因幡の源左の言葉
源左の発言をたどってみると、信心に裏打ちされた揺るがぬ視点、自由闊達な智慧を 感じます。これを親鸞聖人は「信心の智慧」と呼ばれました。
しかし、一方では、法然聖人以来の伝承として、「愚に帰る」「愚者になる」ことこ そ念仏者の心得であると示されてきました。即如門主も、『愚の力』という著書の中で 愚者としての生きかたの大切さを訴えています。
要するに人が阿弥陀如来の慈悲を知ることによって与えられる信心の智慧とは、己の 愚を知り、愚者に立ち戻って、阿弥陀如来の慈悲の光を仰ぎつつ生きることだといえましょう。
問い
- 私たちを愚者に立ち戻らせる阿弥陀如来の慈悲とはどの様な慈悲だったのでしょう。
- 阿弥陀如来のおたすけ、浄土真宗の利益とは何だったのでしょう。
※源左の残した言葉をヒントに、自分が源左になったつもりで考えてみましょう。
味わいのヒント
『八万の法蔵章』は言葉の使い方が逆転していますが、言わんとする意は同じです。
「たとひ牛盗人とは呼ばるとも仏法者・後世者とみゆるやうにふるまふべからず」という真宗の掟の意とも考え合わせてみましょ。
また、本山参詣の際の汽車の中で若い夫婦がしきりに口げんか。「先方の両親があんたを信じて、くれた嫁だで、それを思うて大事にしてあげなはれ」と言った。
また、「あの人は異安心で憎い奴だ」と言うのを聞いて、「憎いかいのぉ。おらぁ、あの人がかわゆうてのぉ」と言った。