八万の法蔵章 五帖目 第二通

本文

 それ八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
 しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。
 されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
 このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、仏教の全てに通暁していたとしても、自分の後生が救われる道を見いだせないままでいる人は愚者であり、一字も読めなくても、自分の救われる道を聞き開いた人こそが智者であるという伝承を示す)
 そもそも、八万の法蔵と呼ばれる膨大な仏教典籍の全てについて知り尽くした程の大学者であったとしても、自らの後生の救いの道が見出せないままでいるとしたら、その学僧は愚者であるといわねばならないし、一字も読めない在家信者の尼・入道に過ぎなくても、自分の後生の救いを確かに見出すことのできた人こそ智者というべきであると、先哲は仰っているのでございます。

 (次にその言わんとするところをさらにくわしく述べて言う)
 ですから、浄土真宗の趣旨に照らしていえば、いかに経典論書を多く読み、物知りになってみても、信心ひとつで救われる道理を受け取れなかったら、まったく空しいことでございます。ここを、親鸞聖人は「誰であろうと、弥陀の本願を信ぜずしてたすかることなどありえない」と仰ったのでございます。

 (これをうけて、たとえ仏縁うすいとされいる女性であっても、本願を信ずる人は、誰でも真実報土に往生することは疑いようのないことであると示して結ぶ)
 このようなわけですから、たとえどれほど罪深い女人であろうとも、他の功徳あることとされる宗教行為などには目もくれず、阿弥陀様、このわたくしの後生をたすけてくださるのですねと、深く信ずる人は、ただそれだけで、十人であろうと百人であろうと誰彼へだてなく、皆ともどもに阿弥陀如来の世界に往生させていただくことができるのでございます。さらさら疑う必要はございません。
 まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 八万の法蔵
    仏教が多岐にわたって膨大な典籍を有するをいう。
  • 後世
    後生に同じ。より古い時代に多く用いられた。
  • 一文不知
    一字も読めないこと。
  • 尼・入道
    在家の身のままで仏門に帰依し剃髪した男女。
  •  といへり
    法然聖人の遺言状ともいうべき『一枚起請文』の意を承けて述べたという意かと思われる。

参考 『一枚起請文』

 もろこし(中国)・わが朝(日本)に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
 ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申して、疑いなく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無 阿弥陀佛にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
 念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。  為証以両手印
 浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまったく別義存ぜ ず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。

意訳

 (わたくしが信ずる念仏とは)唐土・我が国において、いろいろな学者達があれこれ 論じていらっしゃる観念の念仏ではありませんし、また学問をして念の心を悟ってとな える念仏でもありません。
 ただ往生極楽のためには、南无阿弥陀佛ととなえて、疑いなく往生するのだと確信し て念仏申す他には別の深い考えなどありません。なるほど(『観無量寿経』には至誠心・深心・回向発願心の)三心をすすめ、また(念仏者の心構えとして恭敬修・無余修・無間修・長時修の)四修ということが説かれてきましたが、どれも、間違いなく南无阿 弥陀佛で往生するのだと思うことの中にすでに籠もっているものばかりです。これ以上 に奥深いことがわかる人は、おそらく釈迦・弥陀二尊のあわれみからはずれ、本願の目当てから漏れる人でしょう。
 本願の念仏を信じようとする人は、たとえ釈迦一代の教法をよくよく学んだとしても一字もわからぬ愚鈍の身にたちかえり、在家の身のままで頭を丸めただけの尼や入道のともがらの一人となって、仏法を体得した智者を気取ったふるまいをすることなく、ただひとすじに念仏することです。(あかしのために両手で印をする)
 浄土宗の信心・称名とは何かは、この一紙に極まります。源空の所存、このほかに全く何もありません。私の死後に邪義がはびこることを防ぐために、思うところを記しました。

  • 一念の信心
    「その名号を聞きて信心歓喜すること乃至一念せん・・即ち往生を得不退転に住せん」 信ずる即時に往生もさだまることを顕す。
  • いたづらごと
    無意味なこと。空しいこと。
  • 聖人の御ことば
    「自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」という『歎異抄』第三条の意を承けたか。「このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし」と共通し、本願に背く故、往生不可と断じてある。
  • ふつと
    決して・・でない。強意の否定の語
  • 雑行
    念仏以外のすべての行。「本願の名号は正定の業なり」に対する。
  • 一念に
    ここでは「一心に」の意。「一念」には「即時に」の意と、「二心なく疑心なく、一心に」の意がある。
  • 今度の後生
    久遠のいにしえ以来生死輪廻を重ねる中で、この度こそはの意。「もしまたこの度疑網に覆蔽せられば、かへってまた曠劫を経歴せん」(『顕浄土真実教行証文類』の序文)今生も前生からみれば後生であり、後生からみれば前生である。
  • 弥陀の報土
    阿弥陀如来の願と行の果報として開かれた浄土。真実報土ともいう。真実信心の行者の生まれる世界。疑心の往生の方便化身土に対する。

私釈

 親鸞聖人の教えにおいては、信心一つで救われ、信心なくば救われぬのである。この点が中心をなしている。
 その信心は仏教についての第三者的知識とは全く別であって、阿弥陀如来がこのわたくしを救うとの仰せであると受け取る他にない。この信あれば往生は疑う余地がないと 無学の念仏者を励ます。
 そしてそれ故、学問の有る無しや、出家在家の別や男女の別は問題にもならないのである。ただ信心一つ。このことがわからなければ、どれほどの仏教に関する学問知識も全く無意味であると、学問を誇ることを戒めるのである。
 法然聖人の遺言『一枚起請文』の意をうけて示された一章とうかがわれる。