孟夏仲旬章 四帖目 第十三通

本文

 それ、秋去り春去り、すでに当年は明応第七孟夏仲旬ごろになりぬれば、予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。しかるに当年にかぎりて、ことのほか病気にをかさるるあひだ、耳目・手足・身体こころやすからざるあひだ、これしかしながら業病のいたりなり。または往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり。
 これによりて法然聖人の御ことばにいはく、「浄土をねがふ行人は、病患を得てひとへにこれをたのしむ」とこそ仰せられたり。しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもっておこらず。あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし。
 これについてここに愚老一身の述懐これあり。そのいはれは、われら居住の在所在所の門下の輩においては、おほよそ心中をみおよぶに、とりつめて信心決定のすがたこれなしとおもひはんべり。おほきになげきおもふところなり。そのゆゑは愚老すでに八旬の齢すぐるまで存命せしむるしるしには、信心決定の行者繁盛ありてこそ、いのちながきしるしともおもひはんべるべきに、さらにしかしかとも決定せしむるすがたこれなしとみおよべり。
 そのいはれをいかんといふに、そもそも人間界の老少不定のことをおもふにつけても、いかなる病をうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時もいそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち人間のありさまにまかせて、世を過ごすべきこと肝要なりとみなみなこころうべし。このおもむきを心中におもひいれて、一念に弥陀をたのむこころをふかくおこすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 明応七年初夏仲旬第一日
          八十四歳の老僧これを書く
 「弥陀の名を聞きうることのあるならば、南無阿弥陀佛とたのめみなひと」

取意

 (まず、自分がすっかり老衰し、往生の期も近いことを感ずる旨を述べる)
 さて、秋去り春去って、もう今年は明応七年四月中頃(太陽暦の五月末)になってしまいました。私の年齢も積もって八十四歳のはずです。そのせいか今年に限ってことのほか病気に冒され、目も耳も手足も、身体全体の調子がよくありません。これもまったくもって老衰のなせるわざです。かつは、いよいよ往生極楽の時が近づいたしるしかと、覚悟させていただいているところでございます。

 (次に伝承されている法然聖人の語を引きつつ、往生の近づくしるしと病気を喜ぶこころなどまったく起こらぬ煩悩深い身であることを述べる)
 これについて、法然聖人のお言葉には、「浄土を願う念仏の行人は、病気になれば(いよいよ、浄土に参る時が近づいたと)、ひとえに病を楽しむものだ」と仰せられたといいます。しかし、このわたしは、あえて病気を喜ぶこころなどまったく起こりません。浅ましい身でございます。恥ずかしく、悲しいことでございます。

 (転じて、信心決定の喜びを述べる)
 このような身ではありますが、わたくしの安心の道、一念発起平生業成(信心起こる時、臨終を待たずして往生定まる)という宗旨(心のよりどころ)におきましては、すでに定まって不動でございますから、仏恩報尽の称名は行住坐臥しばらくも忘れることはございません。

 (さらに展開して、門弟の多くは信心決定せぬままと思われるが、願うところはただひとえに信心決定の行者の繁盛であって、門弟の現状を嘆かわしく思うことを述べる)
 それにつけても、愚老がかねがね思うところを申してみたいと存じます。と申しますのは、あちこちの在所の門徒の心中を見ていますと、大概は確かに信心決定している様子もないように思われることです。大いに嘆かわしく思うところでございます。何故ならば、愚老がすでに八十の歳を過ぎるまで存命させて頂いたしるしには、信心決定の行者が繁盛してこそ、長生きした成果とも思うことができましょうが、残念なことには、はっきり信心決定しておられるすがたは少しもないように思われるからでございます。

 (最後に、無常の身であることに思いを致して、片時もはやく信心決定すべきことをあらためて強く勧めて結ぶ)
 このように申すのは何故かといいますと、そもそも人間界が老少不定であること思うにつけても、どんな病で死ぬかもわからないからでございます。このような世の中のありさまであるからこそ、何をおいても、一日も片時も急いで信心決定し、今度の往生極楽を確かなものとしたその上で人間のあるべきように従って、人生を送ることが肝要であると、皆々心得て頂きたいものでございます。この旨を心中に思い入れて、心を一つにして阿弥陀如来を深く信ずる心をおこすことが大切でございます。
 まことにもったいないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でごさいます。
 明応七年四月十一日
          八十四歳の老僧これを書く
 「弥陀の名を聞きうることのあるならば、南無阿弥陀佛とたのめみなひと」
 (本願成就文の意を歌にしたものか)      〔参考〕一念発起の項参照

参考

  • 業病
    人間として生まれたときから定まった病、すなわち老化のこと。
  • 「浄土を願う行人は・・」
    浄土宗鎮西派二祖良忠念阿の著『伝通記』の注釈書に出る語。ただし疑義のある伝承。しかしここではその点の詮索はしていない。『歎異抄』第九条に見える親鸞聖人の法語を念頭に置いての引用と見られる。
  • 一念発起
    「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」『仏説無量寿経・下』による。宗祖は、「一念」に、一心の義と即時の義があると示し、信心起こるとき往生また定まるの意を顕された。
  • 平生業成
    臨終をまたず、平生において、信心を得る時、往生の業因が成就すること。
  • 宗旨
    浄土真宗の本旨、また根本教義
  • 一定
    決定・治定に同じ。確定すること。往生の定まること。

私釈

 蓮如上人最晩年、示寂まで一年足らずの時期の作である。体調不良の中で、往生の期の近いことを察するにつけて、「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候こと、また急ぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは如何にと候ふべきことにて候ふやらんと申しいれて候ひしかば・・・・他力の悲願はかくのごとし。われらがためなりと知られていよいよたのもしくおぼゆるなり。・・・いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細くおぼゆることも煩悩の所為なり。久遠劫より流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の 興盛に候ふにこそ・・」という『歎異抄』の言葉を噛みしめられた跡が見える。
 それにつけてこそ、信心の行者の繁盛を願わずにいられない思いの切なるを述べ、無常の理を忘れて油断することなく、急ぎ信心を決定するようにと強く勧められるのである。
 添えられた詠歌は、本願成就文をそのまま歌にしたものと見えるが、自分の勧めはそのまま、弥陀の願意であり、釈迦諸仏の勧めでもあるとの意が込められていると思われる。