五劫思惟章 五帖目 第八通

本文

 それ五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に
往生すべきいはれなりとしるべし。
 されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
 これによりて、いかなる十悪・五逆・五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなもらざずたすけたまふべし。
 このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の報土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、南無阿弥陀仏とは何であるのかを述べる)
五劫思惟の本願、兆載永劫の修行ということが『仏説無量寿経上巻』に説かれております。私たち一切衆生を無条件に救うための手だてとして阿弥陀如来がご苦労下さって、南無阿弥陀仏であらゆるものを救おうという本願(第十八願)をお立てになり、「迷いの衆生であっても、二心なく疑いなく阿弥陀仏を信じ、念仏以外のあらゆる行を捨ててひとすじに阿弥陀仏をよりどころとするものをたすけられなければ覚りを開くまい」と誓って下さって、南無阿弥陀仏になって下さったのだということを知らせるためでございます。ですから、南無阿弥陀仏は、私たちがたやすく極楽に往生することのできる道理を表したものであると知ることができます。

 (次にこれをうけて南無阿弥陀仏の六字の意味を明らかにする)
 このようなわけで、南無阿弥陀仏の六字は一切の衆生がわけへだてなく真実報土に往生することができる道理を表しているのです。と申しますのは、南無と帰命すれば、たちどころに阿弥陀仏が我らをたすけて下さるという意味だからでございます。それ故、「南無」の二字は衆生が阿弥陀如来に対して、「ようこそ後生をおたすけ下さいます」と申し上げる意味になります。このように阿弥陀如来をたよりにする人を、もらさず救いたもうというのが「阿弥陀仏」の四字の意味であったと受け取らせていただけばよいのでございます。

 (さらに転じて、悪人も、南無阿弥陀仏はわたくしを救うために声となってより添って下さっている阿弥陀様そのものであると受け取る信心一つで、往生することができると励ます)
 以上のようなわけでありますから、いかなる十悪五逆、五障三従の女人であっても、さまざまな自力の行を捨てて、ひたすら「阿弥陀如来が後生をたすけて下さる」と信ずる人をば、たとえ十人であろうと百人であろうと、一人ももらさずたすけて下さることは間違いないことでございます。

 (最後に、信を勧めて結ぶ)
 この趣旨を疑いなく信ずる者は、真実の弥陀の報土に往生することができるのでございます。まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 五劫思惟の本願、兆載永劫の修行
    「三世の諸仏にも捨てはてられたるあさましきわれら凡夫女人をわれひとりすくわんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪五逆謗法闡提の輩なりといふともすくはんと誓ひましまして」(三帖目第一通)
  • あながちに
    強いて、無理やりに、何が何でも。
  • 方便
    ここでは・・のために、てだてとしての意。
  • 南無阿弥陀仏という本願
    第十八願、・選択の本願・念仏往生の願・至心信楽の願。南無阿弥陀仏になって衆生の心に飛び込もうという本願であることは、『重誓偈』の「重誓名声聞十方」に表れている。
  • 「迷いの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一心に 弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」
    選択の本願・念仏往生の願・至心信楽の願の、蓮如上人による意訳。本文は、「たとい我仏を得んに、十方衆生、至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん。若し生まれずば正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗せんとをば除く」。
  • 雑行
    南無阿弥陀仏以外の自力の行。
  • 南無阿弥陀仏と成りまします
    法蔵菩薩の願と行、阿弥陀仏の徳の全体が南無阿弥陀仏の名号となって来現してくださっていること
  • 十悪
    殺生・偸盗・邪淫・悪口・両舌・妄語・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴。
  • 五逆
    殺父・殺母・殺羅漢・出仏身血・破和合僧。
  • 五障三従の女人
    女人は梵天・帝釈・魔王・転輪王・仏になれない。主になれないというのが五障。家にあっては父に、嫁しては夫に、老いては子に従わねばならない、すなわち独立を許されないとされたことが三従。
  • 極楽、真実報土
    極楽は苦からの解放を意味する。真実報土は信心の智慧を得た者が生まれる弥陀と同体の真如法性の世界。自力疑心の念仏者が往生する方便化身土に対して言う。

私釈

 『仏説無量寿経上巻』に説かれたところに従いながら南無阿弥陀仏とは何かを明らかにし、悪人を目当ての他力の本願によって信心一つで往生成仏するという、念仏往生の宗義を六字釈を中心に説き明かしてある。
 特に本章で注目されるのは、阿弥陀如来が迷いの衆生を救うために南無阿弥陀仏になって下さったのだという一段である。南無阿弥陀仏が往生の手段や願望を果たすための呪文になどしようのないもの、如来そのものであること、救いそのものであることが明 確に示されている。
 「念仏往生」という法然聖人以来の伝統宗義が、ややもすれば称名正因(口に南無阿弥陀仏とさえ称えれば往生するという称名の手段化)と受け取られ、あるいは現世的願 望を祈るための方法の一つと受け取られてきたことに対する訓戒の意味が含まれるものとみえる。