本文
一流安心の体といふ事。
南無阿弥陀仏のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」といへり。 まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
されば、われらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。
この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年四月 日
取意
この御文章においては、「一流安心の体といふ事」という一句を表題のごとくに掲げ、行を改めて以下の文がある。浄土真宗の信心が安心と呼ばれる所以を明らかにしようとする意図をあらわす。
(まず、信心の当体は南無阿弥陀仏のすがた(そこにあらわされた機法一体の道理)であると示し、これを受けて、善導大師の六字釈を引用し、解説する)
安心の本体は南無阿弥陀仏の六字のすがたであると心得ることが肝要です。この六字を善導大師は解釈して次のように言われました。「南無と言うは即ち是れ帰命なり。また是れ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ其の行なり。この義を以ての故に必ず往生することを得」と。
まず、南無という二字は、帰命するという意味でございます。帰命するというのは、衆生が、ようこそありがとうございます、阿弥陀仏よ後生をおたすけ下さいませと信受するという意味でございます。また発願回向というのは、信ずる衆生を摂取してお救い下さるという意味でございます。これがそのままただちに阿弥陀仏の四字の意味でごさいます。
(この上は、どう心得、どうたのめばよいのかという問いを起こし、「諸々の雑行を捨てて、一向一心に後生たすけたまえと弥陀をたのめ、そうすれば往生決定であって疑う必要はないと指南し、このことを南無とたのむ機を阿弥陀仏がたすけたもう法であるということで機法一体の南無阿弥陀仏であるというのだと押さえる)
この上は、私たちのような愚痴闇鈍のものは、どのような心構えで、どのように阿弥陀如来を信ずればよいかと申しますと、覚りをめざして功徳を積むためのさまざまな自力の行は捨てて、身も心もただひとえに、ようこそわたくしの後生をおたすけくださいますと阿弥陀如来の救いを信ずれば、間違いもなく極楽に往生させて頂けることは、さらさら疑いようのないことでございます。
このようなわけで、南無の二字は衆生が弥陀を信ずるという機の方を表し、阿弥陀仏の四字は、信ずる衆生をたすけて下さる法を表すのですから、これを機法一体の南無阿弥陀仏というわけなのでございます。
(最後に、このようなわけであるから私たちを往生させるのは、私の思いはからいではなく、如来から与えられた南無阿弥陀仏であると知られると示し、だからこそ安心なのであると結ぶ)
このような道理があるからこそ、私たち一切衆生を往生させる本体は南無阿弥陀仏であると知ることができるのでございます。
まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。
参考
- 安心
堅固不動の心(信心)をいう。善導大師の語、「安心起行作業」『往生礼讃』 直接には上人の愛読書『安心決定鈔』から取られたか。 - 後生たすけたまえとたのむ
釈迦如来の教えを通して届いてきた、「汝、我を信め。我、汝を救はん」との阿弥陀如来の仰せを、「有難うございます。どうぞおたすけ下さいませ」と、信受すること。 - たのむ
このわたくしへの仰せと、しっかり受けとめること。信受すること。 - 発願回向
信じさせて救おうという願を如来が起こしたまい、今すでにその願いが届いて信じる身となったこと。 - 摂取
おさめとること。逃げても逃がさぬ大いなる手の中におさめたもうこと「ものの逃ぐるを追わえ取る」(衆生はみな逃げる。それを追いかけ回して捕まえたもうのが阿弥陀如来)〔親鸞聖人の左訓〕 - やがて
頓て、そのまま、ただちに、たちどころに。「そのうちに」の意ではない。・諸々の雑行を捨てて一向一心に覚りに近づくためのさまざまな善行功徳、学問・修行では役に立たない身であると、これを捨て離れ、このような私と見抜いて救おうとして下さるのは阿弥陀如来より他はなかった、念仏より他はなかったと。 - 決定
一定に同じ。間違いなく - 疑い
「だがしかし」と、猶豫の思い。自らのはからいであれかこれかとふみ惑うこと。遲慮すること。はい、有難うございますと言えず、ちょっと待ってくださいと態度保留にする心。無信心(信受することなき)はすべて疑とするのが真宗の特徴。信が無疑・無義・無慮・無二心と表されるのに対する。「疑蓋間雑なきが故に是を信楽と名く」「信はうたがふこころなきなり」との祖釈がある。まよいの原因は煩悩、しかしそれを離れられないのは疑心に縛られる故である。「決以疑情為所止」「仏智疑惑のつみふかし」と示してある通り生死流転を出ることができないのは、悪重きが故ではなく、疑う罪の故であると断じてある。それは譬えていえば、肺結核という重い病にかかっているとしても、ストレプトマイシンという抗生物質が特効薬として存在するから、病の方は問題ではない。問題なのは、医学を疑い医師の力を疑って、肺結核にかかっていながら診察も受けぬ故に治療もせぬこと、肺結核にかかっていながら治療を拒むことである。悪という病ではなく、仏の願力に対する疑いこそが決定的な問題なのであるということである。 - 聞こえたり
知らせて頂くことである。 - 言南無者
「南無と言うは即ち是れ帰命、また是れ発願回向の義なり。阿弥陀仏と言うは即ち是れ其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生することを得」
私釈
信心を安心と呼ぶことの意味あいを明らかにし、安心の体である機法一体の南无阿弥陀佛が、そのまま往生の体でもあることを示そうとする一章である。
信心の体が、如来より与えられた願行具足の南無阿弥陀仏、機法一体の名号であることは、再三他のご文章でも述べられるところであるが、この章では、さらに踏み込んでどう心得、どうたのむことが信心なのかと問うて、信心のありようをかみ砕いて示す。
「もろもろの雑行をすてて、一向一心に、後生たすけたまえと弥陀をたのめ」との教示は、所謂「真宗再興の文」とも称されるものであり、蓮如上人一代のご教化の枢要で ある。
安心と呼ぶ所以は、信心の体が願行具足・機法一体の名号であるからには「さらにその疑いあるべからず」という点にあるとうかがわれる