浄土からの道法話 123

1  他力をわらう

 「他力」といえば他人の力をあてにすること、「おまかせ」といえば他人まかせにすることと解釈するのが通例のようです。
 如来も浄土も架空の存在としか思えなくなってしまった多くの現代人の心情からすれば仕方のないことかもしれません。
 それにしても、公式の場で、「他力本願では駄目だ」と発言することが、他力の本願を拠り所として生きる信仰者に対する侮辱であるという認識がないのはどういうわけでしょうか。

2  仏が神になった

 インドを旅行して驚いたことがありました。雨期明けのお祭りシーズンでした。あちこちの村や町で仏陀の石像が祭られているのです。インドでは仏教は滅んだはずなのにと思って質問してみました。何と、仏陀はビシュヌという神様の化身の一つだというのです。仏さまは神さまになってしまったのです。
 まさに神仏一体です。もはや、仏に祈る人はいても、仏の教えに従って生きようという人がいなくなった。それが仏教の滅亡だったのです。

3  祈りのエゴイズム

 「祈り」は、私からのうったえを聞いてもらおうということです。「信心」は、逆に如来がわたくしにかけて下さる願いを聞かせて頂くことです。仏心を受信することです。
 祈りには自己中心性やエゴがつきまといます。集団エゴ・国家エゴ・宗教エゴは中にいると気づきにくいので見落とされがちです。宗教が戦争に利用されがちな現実が思い起こされます。
 十方一切の衆生にかけられた如来の願いの前に立つとき、この願いの中にこそ我が願うべきこともあったと知り、万人の願いが満たされる道もあると知るのです。

4  祈ることをやめて聞く

 祈りとは、自分の思いを聞いてもらいたい、願う通りになってほしいということでしょう。
 国木田独歩は死を前にして、「祈らずとても救いたもう神はなきか」と叫んだと聞きます。祈る資格のない、聞いてもらうだけの真実を持っていない自分を悲しんでの叫びだったのだと思います。
 そんなわたくしだとはじめから見抜いて、見捨ててはおかぬと呼びかけて下さったのが阿弥陀如来でした。わたくしへの如来の願いを聞かせていただくばかりです。

5  自力の発見

 誰も無重力の世界を知らなかった時代に、リンゴの落ちるのを見て引力を発見したニュートンはすごいと思います。
 人知を越えた真実の、人間を呼び覚ますはたらき、疑惑を突き破る力。それが「他力」ですが、思いもかけず「他力」に遇うことがなければ、どうして「自力」を発見することができましょう。すべては自分のものさしでしか考えられないのが人間なのですから。
 「自力」の発見は、人間の思考の根源にひそむ疑惑心の発見でもありました。いわゆる信用や信頼、信念の奥底になおひそむ底無しの疑心を見出したのです。

6  心の耳栓

 津波がくる、洪水がくると避難警報を発しても、なかなかまともには受け取られず、全員を避難させるのは困難だと聞きました。まさかそんなことは、まさかここまでは、まさか自分がという観念が邪魔をするといいます。
 身体の変調についても、こういう観念で失敗して手遅れになったということをよく聞きます。仏法を聞くことについてもその通りのようです。
 蓮如上人は、「よそごとに聞く」「得手に聞く」「売り心で聞く」のが邪魔をしているといわれました。要するに自分のものさしで判断してしまうのが恐いということでしょうか。

7  法水は高きから低きへ

 法という文字は水の流れるさまを表すのだそうです。なるほど、水は高きから低きへと流れるもので、それが自然の法則です。自らを低くせねば水は流れ込んで来ません。高ぶっていては何も学びとることはできない道理です。
 釈尊の教えは何時の世、何れの所の誰にとっても当てはまる道理を説いたものであるということで、仏法と呼ばれました。
 このことはまた、自らを低くすれば、求めずして流れ込んで来るものが不滅の法であることも教えているのでしょう。

8  見えない真実を聞く

 あまり小さいものは見えないし、あまり大きくても視野におさまらないのが私たちの目です。紙一枚でさえぎられても見ることはできません。形のない電気も、色のない風も、すがたのない心も見ることはできません。
 しかし、電気はピリッと肌で感じることができます。なびく草木の姿で風を知り、うなる電線の音で風を知ることができます。
 如来は見ることのできない存在ですが、教えを通して心に思い、悩みや苦しみ悲しみの中で、そのお慈悲を感じ取ることのできる存在です。

9  光といのちの如来

 老病死を生きて苦悩を免れることのない身ゆえに、いのちを知る人間と生まれてそのことを知り得たがゆえに、限りあるいのちの中で不滅の真実を聞くという大きな幸せに遇うことができるのです。
 まことに、如来は、闇路に迷うわたくしたちのために現れて下さった光であり、嘆きの中に滅びようとする私たちを抱き取るために立ち上がって下さったいのちでありました。

10  いのちを輝かす願い

 いのちの輝きはめざすものの高さ遠さによるのではないでしょうか。権力も財力も武力も、力と名のつくものは必ず滅びます。他の力と争わないではすみません。
 しかし、あらゆるいのちに光あれという願いは、滅びることがありません。そこにいのちあるものがいるかぎり、朽ちることも滅びることもありません。
 誰かがどこかで受け継ぐからです。どんな力ともぶつかることはありません。力では滅ぼせません。

11  唯我独尊

 天上天下唯我独尊という言葉は有名です。実はこの後に三界皆苦吾當安之という言葉が続くのです。
 あらゆる境涯の中で尊ぶべきは独り仏のみである。神々の世界にも人間界にも苦悩を免れているものはいない。ここに安らぎの道を開きたもうのは仏のみであるからという意味です。
 仏陀が世に現れたもうたことの歴史的意義を表す言葉です。尊いということは、万人に安らぎをもたらすということだったのです。

12  待ったなしを救う

 如来の大悲を経には「群萌をすくい、恵むに真実の利を以てす」と説かれています。
 未だ地中にひそんでいて芽も吹いていない萌しをはぐくみ、真の実りをもたらすことが如来の大慈悲であり、救いであるとの仰せです。
 人間を人間として目覚めさせ、成長させ、花開かせ実を結ばせてくださるということでありましょう。困ってから、お金や薬を与えるのでは手遅れなのが、待ったなしの人生、やりなおしのきかない一日一日だからではないでしょうか。

13  親さまの願い

 一切の仏・菩薩は、あらゆる生きとし生きるものに光あれという願いから出現したもうたと説かれています。
 空しく命の時を過ぎてくれるなとの願いです。この願いは老病死と別離の苦しみ悲しみ嘆き悩みのただ中から誕生しました。苦悩を消し去るためでなく、苦悩するいのちを抱き取るためです。
 仏はスーパーマンでも魔法使いでもありません。力では解決しないのが無常なるいのちです。昔の人は阿弥陀如来を「親さま」と呼んで慕いました。

14  病者のために医者現る

 病人が次々現れるから、そのために医者が登場したのであって、医者というものが存在するにもかかわらず病人が出るというのではありません。同様に、迷い苦しむ人間がいるから、その光となろう力となろうと如来が出現してくださったのだと経には説かれています。
 本当に如来様がいるのなら仏法を信じているものがどうしてこんな目にあうのかというのは、全く見当違いの疑いでした。
 苦難の中を生きて死んでゆかなければならないわたくしのために、支えとなろうと立ち上がってくださったのが如来でした。

15  子が親を生む

 子どもが生まれる前から親だった人はいません。乳が出るから子を産むわけではなく、子どもが生まれたから乳が出るのです。母の胸の乳房から流れ出るお乳の主は赤子です。生まれてきた子どもの命にもよおされ、子どもの姿にひかれて父となり母となるのです。 親が子を生むのではなく、子が親を生むのでした。子どものための親であって、親のための子どもではないからです。
 如来が親に譬えられ、南無阿弥陀仏がお乳に譬えられてきたのはそういう意味だったのです。

16  一度だけでよい人生

 釈尊はその徳を讃えて善逝と呼ばれました。善く逝く者、やりなおす必要のない人生を歩みきった人という意味だと思います。
 今度生まれてきたときは、などと言わなくてもよい生き方。個性の輝きに満ち、不滅の光を放って、同じ人物が二度と世に現れる必要もない程の影響力を後世に残した人。それが釈尊でした。その死さえもが安らぎと光輝に満ちて、死すべき人々への戒めと励ましでした。

17  帰る家なき旅

 「旅の終わりに」という題の演劇を見ました。主題歌は「旅の終わりに見つけたものは」からはじまるのです。人生という旅の終わりに何を見いだすのか。この旅には定まった目的地はありません。
 帰るべき我が家を持たなかった釈尊の生涯を思います。あらゆる人々に安らぎとよろこびのともしびを、という願いに旅して、今も歩み続けたもうわが釈尊であるとの想いが胸をよぎりました。
 その後ろ姿こそは永遠に人の世のともしびであり、その行かれる先にこそ私の帰るべき我が家もあると思って、独り感激しました。

18  如来の智慧と慈悲

 如来の智慧は太陽の光に譬えられ、慈悲は雨に譬えられます。
 心の大地に埋もれた信心の萌しを芽吹かせ育て上げて、大きく根を張らせ枝葉を繁らせて、いかなる風雪をも耐え凌いでいのちの喜びを花開かせる。広く涼しい木陰をなして疲れた人々を癒し、美しい花と果実をもって喜びを与える大樹に育て上げようとはたらいて下さるという意味でしょう。
 また、光は闇を払って不安と無力感を取り除き、雨は渇きを癒し潤いをもたらすものでもあります。わたくしやこの世界をロボット化して支配するのではありません。

19  わたしとともに

 如来にはこれといったすがたはないと聞くと寂しい気がしますが、すがた形のあるものは必ず壊れるもの、時には邪魔になるもの、そしてあてにはならないものです。
 何時でも何処でもどんな時にも、誰のそばにもいてくださるためには、すがた形があっては不可能です。あちらにいればこちらにはいられず、こちらにいればあちらにはいられないのですから。
 いつもわたくしとともにいてくださる如来を、あえてすがた形で表現したのが仏画や仏像です。

20  仏は神にあらず

 世に神と呼ばれるものの多くは、人間より以前に存在し、雲の上の天にましますといわれます。
 しかし、如来はあらゆる命あるものの苦悩をわがことと担い、ともに光を見いだそうとする人間(菩薩)の願いの具現者であって、人の「かみ」に立つものではありません。人間の苦悩の中から立ち現れ、人間として人間ともに歩み、人間の身の高さにともしびを掲げる方です。
 超人的奇跡的な能力や権威ではなく、万人が共有することのできる慈悲の願いをもって私たちの心を揺り動かし、勇気と智慧を与えて下さるのです。

21  人を救うのは人を超えた人

 人間でないものが人間を救うということがありうるでしょうか。私たちの不安や悩みや悲しみ嘆きは、人間なるが故のものではないでしょうか。神の力をある時は恐れ、ある時は求めるところに本当の安らぎがあるのでしょうか。
 神の力も政治力や経済力や軍事力をあてにするのは、力だのみの考え方です。しかし、能力や権力や財力や暴力では解決しないものが人間の心の問題でありましょう。
 人間の心に火をともすものは、人間の悩みの中に生まれた菩薩の願いであると経典は教えています。

22  光かがやく顔

 光り輝く顔、澄みとおったまなこで如来の徳は表現されています。人の精神は顔つき目つきに現れるということでしょうか。
 そういえば、私が旅行中に見たアジアのいくつかの国の子どもたちの目の輝きは、なつかしい少年時代を思い起こさせたのに、近頃の日本の子どもたちの顔には輝きが感じられないことが多いことが気になります。科学の発達も経済の発展も人間を幸せにはしなかったことの象徴のようです。
 すべての人の顔を輝かせたい。それが仏法の願いであったことに気づかされました。

23  いのちに輝きあれ

 如来の徳は、光りかがやく顔で表現されています。老病死をまぬがれない無常の身、憂い悲しみ苦しみ悩みを離れられない心を抱える生きる私たちに、迷いと苦しみをのりこえさせて、顔が光り輝くようにさせたい。ままならぬ身、限りある命だからこそ、命あるすべてのものに不滅の輝きがあるように。それが如来の願いだったということでしょう。
 仏法が人の世に何をもたらそうとしているのか。南無阿弥陀仏は今を生きる私をどんな人間にしようとしているのか。これほど端的な表現はありません。

24  光は燃える願いが放つもの

 如来は心の闇を照らす光であると讃えられてきました。光は不安を除き、道を見いださせ、勇気と喜びを与えます。
 実は光という文字は火が放つものということを表しているのです。つまり、人の心の闇を照らす光というのは、燃える心が放つものにほかならないということなのです。
 経には、法蔵と名のった一人の修行者の心に燃えあがった衆生救済の誓願こそが、如来の光の源であると説かれています。闇路を行く旅人のよるべである北極星もまた燃えていたように。

25  不滅なる願い

 どんな能力の持ち主であったか、どんなことをなしえたかは、故人を偲ぶときによく話題に上ります。しかし、何を願って生きた人であるかは、案外語られることが少ないようです。自分自身、何を願って生きているのかがはっきりしない人が多いからかも知れません。
 その人の心に燃えつづけた願いに万人が感動する。そんな生き方をした人もあります。 どんな力も必ず滅びます。しかし万人と分かち合うことのできる願いは滅びません。必ず誰かが受け継ぐからです。

26  弥陀の本願

 阿弥陀如来の本願というとき、本はかねてからのという意味です。願という字は、子を思う親心であり、つねに、どんなことがあろうと、どこまでもという意味であると辞典にあります。
 次から次ぎへと出てくる病人を引き受ける医療というものには、果ても終わりもないのでしょう。人類が存在し続ける限り医師たちの苦闘の歴史に終わりはありますまい。その意味で、医のこころもまた願であると思います。
 この願から無量寿の如来は現れたと説かれています。

27  如来の大慈悲

 慈悲というのにもいろいろな次元があると説かれています。肉体的五感の苦を抜くのも慈悲なら、精神的な憂い悲しみ悩みを抜くのも慈悲です。そして、あてにならない、ままならない、たよりにならないものにとらわれ、自分にこだわって、空しく命の時を過ごしてしまう不毛から救い出そうというのが如来の大慈大悲です。
 本当の実りを得させたい、すなわち真実を与えたい、それによって一切の苦をのりこえさせたいと仰るのです。

28  極楽を見てきた話

 子供の頃、「一度死んで極楽に行ってきた」という人の話を耳にしました。大抵は「春のうららのお花畑のような」というたぐいです。
 地獄極楽は本当にあるのかという疑いがなせるわざだったのでしょう。興味津々で耳を傾けた人も多かったようです。
 しかし、本当の極楽浄土は、阿弥陀如来と無数の菩薩の世界であり、十方世界の苦悩の衆生の姿も心も手に取るように見える世界であると説かれています。

29  この世界に仏法をもたらした本拠地

 極楽に生まれる、浄土に往生するという言い方が多いので、極楽浄土といえばこちらから往くところ、しかも死んでから往くところというイメージが強いようです。しかし、 しかし、経典によれば、十劫というはるかな昔から、十方のあらゆる世界を照らし続けてきた光の源であり、釈迦如来をはじめとして数知れぬ「呼び覚まし手」をこの世に送り込んできた救済基地です。いま現に南無阿弥陀仏をもって、私たちに呼びかけている世界でもあるのです。

30  極楽はさとりの世界

 「楽は苦のたね、苦は楽のたね」といいます。しかし『阿弥陀経』には、「さまざまな苦などはなく、ただ楽だけがあるから極楽と名づける」と説いてあります。
 我と欲にしばられて欲求が満たされないといっては苦しみ、満たされれば楽しむ心が織りなす私たちの世界では、苦と楽は裏合わせです。
 我も欲も離れたさとりの世界である極楽は、苦を苦とせず、楽を楽とせず、いのちの不滅の輝きを見るよろこびに満たされているとのお示しでありましょう。

31  わたしを照らす光の国

 「極楽は楽しいところだと聞いて、そこに生まれたいと願う人は仏にはなれない。わが身にかけてくださる如来の願いと呼びかけを、ようこそと受け取った人は極楽に生まれて仏になる」と教えられたのは蓮如上人です。
 極楽は手前勝手な人間の願望から生まれた世界でなく、いのちの真実を見極めた如来のさとりの世界であり、こころの闇にさまよう今のわたしを照らす光の国としてうちたてられたものだからです。

32  住む世界が違う人の世ゆえに

 一枚の畳の上に一緒に座っていても、互いに別々の世界に住んでいて、言葉は通じても心が通じないことがあまりにも多いのが人の世です。
 立場は違っていて当たり前です。道がそれぞれ違うことも、人の世の豊かさというべきですが、これがしばしば争いを生みます。なぜ、同じ世界に共に住む中で心が通じないのでしょうか。
 本当の智慧がないゆえのエゴイズムが邪魔をしているようです。阿弥陀如来の智慧と慈悲の世界、浄土こそがすべての人の心が遇い集うことのできる処でした。

33  万人に開かれた世界

 ひとがそれぞれ自分の世界の中に生きているように、阿弥陀如来の住んでいらっしゃる世界が極楽浄土です。
 私たちが住んでいる自分の世界は狭くて、他人を受け入れられないで、拒絶反応やぶつかり合いばかりです。
 阿弥陀如来の極楽浄土は万人に開かれていて、拒まれるものはありません。あらゆる命あるものの光となろう、いのちとなろうという不滅の願いから生み出された世界だからです。

34  ついの拠り所

 人の求め向かうところはさまざまです。また、宗教によって、願えと示す世界も違います。
 しかし、あらゆるいのちに平等で、自分でも気づかぬまま真実に背き歯向かい逃げる者にまで、いやそういう者だからこそ、真実に遇わせ不滅の輝きを得させたいという、果てしない阿弥陀如来の願いの世界である安楽浄土こそ、一切のいのちのついの拠り所であると説いて下さっています。

35  帰すべきところ

 険しい道をもがきながら進むうち、兄弟たちが散り散りになってしまったときは、誰もが親の居所を探して、そこへ向かうでしょう。そこへ行けば、他の兄弟たちも必ず集まって来るに違いないからです。
 心通わせあい一処に集うべきもの同志が、ばらばらになり互いに孤立して悲しまねばならないのが、人生の現実です。
 阿弥陀如来の浄土こそが、あらゆるものが心開きあって共に一つところに相会う世界と示されています。

36  また会える処

 「私はお念仏で阿弥陀様のお浄土に参らせて頂くつもりでおりますが、娘はクリスチャンになりまして、天国に行くと言っています。私たち親子は死んだらバラバラになってしまうのでしょうか」と尋ねた方があります。
 宗教によって行き先がそれぞれ違うのでしょうか。願うものが違い、道が違う以上は、一応はそうでありましょう。しかし、それがすべてのいのちを抱き取る真実でないのなら所詮そこは仮の宿りに過ぎません。
 今は異教徒である者も、ついには弥陀の浄土に集う者どうしであると受けとめ、誰に対しても、敬意と慈愛を持てとのおさとしがあります。

37  願いの世界

 極楽浄土は阿弥陀如来の願いの世界です。そこに往生するということは、阿弥陀如来と同じ願いに生きる身となるということです。
 その願いはあらゆるいのちに不滅の輝きあれという願いです。そしてそのためにこそ、果てしない智慧と慈悲の主となって、南無阿弥陀仏の呼び声を一人ひとりのこころにとどけ、極楽浄土に迎え入れよう、同じ仏とならせようとの誓いが立てられたのです。

38  一切を浄化する世界

 阿弥陀如来の開かれた極楽世界は、浄土とも呼ばれます。清浄な世界という意味です。 それは、真っ白なハンカチや白木のお盆のような、汚れを知らぬ清浄さをいうのではありません。あらゆる汚れものを抱き取って、しかもそれに汚されることなく、それを浄化してしまうという意味の清浄さなのです。
 家中の汚れ物を引き受けて、いつもきれいに片づけてしまうお母さんの手のような、汚水をきれいにする浄化槽のような働きをいうのです。

39  凡夫を如来に生まれ変わらせる世界

 極楽浄土は、阿弥陀如来の清浄なる智慧の世界です。その浄化の働きは、泥沼に生いたって濁りに染まらぬ華を咲かせ、泥沼を花園に変えてしまう蓮華に譬えられます。
 ですから浄土は「蓮華蔵世界」とも呼ばれます。また地球最大の浄化槽である大海にも譬えられます。全ての濁水を抱き入れて浄化し、同じ大海の水として同化するからです。エゴイストの私たちを浄化して、大慈悲の如来に生まれ変わらせる世界なのです。

40  往く道は還る道

 浄土へ往く道は、もともと浄土から私たちの所までとどいている道でなければなりませんね。それが南無阿弥陀仏の念仏の道なのです。
 そしてそれはまた、浄土へ往って仏と生まれ変わった上で、浄土からこの世界へ帰って来て菩薩のはたらきをする道でもあるのです。
 我、汝の光となろう。我、汝のいのちとなろうという阿弥陀如来のお心の全体が南無阿弥陀仏となって私たちのもとにとどいて、呼びかけ続けていて下さったのです。

41  浄土に生まれるタネ

 昔から「まかぬタネは生えぬ」と言います。極楽浄土に生まれるためにはそれなりのタネが必要です。しかしまた、「瓜のつるにナスビはならぬ」と言いますように、我欲のまじったタネまきでは、浄土に生まれる役に立つ道理がありません。
 浄土は阿弥陀如来の清浄な願と行によってできた真実の世界だからです。柿のタネが柿の実の中からしか得られないように、浄土に生まれるタネは、阿弥陀如来から頂く信心より他にあるはずがなかったのです。

42  仏になったら何をする

 「仏様になったら何をしたいですか」と日曜学校に通ってくる子供たちにアンケートしたことがあります。
 「地球を救いたい」「戦争をなくしたい」「公害をなくしたい」「誰にも人間に生まれたことの素晴らしさをわからせたい」というような人助けの答えばかりでした。正直なところ、少し驚きました。「健康で幸せに長生きしたい」などという利己的な答えが一つもなかったのです。
 子供たちは仏の教えをこんなふうに受けとっていたのです。

43  何のための往生か

 極楽へ往くのは何のためでしょうか。苦悩する人々を救える身に生まれ変わるためであると説かれています。
 救われねばならないのは、迷いの世界に生きる私たちであるからです。如来の大慈悲を聞いて、光と仰ぎ、いのちと喜ぶのは迷い苦しむ私であり、「救われた」と思うのは、あくまでこの世でのことです。しかし、自分一人が救われたと感じただけでは不十分。あらゆる人を救える身になれてこそ。だから往生を願えと勧められるのです。

44  表現としての仏と浄土

 念仏を称えながらも、本当に阿弥陀如来はおられるのか、極楽浄土はあるのかと疑いの闇が晴れない人にこたえて、曇鸞という方はいわれました。それは、阿弥陀如来とその浄土が、すがた形もなく言葉で表しようもなく心でとらえようのない不滅の真実を、我々にも受けとめられるように、人格的イメージ的に表現したものであることを理解しないからであると。
 阿弥陀如来と浄土の教えを通して、私たちは自分のこころを超えたものを聞かせて頂くことができるのでした。

45  呼び覚ます声

 他人には「わたしの母」と言い、友達には「俺のおふくろ」などと言いますが、直接呼ぶ時には「お母さん」とか「ママ」と呼びます。それは母自身が名のった呼び名です。幼児の存在と心を呼び覚ました名のりです。
 この呼び名には、母の子にかける親心と、母によって今日まで築き上げられてきた親子のきずなの全体がこもっています。
 南無阿弥陀仏は阿弥陀如来からわたくしへの名のりであり、呼び声であると説かれています。ただの名前や言葉ではなかったのです。

46  すべてが名におさまる

 母が一生のうちにわが子に対して語りかける言葉の量は膨大なものでしょう。口数の少ない母、子に語りかける機会の少なかった母の場合でも、相当な量になることでしょう。 しかし、どれほど多くの言葉も結局は「お母さんよ」という名のり、呼び声、叫びに尽きるのではないでしょうか。
 釈迦一代のあらゆる説法は、ただ、南無阿弥陀仏という阿弥陀如来の呼び声ひとつを伝えるためであったと説かれています。

47  名にこもるいのち

 「天皇陛下万歳と唱えて死んだものはおらん。みんな『母ちゃん』と叫んで死んでいったもんや」と、幼い頃に囲炉裏ばたで聞いた言葉が耳の底に焼きついています。
 母の願いを裏切らせるような道徳や政治は、道徳でも政治でもありません。泥棒が仕事でも職業でもないように。二度と戦前の道徳と政治を復活させてはなりません。
 それにしても、「母ちゃん」という名は、母ちゃんそのものなのだと学びました。南無阿弥陀仏の声が阿弥陀如来そのものであるように。

48  名号で救いたもう

 目をそむける者、背を向けて逃げる者、目をつぶってやり過ごそうとする者、眠りこんで見る意志の起こりようもない者、そんな者に何を見せても無駄ですね。見ないのですから。叫ぶより、呼びかけるより他ありません。
 仏法が教えとなり、名号となり、声となっているのはそのためだったのです。見逃してはならない事実に目をつぶり、真実に背を向けて己の妄想を追いかけるわたくしを救う道は、耳から心へ飛び込む南無阿弥陀仏より他になかったのです。

49  阿難の仏教

 すべての経典は、「如是我聞」という言葉で始まります。「この通りに私は聞かせて頂きました」という意味です。
 晩年の釈尊のそば近く仕え、誰よりも多くの教えを聞き、記憶していたために、全経典の伝承者となった阿難という弟子の語りという形式をとっているのです。仏教とは、阿難が聞き、阿難が受けとめ、阿難が奉じた教えであるともいえます。
 このことは、仏陀から自分への仰せとして、私がどう聞き、どう受けとめるかが決定的に重要であることを示唆しているといわれます。

50  信は通信

 信という文字は、真に通じ、伸に通ずると辞典にあります。相手に対してまことをのべるという発信的な意味と、相手が自分に対してまことをのべていると受けとめるいう受信的な意味とがあります。
 信は本当のコミニケーションを指す文字だったわけです。個人的な思い込みなどとは全く別物でした。鰯の頭も信心からという言い習わしは混乱のもとでした。
 教えを通して如来から私にとどいたまごころ、それが信心なのです。如来を信じて祈る私の心というのではありません。

51  信は受信

 信は、本当だと判断することでも、間違いないと思い込むことでもなく、ようこそ私にと受けとめることです。
 如来がわたくしに、こんなわたくしと見抜いて、わたくしのために、そむき背を向けるわたくしだからこそ捨てておけないと、このように仰せられるのだと受け取ることです。如来の真実、如来の大慈悲を受け取るのですから、わたしのこころのあり方を信心といっているのではありません。信念や信頼や確信や信条とは違います。
 如来から発信された大慈悲の南無阿弥陀仏を我がためと受信するのが信心です。

52  弥陀をたのめ

 「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」と蓮如上人は勧められました。
 たのめとは、「信め」であって、祈れ、請い願えということではありません。「ようこそおたすけ」と受けとるということです。「どうぞお乗り下さい」「ありがとうございます。どうぞ乗せてくださいませ」というのと同じです。
 たのむは、「のむ」が本体です。依る、折る、なびく、はさむに意味を強める「た」がついた、たよる、た折る、たなびく、たばさむなどと同様です。「相手の言い分をのむ」「のみ込みがいい」というときの「のむ」です。ようこそとしっかり受けとめること、信むこと、つまりは信ずることです。

53  おまかせ

 「如来様におまかせするばかりです」と昔の念仏者は言われました。自分は何もしないで人まかせにするという、任せるではありません。如来のまごころを知って「信せる」のです。言うとおりにする、喜んで従う、どこまでもついてゆくという意味の「おまかせ」です。
 「どこへ行きましょうか」「あなたにおまかせします」「じゃ、一緒に五箇山へ紅葉狩りに」というようなものです。
 親鸞聖人は「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」とうたわれました。如来におまかせして生きようという決意を述べられたものです。

54  南無阿弥陀仏

 南无阿弥陀佛を名号と呼びます。阿弥陀さまから私たちへの名のりであり呼び声であるからという意味です。また名声と呼びます。南无阿弥陀佛は人のとなえる声となって耳から入るものだからです。
 聞こうという気はなくても耳から入る人の声となって、誰の心の中にも飛び込んでゆこうという如来の願いの現れたものです。
 南無は信心を、阿弥陀仏は救いを表し、しかもはじめから一体になっています。心の中に飛び込んで信心となって救って下さる阿弥陀如来であることを示しています。如来がわたしの信心になってくださるのです。