帰依三宝の意

礼讃文(三帰依文)

〔講師独誦〕(取意釈)
人身受けがたし、今すでに受く
仏法聞きがたし、今すでに聞く
この身今生にむかって度せずんば
さらにいずれの生にむかってか
この身を度せん
大衆もろともに至心に
三宝に帰依したてまつるべし
 はからずも人間に生まれ得たことほどの幸せはなく、求めざるに仏法を聞き得たことほど喜ぶべきはない。
 この命あるうちに、苦悩を離れ、思慮を超えた不滅の真実を見いだすことがなかったら何時、何に生まれたときに迷いを捨てようというのか。
 命あるすべての者とともに心から仏法僧の三宝に帰依したてまつろうではないか。
〔会衆一同〕 
自ら仏に帰依したてまつる
まさに願わくは衆生とともに
大道を体解して無上意をおこさん

自ら法に帰依したてまつる
まさに願わくは衆生とともに
深く経蔵に入りて智慧海の如くならん

自ら僧に帰依したてまつる
まさに願わくは衆生とともに
大衆を統理して一切無碍ならん
 自ら仏に帰依したてまつります。願わくはあらゆる命あるものとともに、大いなる覚りを得て世の光となろう。

 自ら法に帰依したてまつります。願わくはあらゆる命あるものとともに、深く仏教を学んで海の如き智慧を得よう。

 自ら僧に帰依したてまつります。願わくはあらゆる命あるものとともに、障りなく人びとを導びこう。
〔講師独誦〕 
無上甚深微妙の法は
百千万劫にもあい遇うことかたし
われ今見聞し受持することを得たりねがわくは
如来の真実義を解したてまつらん
 この上なく深くすぐれたこのみ教えは、果てしない時の中にもなお遇い難い。わたくしは今、聞くことを得、心に刻むことを得た。願わくは、如来のみ教えの真意を領解させて頂きたいものである。

 ただたのむべきは弥陀如来、ただねがふべきは極楽浄土、これによりて信心決定して念仏申すべなり(蓮如聖人) 要約して示してある。

帰依三宝は仏弟子としての出発点である。これの儀式的形態が帰敬式(おかみそり)である。仏弟子になったしるしに法名を授けられる。

 おのれの願望を果たせるよう何者かに祈るということを捨て離れて、三宝をよりどころとして生きようと決意することは、仏になることを願って法を聞き、法に従い、共に三宝に帰依する同朋を敬い、一切衆生の救済を願うということであって、我執(エゴイ ズム)を超えて生きようとすることである。この点こそ、仏教と邪偽の宗教との分かれ 目である。九十五種の外道は見愛我慢の心を離れず、愛見の坑に陥ちる道だとの指摘が 親鸞聖人の『顕浄土真実教行証文類』化身土巻の引用文に見られる。

 帰依すべきものに遇い得たということこそ、仏教がもたらす利益そのものである。それは、老・病・死をまぬがれず、ままならぬまま生きてゆかねばならぬ人間にとって、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・悶えのただなかに、安らぎと喜び、勇気と励ましを見いださせるものである。

 三宝に帰依した喜びの中から、生涯かけて三宝を尊び敬い、三宝に仕え、その尊さを世の人々に伝え広めようとする営みが生まれる。その典型が供養三宝の儀式、すなわち法要である。自ら供養三宝の儀式を主催し、或いはそれに参加することで、新たに三宝に帰依する人が生まれることを願うものである。

 帰依とは、よりどころと仰ぐことである。

 仏とは、梵語ブッダの音写で、目覚めた人という意味。また真如の具現者という意味で如来とも呼ばれる。
 『仏説無量寿経』によれば、その特質を「光顔巍々」と、この上なく気高く光り輝く顔で象徴してある。そしてその光は、仏の心の中から溢れ出たものであって、その心とは、「世に興出したまふ所以は道教を光闡して群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」という一切衆生救済への願いに燃えているからである。その仏願の究極の ものこそ阿弥陀如来の四十八願にほかならない。
 この経を説くときの釈迦如来も「光顔巍々」、法蔵菩薩が世自在王仏を讃えた言葉も「光顔巍々」で、人間が人間として真に実り、不滅の輝きを放つ存在となりえたことを表す。
 真宗においては、教え主の釈迦如来と、その背景に釈迦を娑婆世界に送り出した阿弥陀如来、そして釈迦同様に十方に現れたもう諸仏を総称して、「釈迦・弥陀・十方」如 来と呼ぶ。中心は阿弥陀如来である。

 法とは、梵語ダルマの意訳。釈迦の教えを指す。
 釈迦の教えは多岐にわたり、八万四千の法門と呼ばれるが、真宗においては、本願念仏の法を所詮とする。

 僧とは、梵語サンガの音写で、和合衆と意訳する。仏弟子の集いを指す。真宗においては、この世界の仏弟子のみならず、浄土に集う已・今・當の往生人等を含めていう。