末代無智章 五帖目 第一通

本文

 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
 かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、釈尊の時代から遠く離れ、真の智慧なく、浮世のしがらみの中に生きるわれわれであることを指摘して、覚りをめざすような分際ではないことを示唆し、その上で、男であろうと女であろうと、心を一つにして、阿弥陀仏を信ずれば、かならず阿弥陀如来はお救い下さるのであると、万人に開かれた救いの道を示す)
 釈尊の時代から遠く離れ、真の智慧なく、浮世のしがらみの中に生きる人々は、男であろうと女であろうと、心を一つにして、我をたのめとの阿弥陀仏の仰せを、深くわがためと受けとめて、まったく他の神仏や善行功徳にも心を向けず、ふたごころなくひとえに 「阿弥陀仏よ、ようこそおたすけ下さいます」と喜ぶ人は、たとえ罪とがが深く重いとしても、必ず阿弥陀如来はお救い下さるのでございます。

 (次に、これがそのまま、第十八の念仏往生の誓願の趣旨であって、末代無智の凡夫を目当てに立ち上がって下さったのが阿弥陀如来であったことを明らかにする)
 これがとりもなおさず、第十八の念仏往生の誓願に示された阿弥陀如来の本意でごさいます。

 (最後に、このように如来のおたすけを知らせて頂いた上は、報謝の念仏を申すよう勧めて結ぶ)
 このようにはっきりと知らせていただいた上は、ねてもさめても命のある限りは、常に念仏申さずにはおれないところでございます。
 まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • 末代
    正法・像法の時代に対して、末法の時代を末代とする。正法は証(覚り)ある時代、像法は行ある時代、末法は教のみ残って行証なき時代。像は像似(かたちのみ前代に似る)の義、末は微末(かすか)の義とされる。
    「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」「末法五濁の有情の行証かなはぬときなれば」『正像末和讃』
  • 無智
    法にかない、善を生じ、自他を安楽に導くような真の智慧がないこと。
  • 在家止住
    出家修道に対していう。家に在って煩悩造悪の縁多きこと。
  • 男女
    男女のへだてないことを顕す。出家在家・男女を問わない弥陀の本願であることは、特に末代無智の在家の男女こそが目当てであること、すなわち悪人正機の義を意味する。自力でこの世の覚りをめざす聖道門ならば、末代を嘆き、無智を嘆き、出家できないことを嘆き、女であることを嘆かねばならないところであるがという意味。
  • こころをひとつにして
    一心にの意。余仏余善にこころをかけずの意
  • ふかくたのみまいらせて
    深信の義。深いのはたのみ方ではない。罪悪深重のわが身であり、底なしに深い大悲の本願であったとたのむのである
  • 余のかた
    余の方-余の仏・余の行・余の善。
  • 一心一向に
    阿弥陀如来なればこそ、このわたくしを。「さればそれほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』)
  • たすけたまえ
    弥陀なればこその「汝を救おう」との仰せであったと受けとめて、「有難うございます。どうぞおたすけ下さいませ」と受容すること。
  • 申さん衆生
    信まん衆生の意。口に出すことや祈ることではない。同語反復を避けての略語表現。
  • 罪業は深重なりとも
    「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば散乱放逸もすてられず」『正像末和讃』
  • かならず
    「必の言は審なり」 摂取不捨の本願ゆえ、すでに明白であるとの意>(『顕浄土真実教行証文類』)
  • すくい
    現生にすでに摂取不捨されて正定聚に住し、後生には他を救う仏になること。
  • 念仏往生の誓願の意なり
    第十八願には、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」とある。
     この中の「十方衆生」を、「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」と意訳し、「至心信楽欲生我国」を「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余の方へ心を振らず、一心一向に仏たすけたまへと申さん」と意訳し、「唯除五逆誹謗正法」を「たとひ罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくひましますべし」と意訳してある。「乃至十念若不生者不取正覚」は、「かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり」と意訳してあるのである。
     また、念仏往生の願とは法然聖人の用いられた呼称であるが、ここでは信心往生の願、信心正因の願ということであると示す。
     これによって、第十八願を念仏往生の願と呼ばれたのは法然聖人であるが、称名正因の願と受け取ることは誤りであり、正因は信心、称名は報恩であると水際を明らかにする。
  • 決定してのうえには
    決定は信心さだまること、しっかり受けとめて動揺がないこと。信の上の称名であることを示そうとする。
  • 称名念仏
    報恩のいとなみとしていうときの「念仏」は称名をさすということを示唆する。往生の正因として「念仏」というときは信心をあらわすのに対する。「光明は遍く十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」という『仏説観無量寿経』の言葉は信心正因を表したものである。

私釈

 簡潔明瞭に肝要を示すことを重んじられた蓮如上人のご教化の面目がよくあらわれた 代表的御文章の一つである。
 全体としては、悪人正機、本願他力、信心正因称名報恩の宗義を示すのであるが、あ くまでもわれわれがどう受け取っていくべきかという信心のすがたを明らかに示そうと してある点に注意すべきである。
 ※『御一代記聞き書』一八五条参照