聖人一流の章 五帖目 第十通

本文

 聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。
 そのゆゑはもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。
 その位を「一念発起入正定之聚」とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、信心為本の宗義を述べる)
 念仏の道はさまざまの流れに分かれて伝えられてまいりました。今、親鸞聖人によって伝えられた教えの主旨は、信心を中心となさった点にあるのでございます。

 (次に、その信心とはいかなるものかを述べ、信心を得ると同時に広大な利益が与えられることを示して、信心を本とする理由を明らかにする)
 では、何故信心を本とされたかと申せば、念仏以外のさまざまな自力の行には目もくれず、ふたごころなく疑いなく、阿弥陀如来なればこそ、このわたしを必ず救うと仰って下さるのだと、仰せを受けとめる信心を得たならば、それだけで、阿弥陀仏の方から、必ず往生する身に定めて下さるからなのでございます。

 (転じて、この信益同時の理は、すでに曇鸞大師以来うけつがれてきた真宗教義の根幹であることを示し、信を得て往生が定まった上の称名は、わが身の往生を願って功徳を積むというようなことではなく、救いを喜んでの報恩のいとなみであると心得るべきことを説いて結ぶ)
 この位を曇鸞大師は「一念発起入正定之聚」(信心起こるとき往生もまた同時に定まる)とご解釈なさいました。
 この上の称名念仏は、阿弥陀如来がわたしの往生を確定して下さったことに対する御恩報尽の念仏であると心得るがよろしいのでございます。
 まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でごさいます。

参考

  • 聖人一流
    一流は他流に対す。同じく本願の念仏を承けた法然門下の中の他流に対して親鸞聖人によって受け継がれ、他流に異なる独自性を持つ浄土真宗を指して言い、かつは、同じく親鸞聖人を祖と仰いではいても、教学上の差異ある他派に対して、一流という。
  • 信心をもて本とす
    「往生の業は念仏をもて本とす」という法然聖人の教えの真意を明らかにしたことば。「念仏」の中には、内なる信心と外に現れる称名の行の二つが含まれている。往生の正因(決定要因)となるのは信心であり、称名の行は報恩の営みであることを示されたのが親鸞聖人である。この教義を「信心正因称名報恩」と言い習わす。
  • もろもろ(諸々)の雑行
    雑多・疎雑の行、浄土を願う上では的外れの行。これを行ずるのは自力の心、疑いの心。
       五正行に対して、その他を雑行とする。
       ・読誦正行   浄土三部経を読誦する。その他の経の読誦は読誦雑行。
       ・観察正行   弥陀とその浄土を観察する。他を観察するは観察雑行。
       ・礼拝正行   弥陀一仏を礼拝する。他の仏を礼拝するのは礼拝雑行。
       ・称名正行   弥陀の名号を称える。他の仏名を称えるのは称名雑行。
       ・讃嘆供養正行 弥陀一仏を讃嘆し供養する。他は讃嘆供養雑行。
  • 一心に弥陀に帰命す
    二心なく弥陀の仰せにしたがうこと。信心の相をあらわす語。
    ※「世尊 我 一心帰命盡十方無碍光如来 願生安楽國」このみ教えを説き残して下さった世尊(釈尊)に申し上げます。あなたの仰せを今被りましたこの私は、あなたの教えの通り(一心に)、十方世界ことごとくを照らしてさまたげられることのない光である阿弥陀如来の仰せを我がよりどころと仰ぎ、その安楽の世界に生まれようと願わせて頂きます。〔天親菩薩の浄土論の第一句〕
    ※唯、たのむべきは弥陀如来、唯、願うべきは極楽浄土、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。第三帖四通「大聖世尊賞」章
  • 不可思議の願力
    人間の思い計らいを越えた、本願のはたらき。いかなる悪重きものも南无阿弥陀佛を聞かせ信じさせ称えさせて、浄土に生まれさせ、仏にならせようという誓願が、現にはたらいて釈迦の教えとなり、私の信心となり、往生が確定すること。
  • 仏の方より
    願力、他力をあらわす。「如来、我が往生を」というのも同義。
  • 治定
    決定すること。
  • 一念発起入正定之聚
    一念は信心の異名。発起は起こること。正定之聚は正しく成仏の定まったともがらの意。信心を得ることは、すなわち往生成仏が定まることであることをあらわす。曇鸞大師の『浄土論註』上巻の意による。
    ※「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」『浄土和讃』(大経讃)
  • 御恩報盡
    曇鸞大師は前掲『浄土論』の「世尊」の語を、知恩報徳のすがたと釈された。如来の仰せを我がためと受けとめ、如来の願いに応えようとする思いの現れであるとされたのである。御恩報盡・仏恩報謝というも同義。
    ※報恩はご恩返しではない。広大無辺で返しようもないのが仏恩である。「仏恩のために名号をとなへて、仏にまいらするはかへものなり、自力なり。名号をとなふるは御たすけのありがたやありがたやと申す心なり」

意訳       

 仏の恩に対する恩返しにしようとして、名号を称えて、仏に進呈するというのは、交換取引の思いであり、自力である。(信をえて)名号を称えるのは、お救い下さることをありがたいありがたいとよろこばせていただく意味である。〔蓮如上人の法語〕

※称名念仏が報恩となる理由は、南无阿弥陀佛を聞かせ信じさせ、称える身にならせたいということこそが弥陀如来の願いである故である。
 善導大師は「自ら信じ人にも信じさせることは、(願力のもよおしによらないでは)難中の難である。如来の大悲を広く世に伝え普く導くことこそ真に仏恩を報ずるものである」といわれた。自ら信じて称名念仏することは如来の十方衆生救済の大事業に参加すること、それが報恩となるのである。

私釈

 一流の安心(信心)の次第」を「かるがると愚痴の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び百の物を十に選ばれ、十の物を一に、はやく聞き分け申す様にと思しめされ」て著された御文章の代表がこの「聖人一流章」である。八十通の御 文章の中で最も短く、わずか一五〇字である。
 内容は、信心正因・称名報恩(往生は信心で定まる、称名は報恩である)、信益同時(信心を得るとき即ち往生定まり、報恩の人生が始まる)の宗義を述べたものである。
 出典根拠は天親菩薩の『浄土論』と曇鸞大師の『浄土論註』である。聖人はこの二師の名から親鸞の名を承けられたのである。
 特に目すべきは、この短文の中で同じことを二度繰り返して言ってある点である。すなわち、「仏の方より往生は治定せしめたまう」「如来わが往生をさだめたまひ」とある。阿弥陀如来がわたくしを、阿弥陀如来からわたくしにということである。これが他力ということである。他力という言葉を用いずに他力の救いを明らかにしてあるのである。