一念大利章 五帖目 第六通

本文

 一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』に聖人のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。
 この和讃のこころは、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりも
なき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。
 このこころをまた『和讃』にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」といへり。
 「摂取不捨」といふは、これも一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。
 このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、信心を得た人には現生に広大な利益が与えられることを、『正像末和讃』の一首を引いて讃える)
 ふたごころなく阿弥陀如来の願いをわがためと信ずる念仏の行者には、この上なく広大な功徳を与えて下さるという趣旨を、親鸞聖人は和讃に「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり」とお示し下さっています。

 (次にこの和讃の意味を解説して、悪人目当ての広大無辺の願力によって、信心一つで誰もがこの上ない功徳利益を得ることを明かす)
 この和讃の意味をいえば、「五濁悪世の有情」とは、覚りを得る可能性のない私たち女人悪人のことです。このような一生悪ばかりを造って生きる凡夫でも、ひとすじに阿弥陀如来を信じて、後生をおたすけ下さるのだと思うものを、必ず救って下さることは疑いようがないのでございます。さらに、「不可称不可説不可思議の功徳」というのは、阿弥陀如来が永劫の修行によってそなえられた数限りもない大功徳のことであり、その功徳の全体を弥陀を信ずる衆生に注ぎ込んで下さる故に、過去世から未来にわたっての、ぬぐいがたい罪も障りも、すべてさまたげにならないものとなり、必ず仏となる身に定まるのでございます。

 (さらに、信を得ることは即ち成仏が定まることでもあるということを、別の和讃を引いて示す)
  このことをまた、別の一首に「弥陀の本願信ずべし本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆえ 等正覚にいたるなり」ともいってあります。ここにいう「摂取不捨」というのは、これも、弥陀を信ずる衆生を光明の中におさめとって、信ずる心さえ変わらなければ捨てたもうことがないという意味でございます。

 (最後に、同じ浄土門においても、念仏往生ということに関して、この他にもいろいろの見方があり、教えがあって紛らわしいことではあるが、要は信心一つで往生できることは疑う必要のないことであると念を押して結ぶ)
 同じ浄土門においても、他流があり、ここに示したことの他に様々な教説がありますけれども、弥陀を信ずる一つで皆ことごとく真実報土に往生できるということについては、少しも疑いを抱く必要がないのでございます。まことに勿体ないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 一念に弥陀をたのむ
    二心なく弥陀の願いを我がためと受けとめる。
  • 行者
    念仏の行者。寝ても覚めてもへだてなく南無阿弥陀仏を称える人。
  • 無上大利の功徳
    (往生成仏の正因という)この上ない功徳が与えられること。
  • 五濁悪世
    劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁(身は軟弱で、心は悪に満ちている)のために、覚りを得ること甚だ困難な世。
  • 有情
    いのちあるもの、心あるもの。「衆生」は旧訳、「有情」は新訳。
  • 選択本願
    阿弥陀如来がもと法蔵菩薩のとき、五劫の思惟の末に、これより他には衆生を平等に救う道はないと選んで立てられた誓願。「選択」は『大阿弥陀経』に出る用語。
  • 不可称不可説不可思議の功徳
    南無阿弥陀仏に込められた阿弥陀如来の真実功徳は、人間の言葉でほめ讃えようなく、説きようなく、心で思いはからいようがない広大なものであること。
  • 女人悪人
    殺生・偸盗・邪淫・妄語・悪口・両舌・妄語・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪激しいもの。覚りを得る見込みのないもの。「在家の尼入道」と同義。因みに、法然聖人は自ら「愚痴の法然・十悪の法然」と言われた。
  • 三世の業障
    遠い過去世から抱き続けていたのみならず、未来永劫消しようのない煩悩は、覚りをさまたげる障害であり、罪悪であるから、このように言う。
  • 正定聚
    正しく成仏の定まった者の仲間
  • 等正覚
    覚りの一歩手前の位。一生補処(この一生を終えれば仏の後を継ぐ)ともいう。正定聚不退転・等正覚、さらには讃えて、次如弥勒・東宮の位・分陀利華ともいう。
  • 摂取不捨
    「弥陀の光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂め取って捨てず」『仏説観無量寿経』
  • 疑う心あるべからず
    疑いの心を抱く必要など全くないとの意。

私釈

 信心と利益は同時に与えられるものであることを明らかにする一章である。
 「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたえたまう」「一念に弥陀をたのみもうすわれら衆生に回向しまします」「一念に弥陀をたのみたてまつる 衆生を光明の中におさめとりて」「一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生す」と、同じ趣旨のことを言葉を変えながら四度繰り返してある。「大利の功徳をあたえる」「回向しまします」「光明の中におさめとる」「往生す」という押さえの言葉で衆生利益をもたらす願力のはたらきを構造的に示してあるとみることができる。
 信心を得たら、その結果としてそのうちに利益が得られるというのではなく、信心を得たたちどころに利益が与えられることを示すのである。信心は阿弥陀如来の真実功徳の全体が注ぎ込まれ、受けとめられたすがたであるからである。利益は信心と別物としてあるのではなく、信心にそなわる徳としてあるのである。
 その信心を「一念に弥陀をたのむ」と示し、「弥陀如来を一心一向にたのみまいらせて、後生たすけたまえ申す」と開いてあることは、一貫した教示である。