非僧非俗ということ

二○○七年師走  岡西法英

 序に代えて

 一二○七年、建永二年(改元して承元元年)二月、「念仏停止令」が発せられ、四人の僧が死罪に処せられ、法然聖人・親鸞聖人等八人が流罪に処せられた。
 さかのぼる元久元(一二○四)年十月、延暦寺の衆徒、専修念仏の停止を座主真性に訴え、法然聖人これに応じて『七箇条制誡』を作って門弟を戒め、天台座主に起請文を送った。翌元久二年十月、処分保留に不満な南都北嶺の僧達を代表して、南都興福寺の僧貞慶は、所謂『興福寺奏上』を捧げ、九ケ条の過失を挙げて、専修念仏禁制を訴えた。
 裁決を下すべき院の御所は対応に苦慮し、裁可保留のままに過ぎていたところ、たまたま後鳥羽上皇の旅行中、上皇寵愛の二人の女官がにわかに法然聖人の弟子たちを呼び寄せて法会を催したことにつき、良からぬ風聞をもって讒言したものがあったため、激昂した上皇は、即座に、四名の者に斬首の刑、法然聖人以下八名は流罪、法然聖人の勧める専修念仏は禁制との裁決を下した。
 この事件は「承元の法難」と呼ばれて、真宗門流内では甚だ重要な意義を持つとされてきた。 『顕浄土真実教行証文類』の結文の初めに、「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず。洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇(後鳥羽の院と号す、諱尊成)今上、(土御門の院と号す、諱為仁)聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りをなし怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」という。
 また直弟子唯円の書き残した『歎異抄』の後序の末尾には、「後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。ときに、興福寺の僧侶、敵奏のうへ、御弟子のうち、狼藉
子細あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。      中略

 親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よって僧にあらず俗にあらず、しかるあひだ、禿の字をもって姓となして、奏聞を経られをはんぬ。かの御申し状、いまに外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり」と伝えている。
 この事件は、ただ「ご開山さまのご苦労」でくくれるようなものではない。浄土真宗がこの世に出現したこと、その浄土真宗をよりどころとして生きることの意味が根本から問われたのであり、歴史的・社会的現実の中での念仏者の生きかたが具体的に問われた事件であった。
 宗祖は、『顕浄土真実教行証文類』序文の初めに、「浄邦縁熟して調達・闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて釈迦韋提をして安養を選ばしめたまへり」といわれた。阿弥陀如来の本願の真実が、浄土の光が、念仏のまことが、提婆達多と阿闍世の逆悪という機縁を生み出させ、韋提希夫人に釈迦の教えによって浄土往生を願わせ、これを通して万人に念仏の救いの道を開き示したのであるとの示唆である。
 今、承元の法難もまた、この国の歴史的現実を通して、阿弥陀如来の願力のもよおしによって、末代の悪人凡夫に救済の道が顕現するための機縁であったと見られたことを示すのが、前掲の「後序」の文であろう。それを象徴する指標こそ、「非僧非俗」という言葉であり、「愚禿」の名のりであった。
 後に述べるが、出家を要とせぬ在家の坊主・坊守・門徒によって構成された独自の宗門形態も、蓮如上人によって定められる「掟」もすべて、「非僧非俗」の念仏者を宗祖と仰ぐところから生み出されたものと思われるのである。

一、非僧非俗ということ

 「非僧非俗」とはどういうことかは、前掲の「僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」(『顕浄土真実教行証文類』)や、「親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よって僧にあらず俗にあらず、しかるあひだ、禿の字をもって姓となし」(『『歎異抄』)が明確に語っている。 僧籍剥奪の上で流罪に処せられたことが「非僧非俗」と称する理由であって、その他のことは示されていない。また「非僧非俗」は「禿」という字で表現されるという。
 禿という字は、「はげ」と読むときは、毛髪がないために髷が結えない状態を指す。「かむろ」と読むときは、頭に毛がないこと、あるいは髷を結わず下を切り揃えた「おかっぱ頭」のような髪形を指す。「とく」と読むときは、髷を結わない剃髪の頭の毛の伸びたさまを指す。『日本国語大辞典』によれば、「剃った頭の毛が伸びすぎているもの。また破戒無慚の人をいう」とし、出典として、『意見十二箇条』の「私に自ら髪を落とし猥り
がわしく法服を著る。 中略

 皆是れ禿首の者也。此れ皆家に妻子を蓄え、口に腥膽を啖う。形は沙門に似て心は屠児の如し」の文と、前掲の『顕浄土真実教行証文類』後序の文を掲載する。また「禿居士」の項には、「剃髪し、形は僧であって、半僧半俗の生活をしている人や堕落した僧をののしっていう語」とし、日蓮の『忘持経事』の「身は俗に非ず道に非ざる禿居士」を掲げている。
 これによって考えれば、「非僧非俗」とは、国家によって僧籍を剥奪され、俗名を与えられて断罪されたことを指し、もはや国家が認める身分としての僧ではなくなったということに他ならない。それは、当然のことながら法然聖人をはじめ流罪に処せられた八人全員に共通した事実である。
 僧という身分は国家権力によって位置づけられた世俗論理による身分に過ぎなかったことが明らかになったのが、この事件であり。僧もまた俗権の下の臣下に過ぎないことを思い知らせた事件でもあった。国家によって身分を保証され位置づけられた僧なるが故にこそ、しかもその宗教上の信仰内容を咎められて、聖道門の国家仏教学徒によって断罪を奏達され、流刑に処せられたのである。
 『僧尼令』によって、一度僧籍を剥奪されたもの、または自ら僧籍を離れて還俗したものは二度と僧籍には復帰できないという。しかし、この時代には流罪に処せられた人々も赦免されれば、復籍できたという説もある。ともかく、流罪によって僧侶身分に属さず、俗人身分にも属さぬ身分外の存在になった。まさしく「非僧非俗」の身分外身分となったわけである。ちなみに、姓の下に釋○○と法名を名乗るのは還俗僧の習わしであったという。愚禿釋親鸞という名乗りはその例にならわれたことになる。
 「非僧非俗」は、国家によって封ぜられた身分外身分としての地位を示し、身の置かれた事実を指したものであって、内面的心境とは無関係というべき言葉である。しかし、この事実の持つ意味の重さに注目して、「非僧非俗」と標榜した点にこそ宗祖の意志が示されており、そこに宗祖の独自性があったといえるであろう。

二、流罪事件のもつ意味

 では、この宗教的理由によって俗名を与えられて流罪に処せられたという事実に含まれる意味として宗祖が特に重視した内容とは一体何であったのか。以下に私見を述べる。
 まず第一に、国家の権威をよりどころとした僧俗の別の虚仮不実さ、無意味さが、露顕したということである。俗権の下の僧、神に仕える僧、世俗権力と一体の仏法という実態が孕む欺瞞性が露呈されたのである。まさしく、僧であることは世俗の論理そのものであったのである。 「主上臣下法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ」(『顕浄土真実教行証文類』後序)という言葉は、『仏説無量寿経』下巻五悪段のうちの第二悪について述べた一章からの取意引用と見られる。「義理なくして法度に順はず」「主上あきらかならずして臣下を任用すれば、臣下自在にして機偽多端なり」「たがひにあひ利害し、忿りて怨結をなす」等の語が出ていて、ほぼ趣旨が合致するからである。それは煩悩の論理でしか動くことのできない世俗権力の限界を語るものであり、すでにして仏智の見通したもうところであることを示唆するものである。
 事実、処罰の理由なしとして一年余りも裁決を下さなかったのを、愛妾を寝取られたと思い込んでの私憤・私怨にかられて、事件とは無関係の法然聖人他の八名にまで重罰を課し、専修念仏を禁制するなど、如何なる義理・法度をも逸脱したものである。

 問題はそのような世俗権力をたのみとし、これに仕え、これに訴えて、真実の法を葬り去ろうとした「南都・北嶺の仏法者」たちの姿勢であったといえるであろう。
 そのような仏教界の実態を宗祖がどのように見ておられたかは、『正像末和讃』の「悲歎述懐讃」に示されている。「外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり」「かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」「末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」「以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり」
 また、『自然法爾章』には、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほはおおそらごとのかたちなり」とある。
 だからこそ、みずからの姿勢を「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからずとおほせあり」(『改邪鈔』)というところに見いだし、「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」(同上)と口癖に言ったと伝える。この覚如上人の伝承は、後に蓮如上人によって、真宗の掟とされた。比叡山の衆徒によって専修念仏を指弾され大谷本願寺を破却された蓮如上人にとって承元の法難は過去のことではなかったからである。
 しかし、自らの識見に立って世のありようを批判するのではなく、阿弥陀如来の大悲願力のもとにすべてを見いだす宗祖は、自らをも悲嘆すべき存在として凝視したのであることは前掲の『和讃』中に、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」「無慚無慚のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の迴向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」「小慈小悲もなき身にて有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでか わたるべき」「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」等とあることで知ることができる。 ここに至っては、「非僧非俗」という事実は、仏智照護の下に内面化され、悲歎すべき自らとこの世の現実として見定められて、「愚禿」の名のりへと展開されていることがわかるのである。「愚」とは、後に述べる『七箇条制誡』の精神を受けたものであり、「是非知らず邪正も分かぬ身でありながら名利に人師を好む」「虚仮不実のわが身」ということを表し、「禿」とは剃髪の頭に毛が延びた「非僧非俗」を表すと思われる。
 朝廷から与えられた罪名は「藤井」であったが、勅免の際に提出した上奏の文には、藤井の姓を改めて「愚禿」と称し、中納言範光卿を仲介として上奏したところ、朝廷の重臣達がみな称賛したということが、『血脈文集』末や、『御伝鈔』下に見える。
 世人の評価はおいて、宗祖の存念を思えば、非僧非俗を象徴する名としての「禿」は、俗王から与えられた姓ではなく、願力のよおしによって授かったついのすがたとしての姓という意味であったであろう。

三、流罪事件の背景

 承元の流罪事件が起こった背景として、『顕浄土真実教行証文類』後序が挙げているのは『興福寺奏上』と、後鳥羽上皇に仕える女官と法然聖人の弟子との交流にまつわる「無実の風聞」である。後者についての詳細は不明であるが、前者の内容は残された文書によって知ることができる。
 元久元(一二○四)年(宗祖三十二歳)、十月に北嶺延暦寺の衆徒は専修念仏の停止を天台座主真性に訴えた。これに対し、翌十一月法然聖人は『七箇条制誡』を作って門弟を戒めるとともに天台座主に起請文を送った。

 宗祖の『西方指南抄』にも記載されている『七箇条の制誡』のあらましは大略次の通りである。

  1. さしたる学問もない身で真言天台の行を批判してはならない。われわれ愚人が学生のまねをすべきではない。弥陀の大悲を取り違えて誹謗正法の罪を犯してはならないのである。
  2. われわれ無智の者が智者に向かって論争してはならない。論争は煩悩を生む故、智者もこれをさける。ましてただ念仏の我々はなおさらのことである。
  3. 愚痴偏執のわれわれは、他の行を修する人にそれを捨てよと勧めてはならない。敬意を払うべきで、軽慢の心を起こしてはならない。
  4. 念仏門に戒行がないからといって、淫酒食肉をすすめ、戒律を守る人を嘲ることがあってはならない。本願を信じるものは悪を犯すことを恐れるななとと言ってはならない。善導大師の行状を模範とすべきである。
  5. 是非も弁えぬ愚痴の身で、勝手な自説を立てて論争を企て、無知の人々を惑わしてはならない。邪義・外道の横行こそ悲しむべきことである。
  6. 愚痴暗鈍の身が説法することを好み、種々の妄説を説き、無知の人々を教化しようなどと思ってはならない。仏法をねじ曲げる罪は甚だ重い。このようなものは国の賊である。
  7. 邪法を説いて正法と称し、勝手に師範の説と号することは許さない。この上この制法に背く者は、もはや予が門人ではない。魔物の仲間である。二度とわが草菴に来てはならない。

 元久元年十一月七日      沙門源空
 信空以下連署      浄土宗に伝えるものには綽空の名が八十六番目に見える已上二百餘人連署了

 これは、法然門下における掟という体裁を取っている。後の蓮如上人の『御文章』に頻出する「当流の掟」の原型というべきものである。一貫しているのは、自らを愚痴の身であると見定めて、智者ぶるまいをしないという戒めである。この点は後に挙げる『一枚起請文』とも一致する。 また、同日、法然が天台座主真性に送った起請文(誓約書)の内容は大略次の通りである。
 「わたくしはかつて天台の学問を修めましたが年老いた今はひとえに浄土を願う身となりました。仏教の伝統を たずねた結果で、我がはからいではありません。しかるにわたくしが、念仏のみを勧め、他の道を謗るために仏教諸宗が荒廃してしまったという噂を聞き驚き恐れております。そのことが叡山でも物議をかもし厳罰を加えよとの訴えがあると聞きました。自分のことで学僧方を悩ますことを恐れ多く思いますとともに、結果としては今後は謗法の者がなくなるであろうと喜んでもおります。
 
 弥陀の本願にも五逆謗法のものは除かれております以上、念仏者が正法を謗るはずはありません。聖道浄土の二門は異なっても、ともに生死を離れるための道であることに違いはありませから、浄土を願う者は決して華厳や法華を侮り捨てることはありません。
 わたくしが念仏を勧めるのは、老いさらばえた人々、落ちぶれた出家、出家もできなかった者たちなど、この世では何の成果も得ようのない人々です。すでにこのような人々のために仏の方便が用意されてあります。わたくしごとき者のはからいではありません。法門の優劣を論ずるより、われわれの機根に相応しているかどうかこそ斟酌すべきです。
 それでもなお、念仏をひろめることが仏法を滅ぼすということなら、停止もやむをえないかもしれません。学僧方の裁量を願うばかりです。
 わたくしは愚鈍の身ゆえ人を導くことにふさわしいとは思っておりませんが、しかもなお念仏の道を説き開こうとするのは、仏意を思ってやむにやまれぬからです。ただし、巷間によこしまな説が広がるために学僧方の追求を受けるということならば、当然です。
 以上の子細についてはすでに先年誓約書を出したところですが、今日叱責が度重なるにつき、放置できず衷情を述べて賢察を仰ぐのみです。ここに述べましたことが嘘あざむきでありますなら、日課七万遍の念仏もむなしく、現当に重苦を免れぬことと存じます。願わくは一切三宝、護法諸神この念仏の道を保証し、見そなわしたまへ。
 源空敬って申し上げます。元久元年十一月七日」
 ここには、南都北嶺の僧達からの激しい非難を受け、当惑していることを率直に認めながらも、わたくしたちは決して念仏の法におごってなどいるのではなく、聖道門から見捨てられた末代の下機を救う念仏の法は、とどめようしてもとどめようのない真実であって聖道門からの批判は当たらないものであるということを明確に述べてある。

 元久二(一二○五)年十月、朝廷から何の処罰もないことに強い不満を抱いた諸宗の僧達を代表して、興福寺の解脱房貞慶は専修念仏禁制を求める上奏文を提出した。所謂『興福寺奏上』である。そこには法然聖人の教えについて九箇条の過失を咎めてある。大略は次の通りである。

  1. 新宗を立つる失
     勅命にもよらず、さしたる学問的根拠もなく、確かな師資相承もなく、勅許も待たず勝手に新しい宗派を立てることは、思い上がりも甚だしい。
  2. 新像を図する失
     摂取不捨曼陀羅と呼ばれている画像を教材に用いているが、その絵の中で弥陀の光明は専修念仏の人のみを照らし、諸宗の学僧・修善の人を避けている。全く弥陀を念じないならともかく、弥陀を念じ西方をよろこぶものも余行ゆえに大悲の光明から隔てられるというのは道理に背くものである。
  3. 釈尊を軽んずる失
     余仏を礼せず、余号を称せずと、弥陀一仏を重んじて教主釈尊を忘れたかのような態度は、善導の礼讃の文句にも反するものである。
  4. 万善を妨ぐる失
     弥陀一仏の名号を執して余行を捨て軽んじ、謗る誹謗正法の門弟が多い。上人には謗法の心がないとしても、責任は免れない。謗法の者は弥陀も救わぬ。
  5. 霊神に背く失
     念仏の輩は神明と決別して、これをたのむものは魔界に堕ちるといっている。実類の鬼神はともかく、本地が仏たる垂迹の神々まで捨てるとは上代の高僧達の行跡に背くものである。末世の沙門たる我々は世俗の君臣すら敬っているのであって況んや霊神はなおさらである。このような暴言は決して許してはならない。
  6. 浄土に暗き失
     称名の劣行にとらわれて諸々の勝行を捨てるのは仏意に反するものである。朝廷において人事を発令するときに、賢愚を計り貴賤の家柄を尋ねる。愚か者は日夜に功を積んでも分際以上の職には任ぜず、下賤の者は公共のために尽くしても大臣公卿の位には進ませない。浄土もまたしかりである。九品の階級があり前世の行によって自業自得の理にしたがうのである。しかるにひとえに仏力をあてにして身の程をわきまえないのは愚痴の至りである。口だけの念仏でこの後生に往生できるはずはない。戒定慧の三学どれも欠けたままで何あてにしようというのか。
  7. 念仏を誤る失
     口に名号を唱えることなぞは観でも定でもなく、念仏の中にさまざまある中でも粗略 で浅い段階のものに過ぎない。末世相応、愚人相応という点ではそれで沢山だとはいう ものの他の高度な念仏に比較すれば大きな差があると知らねばならない。
     専修の輩は万事無視して「念仏往生は弥陀の四十八願中の第十八の願である」と答え るであろうが、称名の他に念仏がある。その念仏は心念であり、観念である。如来の本 願において、優れた心念・観念をさしおいて、劣った口称を取るなどということがあろうか。
     ましてや、善導は観門を行じて三昧を発得したのであり、観経の十六の想観を自行と されたに違いないのである。『観経』末尾の文、善導一生の行が、ただ弥陀の名号一つであるとするなら、それはあくまで機根劣った者たちを導くための方便に過ぎない。善 導の著書に示された解釈には表裏がある。慈悲と智慧によってさまざまな方便をめぐら されたのである。馬鹿の一つ覚えの連中は、自分たちの偏狭な謬見の責任を祖師に背負 わせようとしているのではないか。
     たとえまた口称ということに限ってみても、至誠心・深心・回向発願心の三心を具え 恭敬修・無余修・無間修・長時修の四修欠けることのない真実の念仏をこそ名づけて「 専修」とするのである。ただ余行を捨てるを以て「専」とし、口手を動かすを以て「修 」としているのは、「専」でもなければ「修」でもないといわねばならない。
  8. 釈衆を損ずる失
    専修の輩は戒律を無視しており、その風潮は国中に広まっている。人気を得ようとし てかえって法敵となっている。
     そもそも、往生極楽の教えにおいては盛んに戒行を勧めてある。浄土の業因はこれを 肝要とする。戒律がなければ六根守りがたく、煩悩起こり易い。そうなれば、心乱れて 念仏も清らかには修せられぬ。それでどうして浄土に往生できようか。
     真実の受戒ではなくても如説の持戒はできずとも、無戒・破戒を慚愧すべきところを 破戒をむねとして人心に取り入っている。これこそ仏法を滅ぼす大本である。
     京都の近国はもちろん、北陸東海等の諸国に至ってはなおさらであるという。勅命に よらなければどうして禁制し得よう。この上奏の趣旨、専らここにあるというべきか。
  9. 国土を乱る失
     仏法と王法はあたかも身と心のように支え合うべき一体のものである。近頃浄土宗が興って専修念仏が盛行している。皇室の慈政中興の時代とも言えようが、仏法修行既に 荒廃し、伝統諸宗は滅亡しようとしている。天下の混乱はただごとではない。
     願うところは、諸宗と念仏の共存であり、仏法と王道の両立である。しかるに、諸宗 は念仏を排斥しないが、専修の輩は諸宗を嫌って同座しようとしない。水と火のごとく どうにも共存しようがない。専修の輩の願いによれば、天下の仏事も法事も禁制される べきであろう。
     ああ、仏教界における問題は古来多かったとはいうものの、八宗共同の訴訟は前代未 聞のことである。事の重大性を訴えて、恭しく聖断を仰ぐ。望み請うところは、朝廷の 裁決によって、七道諸国に沙門源空の専修念仏が邪義であることを示して禁制を発せら れるように。さすれば仏法ますます栄え、王道ますます永遠となるであろう。

 〔そえて提出する奏上〕

 問題の源空は自分の一宗に偏執し、八宗を滅ぼす。天魔の所業であり、仏神は悲しん でおられるに違いない。そこで諸宗共同で朝廷に奏上しようとしていたところ、源空は 既に陳謝状を提出しており、問題にする程のことではないと院宣によって制止された。
  学僧達の嘆きはいよいよ激しいものとなり、特に比叡山は使いを出して糾弾したとこ ろ、源空は起請文を書いた。しかし、その後彼の弟子達が信者達に言うところでは「上 人の起請文の言葉にはみな表裏がある。本心はわからぬ。評判に惑わされるな」という ことである。その後も言っていることは以前と全く変わらぬ邪見である。今度の陳謝状 も前と同じことであろう。朝廷への陳述内容が本当でないということになれば、罪科は いよいよ重い。たとえ上皇の仰せがあったとしても、どうして明臣の進言がなくてよかろうか。
  それ故に、望み請うところは、どうか早く奏聞を経て七道諸国に一向専修の数々の過 失を禁制せられ、兼ねては源空と弟子らに罪科を行われるように。さすれば、永遠に仏 法破壊の邪執を防止し、かえって念仏の真の道が明らかになるであろう。

 第一の新宗を立つる失は、国家仏教を標榜しての権威主義からの専修念仏批判である。 第二の新像を図する失は、法然門下の教化活動が既存仏教の価値観と権威に従わないという批判である。
 第三の釈尊を軽んずる失は、南都(奈良)には阿弥陀仏を安置する寺はなく阿弥陀信仰一色になれば南都の寺々は忘れ去られるという危機感を背景にした詭弁である。
 第四の万善を妨ぐる失は、専ら念仏一行によって往生を願うことは、聖道門の万善万行を謗り貶め、廃れさせるものであるという過剰な反発である。
 第五の霊神に背く失は、専修念仏者が神仏混交から脱却したことこそ、朝廷の神道による宗教的権威を否定するものであるいう批判である。
 第六の浄土に暗き失は、誰でも称えられる念仏など下劣なものであり、下劣な行で下劣な者どもが、仏力によって、浄土に至って等しく仏になれるというのは甚だしい誤解であるこの世も浄土も厳然たる階級上下があるのだという批判である。
 第七の念仏を誤る失は、念仏にも高度のものから低級なものまで種々あるが称名の念仏は極低級なものに過ぎない。善導が称名の功徳を過度に強調するは下劣のものを導く仮の方便に過ぎないことを、専修の輩は理解していないという批判である。
 
 第八の釈衆を損ずる失は、戒律を問題にもしない専修の輩がはびこるために、仏法の基本である戒行が廃ってきているのだという批判である。
 第九の国土を乱る失は、鎮護国家の仏教に支えられた国家、国家権威を支えとしてある既存仏教の両方が、専修念仏によって根底から揺るがされようとしているという訴えである。そしてこのような八宗挙げて共同の訴えは前代未聞のことであるという。
 添え書きには、法然の門弟に対する七箇条制誡も、比叡山に出した起請文も本心ではなく、何ら態度は改まっていないから、直ち専修念仏を禁制し、法然師弟に罰を与えて欲しいと述べている。国家を拠り所として立つ仏教、国家の文教官僚としての僧の面目躍如たる意思表明である。
 この『興福寺奏上』は、法然聖人の専修念仏の教えが如何なるものであったか、また一方既存の八宗の僧侶たちの体質がいかなるものであったかをものの見事に語っている。  特に、第六の浄土に暗き失と第七の念仏を誤る失は信仰内容の核心についての批判である。罪悪深重の凡夫が称名念仏一つで浄土に生まれて等しく仏になるという法然聖人の教学の核心を的確にとらえた上で真っ向から否定している。
 このことによって、身分・学識・出家・在家・男女老少を問わず、何時でも何処でも誰でもが称えることのできる念仏にこそ、阿弥陀如来の究極の真実、広大無辺の大功徳が込められていたのであり、南無阿弥陀仏こそ仏法の全てであったという法然聖人の教えが、権力構造の一翼を担っていた当時の仏教界と、皇族・貴族・有力武家の子弟たちで構成されていた当時の僧侶社会にとって如何に衝撃的なものであったかを知ることができる。彼らにとってそれは、理解することはできても、とても受け入れられず、ついてゆけない教えであったのであろう。彼らの思想と論理、彼らの既得特権が生き延びるためには、この教えを邪執と断ずるほかはなかったのである。
 一方、朝廷の人々はどうであったか、比叡山や興福寺の訴えを無視すれば、神仏の罰が怖く、法然聖人を罰すれば自身の往生の妨げとなる恐れがあって、上皇も重臣たちも困惑して裁決延期を重ねるばかりであったらしい。

四、宗祖が流罪に処せられた理由

 裁決の出ぬまま、事態はますます深刻の度を加え、翌建永元(一二○五)年には、他宗誹謗の罪で安楽・行空が捕らえられた。そしてさらに翌年の建永二(一二○六)年二月、詳しい事情はわからないが、無実の風聞によって、風俗紊乱の罪で専修念仏禁制の裁可が下され、法然聖人以下八人が流罪に処せられたのである。南都北嶺の僧たちも、そこまでは要求もしていなければ予想もしていない過酷な判決であった。
 三百人を越えるといわれた法然門下の中で、入門してわずか五年の弟子であり、七箇条の起請文の末尾の署名も八十七番目でしかなかった宗祖が、何故わずか八人の中に入れられたのかは、不明である。既に公然と結婚していたからかという推測の説もある。『悲歎述懐讃』に示された思想を当時から公然と述べて聖道門批判の急先鋒と見なされたからという可能性もないではない。『顕浄土真実教行証文類』後序に記す通り、『選択本願念仏集』の書写と法然聖人の影像を許された数少ない高弟であったからとも考えられないことはない。
 しかし、激昂した後鳥羽上皇は別として、内心はこの余りに苛烈な処罰に対して同情的であったはずの重臣たち、既に影響力を失墜していたとはいえ、陰ながら必死で擁護しようとしたに違いない九条兼実、兼実の懇請を受けてであろうが遠流に定まった幸西と証空の二人の身柄を引き取った慈円などの存在を考えると、別の理由が浮かび上がってくる。 法然聖人は高齢ゆえ流罪になればその命さえ危ぶまれた。多くの高弟たちも高齢で流罪には耐えられないと見られたに違いない。後の赦免が法然聖人の健康悪化を理由とするものであったと伝えられることは事情をよく示している。法然聖人は責任者という立場上、上皇の激昂の矛先を免れないとしても、教団の中枢を担っている高弟たちまでも流罪に処すれば、専修念仏は本当に衰微するであろうと考えた周囲の人々は、弟子たちの中で誰を流すかに苦慮したはずなのである。内々で適当な人材を幾人か選びだすよう打診が行われた可能性が高い。調整役にぴたりの慈円がいたのである。
 そう考えれば、宗祖ほど適材の人物はなかったといえよう。年はまだ若く頑健で、法然聖人への崇敬ことに深く、共に流されることを厭うことはない。慈円からお前がゆけと言われれば躊躇なく応ずるに違いない人物である。

五、承元の法難の真宗史的意味

 この事件は、国家の権威・権力を証明したものではない。むしろ、国家というもの限界とそれに仕えることを自らの存在理由としてきた鎮護国家仏教の限界を意味するものである。国家と聖道門仏教は自らを被害者と位置づけ、浸食転覆されることにおののいて過剰反応したにすぎない。
 このような過剰反応を起こさせたものは、まさしく浄土真宗興行の力強さであり、浄土真実のはたらき(願力)のもよおしによるものに他ならない。それはまさに、『顕浄土真実教行証文類』序文の示唆通り、「浄邦縁熟して調達闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて釈迦韋提をして安養を選ばしめたまへり」という、末代濁世のただ中にはたらく願力の顕現であった。
 宗祖は、「大師聖人源空、もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」(『御伝鈔』上)と言い切られたと伝える。そこには、被害者意識は見られない、ただ「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひある」を見るばかりである。この文面からすれば、法然聖人は不本意にも流罪になった被害者ではなかった。そうなることを十分予測しつつ、あえて流罪になる道を選ばれたというのである。でなければ、自らの流罪を、「朝廷の恩」とすることは可能であったとしても、「師教の恩致」とすることはできないはずである。
 流罪に処したのは朝廷であるが、真仮の門戸を知らぬ鎮護国家の聖道門諸教を支えとして邪正の道路を弁えぬ洛都の儒林が裁量する朝廷を、動揺させ処断を下させたのは、法然聖人の威徳であり、処刑を「念仏の興行、洛陽にしてとしひさし、辺鄙におもむきて、田夫野人をすすめんこと年来の本意なり。しかれども時至らずして、素意いまだ果たさず。
いま事の縁によりて、年来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし。 中略     

 われたとひ死刑にをこなはるとも、この事いはずはあるべからず」と言い放って、流罪をも念仏弘通の機縁として生かそうとした法然聖人の生き方こそ、濁悪の直中に真実を顕現したものであるという見方が示されているといわねばならない。だからこそ、「朝恩」ではなく、「師教の恩致」なのである。
 この後、専修念仏停止令は幾度どなく繰り返して出される。宗祖在世中、始めは朝廷から後には鎌倉幕府からも出された停止令の回数は、主なものだけでも三十六度に及ぶという。裏を返せば禁じても禁じても専修念仏は広まる一方であった。後に日蓮聖人は「日本一州ことごとく法然の弟子となりおはれり」と嘆いたほどである。承元の法難は念仏弘興の端緒となったのである。
 聖道門の宗教的権威と国家の権力によって立つ朝廷、またそこに属する人々は、浄土の阿弥陀法王の願力を仰ぐ宗祖にとっては、悲歎すべきもの、あわれむべきものであって、恐れ憎むべきほどのものではなかったのであろう。「念仏申さんひとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏申しあはせたまひ候はば、めでたう候べし」(『親鸞聖人御消息』第二十五通)「ただひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまゐらせたまふになり候べし」(『親鸞聖人御消息』第四十三通)などの言葉が思い合わせられる。
  承元の念仏弾圧事件の主役は、処断した朝廷ではなく、流罪になった真宗興隆の太祖法然聖人であった。国家権力が顕示されたのではなく、浄土真実が顕現したのである。それが宗祖の見方である。

六、非僧非俗の掟

 承元の流罪事件を契機として生まれた宗祖の非僧非俗の名のりは、覚如上人を経て蓮如上人に受け継がれ真宗の掟となった。『改邪鈔』の「つねの御持言には『われはこれ賀古の教信沙弥の定なりと』云々。しかれば、ことを専修念仏の停廃のときの左遷の勅宣によせましまして、御位署には愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々。これによりて、『たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうに振舞うべからず』と仰せあり」という言葉の持つ意味は重い。
 賀古の教信沙弥は世に知られた往生伝中の人物であったらしい。沙弥とは、もともとは僧侶を目指して励む見習い中の出家を指すのだか、日本では、剃髪の身ながら妻子を持って在家生活をするものを指すのにも用いられた名である。もとは興福寺の学僧で唯識・因明に通じたが、後に学問修行を捨て、寺を離れて行脚の末に賀古に住んで称名三昧に生きた人物で、法然聖人よりさらにさかのぼる世代の人である。この教信沙弥の人物像について、『改邪鈔』は「この沙弥の様、禅林の永観の十因にみえたり」と注記を付している。 永観の『往生十因』によれば、播州賀古駅近くに妻子とともに暮らした。日雇い人夫で生計を立て、「弥陀の名号を称して昼夜に休まず、以て己が業」としたという。そのようにして三十年を経て死んだ後、妻子は嘆き悲しむばかりで葬送する術も知らず、野犬が屍肉を食い荒らしていたという。教信が永観の夢枕に現れ、往生を遂げた由を告げたため、永観が弟子を賀古へ遣わして状況を見聞させた。人々は教信の往生を尊んで家の回りを念仏しながら列をなして巡ったと伝える。
 また、『一言芳談』には、賀古の教信は、本尊も安置せず、聖教も持たず、ただ西側には垣もせずに中を開け、僧でもなく俗でもない姿で、常に西を向いて念仏していたと伝える。
 何の見栄えもなく、自ら誇るところもない生き方の中で、身をもって念仏を勧め、死しては屍までも衆生に施して往生を遂げたわけである。その教信沙弥の生きざまこそ、「牛盗人」と呼ばれる生きかたでもあったということである。
 
 『広辞苑』によれば、牛盗人とは人を揶揄する俗語で、愚鈍でのろまなことをあらわすという。法然聖人の「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道のともがらにおなじくして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」(『一枚起請文』)と符合する。
 ※一代の法とは、仏教の全てということ。尼入道とは、出家の僧尼に対する言葉で、在家の身のまま仏門に帰依して剃髪、あるいは髷を下ろして髪を首のあたりで切り揃えた男女をいう。
 ちなみに、宗祖の「某親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(『改邪鈔』)という言葉も、教信にならおうとしてのものであったと思われる。
 一方、「善人・後世者・仏法者とみゆるやうに振舞う」ことは法然聖人・親鸞聖人を断罪した聖道門の人々の基本スタンスである。「我に仏法あり」「我こそ仏法の伝持者なり」という立場に立っての専修念仏批判であった。そしてその対極にあったのが、牛盗人と嘲られた教信沙弥の非僧非俗の生きかたであったということである。「教信沙弥の定」とは、その生きざまを自らの範とし、それから外れないことを自らの掟とするということであろう。
 それは七箇条制誡以来一貫した専修念仏者の掟であったといえるであろう。それは、我に仏法あり、我仏法の護持者なりという立場から、専修念仏を非難した聖道の諸師たちに対する釈明である以前に、本願を信じ念仏を申すものの、自ずからなる方向性であった。 しかし、それが流罪事件という歴史事実を経た上からは、念仏を流罪にした人達と同じスタンスにだけは立ってはならないという鮮明な意味を帯びることとなったのではないだろうか。

結びに代えて

 承元の流罪事件以後、親鸞門流において、流罪の宗門であること・非僧非俗の宗風・仏法者後世者ぶるまいを戒める掟が重視され、現世をどう見るか、念仏者として現世をどう生きかについての視点とされたらしいことは、『顕浄土真実教行証文類』の後序のみならず、弟子の著した『歎異抄』の後序や、高田門徒系の『血脈文集』の末尾にも流罪記事が録されていること、本願寺覚如の『改邪鈔』には、流罪・愚禿・非僧非俗・教信の定などの言葉、仏法者後世者ぶるまいの戒め、『七箇条制誡』の引用がみられることなどからわかる。蓮如上人の「真宗の掟」も、この伝統を受け継いだものである。
 宗祖を流罪にした、本願を流罪にし、専修念仏を流罪にした南都北嶺の仏法者と同じ所に立ってはならない、我に仏法ありという仏法の護持者、護教者のふるまいをしてはならない、仏法を自己正当化の手段、権威の拠り所として利用する人間になってはならない、念仏を現世的欲心の満たす道具に利用してはならない。それが承元の流罪事件を契機として真宗が明らかにした掟であったといえよう。
 しかし、その掟を真っ向から破ってきたのが、その後の本願寺の歴史ではなかったか。巨大教団となった本願寺は門徒の数の力を背景として、経済力・武力・統率力を具えた一大権力となって世俗社会の一角に君臨するようになった。一向一揆は本願寺にとっては既得権益護持、宗教的権威護持の護教の戦であったし、門徒たちにとっては重税と厳しい武家支配を拒絶するための戦であったのであり、世俗的野心を果たすための、世俗的力すなわち武力による争いであった。北陸で大小一揆が仲間うちでの戦闘を重ねたことや、一揆が敗北しても本願寺の宗教上の機能はなんら失われたわけではなかったことはそのことを如実に語っている。俗諦が真諦を支え護るとした、いわゆる真俗二諦どころではない。俗諦と呼ぶのさえ憚られる武力で、真宗を護らねばならぬと本願寺宗主が号令を発したのである。
 しかるにまた、その世俗的実力が評価されてか、徳川幕府時代に入ると、本願寺はその存在を幕府によって認められ封ぜられて、東本願寺ともども、世俗権力によって公認された一大宗門となる。キリスタン禁制のための寺請け制度のもと、坊主たちは肉食妻帯のままで僧としての特別権益を保証されることとなった。非僧非俗とはまったく無縁な、そして世界の仏教史上前例のない、「俗僧」が誕生したのである。
 「真宗僧侶」とは、徳川幕府という世俗権力が与えた世俗的身分以外の何者でもなかった。そしてその身分にふさわしいたしなみとして、宗学が奨励され、長年手塩にかけて手入れされた盆栽の松のように見事な、本物の松より松らしい松として、宗学は発展を遂げたわけである。弥陀の救いの全体性を表す宿業観は、身分社会の現実を追認する論理と化し、主上臣下はその恩徳をひとえに感謝すべき有り難い存在とされるようになった。
 明治に入ると、神道を国教とする天皇親政国家のもと、徳川時代モデルを懐古する真俗二諦教学が教団の指導理念とされ、真宗僧侶は忠君愛国の国民道徳を涵養する使命を背負って「指導的立場」に立つものとなった。僧侶と寺院子弟の多くが教職に従事し、誇りある国家公務員となったものも多い。
 敗戦後、自らの現在位置と目標を見失った門徒たちの空前の寺参りブームがあり、その後の急速な産業構造の変化に伴う寺離れも起こったが、真宗僧侶のスタンスに大きな変化はなかったといえるかもしれない。部落問題や靖国問題など、内外から宗門と僧侶の体質を根本から問いかける契機はあったが、そのことから学びとりうる場に立っていなかったからではなかろうか。真宗僧侶は歴史的経緯の中で生み出された特殊な精神位置に立っているために見えるはずの足下が見えなかったのではないか。自問せずにはいられないのである。
 今日、わが宗門において、真宗の掟が語られることはほとんどないといってよい。『領解文』が暗唱されることはあっても、「定めおかせらるる御掟」とは何かは不問のままでおかれることが多い。この宗門ははるか昔から浄土真宗の正統伝持者を以て任ずる集団になっていたようである。
 真宗僧侶が非僧非俗であることを語る人は多いのに、真宗門徒も同じく非僧非俗であると語る人がない。真宗僧侶は非僧非俗という特別な鎧を着した僧以上の存在であるのだろうか。
 一向一揆の時代以降永く置き忘れられた流罪事件の意味、非僧非俗の認識、真宗の掟をもう一度尋ねなおし、その精神をくみ取りなおすことが必要と思われる。

※参考

『改邪鈔』(覚如)

 一、遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を著し黒袈裟をもちゐる、しかるべからざること。
(略)かのともがらは、むねと後世者気色をさきとし、仏法者とみへて威儀をひとすがたあらはさんとさだめ振舞歟。わが大師聖人の御意はかれにうしろあはせなり。      (中略)
これによりて、たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからずとおほせあり。

 一、わが同行ひとの同行と簡別して、これを相論する、いはれなき事。
曾祖師源空聖人の『七箇絛の御起請文』にいはく「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者これを遠離すること百由旬、いはんや一向念仏の行者においてをや」      以下略

 『一枚起請文』 源空述

 もろこし(中国)・わが朝(日本)に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の 念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
 ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申して、疑いなく往生するぞと思ひとりて申 すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無 阿弥陀佛にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
  念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になし て、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に 念仏すべし。      為証以両手印

「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人は仰せごとありしか。あなかしこ、あなか
しこ。
 『親鸞聖人御消息』第六通
    
「領家・地頭・名主のひがごとすればとて、百姓をまどはすことは候はぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり」
 『親鸞聖人御消息』第二十八通
    
「末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」
 『正像末和讃』悲歎述懐讃
    
「もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり」
 『歎異抄』第二条
    

 宗祖流罪八百年によせて
 非僧非俗ということ
             岡西法英