後生の一大事

 かってはご法義の核心をあらわすことばとして日常生活の中に生きていたのに近頃はとんと聞かれなくなってしまった言葉が「後生の一大事」です。

 あるお寺の控え室に「後生の一大事とは今日ただ今ということ」という標語ボスターが貼られていました。「後生」とはいのち終わってからのことのはず、それがどうして「今日ただ今のこと」になるのかとすっかり考えこんだことがあります。

 「後生」はまた「後世」ともいい、「現生」「前生」あるいは「現世」「前世」また「過去世」に対する言葉です。

 仏教伝来以前からの日本人の観念では、この世(生前)とあの世(死後)との二つの世界があるということのようです。ところが仏教の説くところはこれとはずいぶん違っています。「三世十方」という言葉にそれがよく表れています。

 現世の後に後世があるのみならず、現世の前には前世があり、その前世の前にはそのまた前世があり、さかのぼれば久遠のいにしえ、いや無始以来の生死のくりかえしがある。記録にも残らぬいのちの歴史がある。いのちあるもの、生まれたものは必ず死ぬが、死んで「あの世」というもう一つの世界にいくのではない。消え去るのでもない。かたちを変え、時と所を変えてまた生まれ、生き、死ぬのである。ひとつ一つのいのちは無数のいのちの過去の積み重ねの上にある。しかも世界は一つや二つではない。十方にガンジス川の砂の数よりなお多い無数の世界があり、無量の如来が現れては隠れたもう。このように説かれています。

 釈迦如来の歩まれたさまざまな前生の様子が「ジャータカ」物語としてたくさん伝えられています。修行者であったり、鳩であったり、鹿であったり、猿であったりといろいろな生き物がみな釈迦の前身、過去世のすがたとして説かれています。身を捨てて慈悲を行じ、限りある命を捨てて不滅の真実を求める数知れぬいのちのあゆみの上にいのちの完成者釈迦如来の出現があったのだということでありましょう。

 そして、阿弥陀如来の久遠のいにしえの前生のことが法蔵菩薩とその誓願の物語として説かれているのが『仏説無量寿経』上巻です。無始以来の生きとし生きるものの迷いと苦悩のはてしない歴史の全体を背負って立って下さったのが阿弥陀さまであることを知らせて下さっています。

 記憶喪失になった人を題材にしたドラマを見て気づくことがあります。過去を失ったら現在を失う。現在の中身が空になる。現在の意味がわからなくなる。そしてめざすべき未来をも失ってしまう。過去とは現在を構成している現在の内容であり、未来は現在がまさにそこに向かっている方向のことだということです。「過去未来現在」という言葉が経典に出できますが、「過去を内容とし未来に向かう現在」ということを表していると思われます。
 

 夏に世に出て夏に死ぬ蝉は春も秋も知りません。だから夏の盛りを生きながら夏ということを知りません。春を知り秋を知る人間は、まだ鳴かぬ先からやがて蝉が鳴くことを知っています。しきりに鳴いているさなかにも鳴き声がもうすぐ消えることを見通しています。蝉の命のはかなさを知っています。物心がついてから意識を失うまでの現世しか知らない人間、前世も知らず後世も知らない私たちは、実は現世の意味もまたわからない。現世の意味を知るのは、久遠のいにしえ以来のいのちの歴史、目には見えない迷いと苦悩のはてしない過去を知り通し、このいのちの帰する先をも見通したもう如来の智慧の眼より他はないのでありましょう。

 遠い過去に思いをいたさずして未来を見通すことはできません。後生を思うことはそのまま久遠以来の世世生生のわが身をたずねることでもあるのです。そしてそれは今日ただ今の底知れぬ重さに出遇うことでもあります。また「一切の有情は皆もて世世生生の父母兄弟」と世の人々や他の生き物のすがたを「そのまま過去世のわがすがた」「ともに共に」と共感をもって受けとめていこうとすることでもあるはずです。

 これらのことを知ることができるのもわたし達がこの度は稀にも生まれ難い人間にうまれたればこそです。過去世をたずね後生を思うことは、しかし私たちの分別や知恵を越えたことです。仏の教えをわがこことと聞き味わう中でうなずくよりほかはありません。

 無始以来の今、まさに今をどう受けとめどう生きるのか、どこへ向かおうとするのか、それが後生の一大事。久遠劫来この身にかけられた如来大悲の呼び声を聞き開いて、このいのちの帰すべきところをさだむべきは今、というの