男子も女人も章 五帖目 第四通

本文

 そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。
 これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、われらが極楽に往生せんことはさらに疑ひなし。
 このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑ひなく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、ほとけにまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑ひなし。このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これを
すなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、末代悪世の凡夫である我々を救うことは他の諸仏には不可能であることを示す)
 そもそも、男であろうと女であろうと、罪深い身であるわたくしたちは、阿弥陀如来以外の諸仏の衆生救済の悲願をたよりにしてみても、今の時代は釈尊の時代から遠く隔たった末代悪世でありますから、さまざまな修行の道を示して導き救おうという諸仏のお力ではとても及ばない時代でございます。

 (次に、阿弥陀の超世の本願は悪人成仏のためであり、信心一つで往生成仏させて下さることを述べる)
 このようなことであるからこそ、阿弥陀如来と申し上げる如来は、諸仏に類例のない、十悪五逆の罪人を我こそは救おうという大願を起こして下さって、阿弥陀仏となられたのでございます。この如来を深く信じて、ようこそ、おたすけ下さいませと思うものを救うことができなければ、正覚の仏とはなるまいと誓われた阿弥陀仏でございますから、わたくしたちが極楽に往生することは、さらさら疑いのないことでございます。

 (さらにこれを受けて、罪深い身であることも問題にはならず、一心一向に信ずれば往生は疑いのないことであると勧める)
 こういうわけですから、一心一向に、阿弥陀如来、ようこそおたすけくださいますと、心に疑いなく信じて、わが身の罪の深いことはそのままに、仏の仰せにお従いして、二心なく疑いない信心の定まったものは、十人は十人ながら、百人は百人とも、皆浄土に往生することができることはさらに疑いのないことでございます。

(最後に、時処を問わず報謝の念仏を称えるべきことを示して結ぶ)
 この上は、いよいよ尊いことだと思わせて頂く心が起こった時には、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、何時でも何処でも念仏申させて頂けばよいのでございます。これをこそ、仏恩報謝の念仏と申すのでございます。
 まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 罪の深い輩
    いずれの行にても生死を離るることあるべからざる煩悩具足の凡夫・十悪五逆具諸不善の悪人
  • 諸仏の悲願
    法蔵菩薩が世自在王仏のもとで覩見したもうた二百一十億の諸仏が共通して立てられた衆生救済の願い。また釈迦等の諸仏の諸善万行による導きをもって救おうとの願い。
  • 悪世
    五濁の世・無仏の時。五濁は『阿弥陀経』に、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁と出、『正像末和讃』に釈が示されてある。
  • 諸仏にすぐれて
    二百一十憶の諸仏にも救いようがなかったものを救おうという超世の大願を立てられたことを指す。
  • 大願
    広大無辺なる願。最低の者をも信心一つで最高の覚りに至らせようという願、誰も漏れることのない願。
  • たのむ
    信じること。
  • 一念
    経文の「信心歓喜乃至一念」に拠る。信じ初めたその時(往生の定まること)。また、一心一向の義を含む。
  • 御たすけ候へ
    おたすけ下さることを知って喜び受け入れる意
  • 申さん衆生
    思いなす者の意。口に出して言う者ということではない。
  • 正覚
    仏の覚り。成仏の果を得ること。
  • 一心一向
    一心は二心(他の神仏をかえりみる)なく、疑心(躊躇猶予)ない信を顕す。一向は阿弥陀一仏に向かうこと、また専ら称名念仏一行に向かうこと。
  • うちすて
    そのままにして問題にしないこと。「わが身はわろきいたづらものと思いとって」「・・・と思いつめて」というのも同義。阿弥陀如来は初めからお見通しであったと知って、見切りをつけること。自力の心をひるがえして、ほれぼれと阿弥陀如来の本願に帰すること。
  • 十人は十人百人は百人ながら
    『往生礼讃』に「十即十生百即百生」とあるを承ける。
  • 時をもいはず
    『往生要集』下に「行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず」とあるの承ける。

私釈

 末代悪世の我々は、悪人成仏の大願を立てて下さった阿弥陀如来一仏を信ずるよりほ かはなく、またその本願ある故、信心一つで往生は疑いのないことであると示し、その 上からは、報謝の称名を勧めるのである。
 全体は『仏説無量寿経』の大意を顕し、善導・源信の二師の称名念仏を勧めた言葉を 出して結んである。
 特に注目すべきは、悪人成仏の大願の前には、「罪の深きことをばうちすて、仏にま かせまひらせ」るのが信心のすがたであると明示してある点である。「悪をもおそるべ からず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえなり」という『歎異抄』の言葉を想 起させられる。