといただき、力とたのみつつ生きる道。迷いのまま、なやめるまま、おろかなまま、「如来大悲の恩徳は・・・・」と歩む道でございます。 易行道とも他力とも呼ばれます。

  • 念仏をとなえているだけで、死んでから本当に極楽というところへ行けるのだろうか
  • 極楽というところが本当にあるのだろうか、死の恐怖を忘れるための、あるいは勧善懲 悪のための手段として昔の人間が考え出した妄想にすぎぬのではないか
  • 救われるというが、念仏をとなえていて一体どんな効能や得があるのか、死んでからの 極楽など現実的には何の力にもならぬというのと同じではないか
  • 念仏をとなえても本人のこころが清らかにも安らかにも楽しくもならないのでは何にも らないのではないか、
  • 悪心だらけの人間がとなえる念仏にそれほどの値打ちがあるはずがないではないか
  • 仏法など所詮は大昔の人間の夢に過ぎないのではないか、阿弥陀様など何処にいるか 

 これらのいろいろな疑いは、結局のところ、わたくしのものさしで如来の世界を計ろうとしていたから起こってきたのでございます。ちっぽけで浅ましいわたしこころで計れるようなものでない、広大無辺の如来様のまごころであるからこそ安心してまかせられるのでございます。生も死も、いただきものとおまかせして、一歩一歩を精一杯に、如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべしと歩ませていただくのが南無阿弥陀仏の道であったのでございます。

 わたくしのこころで仏法をわかろう、つかもう、会得しようとすればするほど、わいてくるものは疑いしかありません。如来様の方へ悟りの世界の方へと、少しずつでも近づくはずが、ちかずこう近づこうとすればする程、見えて来るものは己れの浅ましさばかりです。結局は「仏とも法ともない」自分の本性に突き当たって、暗闇の中に一人しょんぼり座り込むばかりでございます。

 ところが、思いもかけないことには、そういうわたくしの心の奥底をとうの昔から見抜き通して、むこうの方から常に呼びかけ続けていて下さったのが如来様であり、仏法であったのでございます。

 「無量無辺の光りといのちの阿弥陀となって、そのお前の光りとなろう、お前のいのちとなろう。安心せよわたしがあなたの力である。南無とたのめよ、わたしを力とせよ」との久遠のいにしえ以来の悲願が今まさしく「南無阿弥陀仏」の呼び声となって、これを称えよ、わが名を呼べよとはたらきかけ続けていてくだざったのでございます。

 「生死出ずべき道」「後生の一大事」「いのちのかがやきを見つめ直す道」はわたしが探して見つけ、歩いていく道ではありませんでした。わたくしたちの思い・計らい・迷いを超えた如来真実からの呼びかけとして、誰の所にも本より届いていたのでございます。仏法の全体が、如来様のまことのありったけが南無阿弥陀仏になって、わたくしのところにいて下さったのでこざいます。背いても忘れても呼びかけ続けていてくださったのでございます。