迷いの我ら法話 ABC

A  苦を生きる

 釈尊は説かれました。生まれることは苦であり、老いることは苦であり、病むことは苦であり、死ぬこともまた苦であると。
 苦とは我が意のままにならないという意味だといわれています。なるほど、望んで生まれたわけでなく、生まれ方を選ぶことはできません。ままになるなら老いる人はありますまい。ままになるなら病む人はありません。ままになるなら死ぬこともなく、死にたいと望むこともないでしょう。
 できたものは古くなり、いたんでくる、そして動かなくなって朽ちる。厳然たる道理の中にわたしもいたのです。

B  苦から学ぶ

憂いある故に努め励むことを、悲しみを通して他を思いやることを、苦しみの中から助け合う喜びを、悩みの底からいのちの輝きを見る智慧を、悶えの彼方に不滅の真実を聞く信心を学びとるのではないでしょうか。
 老病死の無常あるがゆえに、誰も憂い悲しみ苦しみ悩み悶えからは逃げられません。この苦悩こそが、人と生まれていのちを知るための土壌なのでしょう。安逸や幸運から何か学ぶものがありましょうか。

C  死にたいと思う心

 「死にたい」と思う心理は複雑です。今まで死んでみた経験もなく、死んだら楽だったという経験があるわけではありません。つまりは単純に死にたいわけではないのです。問題は死ぬか死なないかではなく、こんな生きかたを続けていけるのか、受け入れられるのかということです。
 生への執着は底知れないもののはずですが、それさえも逆転するほど現状と未来像が絶望的に思える時、人は死を願うのでしょう。
 希望と使命感を力に生きているのが人間だということではないでしょうか。

D  天上もまた苦界

 仏教の説くところでは、天上界もまた迷いの世界であり魔界とされます。
 寿命はあまりにも長く、欲楽に満ちて、いうことはなさそうですが、苦しみを忘れ、命に限りあることも忘れて楽しみ暮らすうち、恐らくは龍宮城と同じように、あっという間に老いと死が迫ってきます。それまで楽しみばかりだったため、苦しみを忘れた仲間たちしかいないために、天上界からずり落ちる時に感ずる苦しみは地獄の八倍であると説かれます。
 要するに煩悩を抱えたままでは、どんな幸せも仮のものということでしょうか。

E  無我のあかし

葬儀の際に掲げた父の遺影を見て考えました。アルバムには幼少時からのたくさんの写真があります。どれが本当の父の写真かと言われれば、全部が本物だと答えねばなりません。同時にどれもが一時の、仮のすがたでもあります。これが本物という特定の父のすがたは存在しません。
 同じことは写真だけでなく、父そのものについてもいえます。これがわたくしであるというわたくしは存在しない。「無我」とは、このことでした。

F いのちに苦しむ

 死んだ後は、二度と痛いの苦しいのしんどいのということはありません。お金も着物もいりません。苦しみも悩みも生きている間のことです。苦悩は「最初で最後のこの一日をこのままで過ごしていいのか」という命の奥から発せられる警告信号なのでしょう。
 信号無視はいけませんが、信号を憎むのも間違いでしょう。死を万人に約束された安らぎと見切って、堂々とそしてさわやかに生きたいものです。悲しいときは泣き、悩むときは身をよじりつつ。

G  死んだらしまいの人生

「死ねばおしまい」という人あり、「死んでも魂は残る」という人あり。「死」を憎んでいる点では、いずれも同じです。
 釈迦の生涯もわずか八十年。老いと病と死を受け入れての静かな最期でした。それは二度とやり直す必要のない生涯、そして二千数百年の歳月を超え、国境も文化の違いも踏み越えて、万人の灯火として燃え続ける不滅の一生でした。「死んだらしまいの人生を歩いてくれるな」と、私たちを励まして。

H  たましいと運命

 たましいというものがあろうとなかろうと、人は老い、人は病み、人は死にます。たましいがあろうとなかろうと、ままならぬ人生であることに変わりはありません。そして、別れの悲しみから逃れることはできません。立ちすくまずにいられないほどの、厳然たる事実です。
 運命というものがあろうなかろうと、また同じです。たましいを語り、運命を占うことは、この事実から目をそらすことになります。「ありのままに見よ」という釈尊の言葉の厳しさを知らされます。

I  見えないものへの恐れ

 自分の目を過信し、目に見えないものを軽んずる人はまた、目に見えないものを恐れるものです。目に見える人間を動かしているのは目に見えない心であることを考えれば、人の心を軽んずる人は、同時に人の心におびえるということでしょう。
 心は見るものではありません。聞くものです。聞いて心に感じ取るものです。命あるうちに聞いておかねばならぬことがあるのではないでしょうか。

J  自分の知恵につまづく

故人との深い縁を偲びつつ、あらためて自らを見つめなおす時、過去の影に縛られ、未来の幻に惑って、今の時の重さを忘れ、明日もあり、来年もありと、いたずらに欲望を追いかけている自分が問われてきます。
 死を前にして悔やむことのないよう真実を求め、努め励むことを学ばなければならなかったのです。
 まことに、私たちの知恵はあまりにおろそかで、与えられた命を持て余し、命を命と知る知恵に、自らつまづいています。

K  神仏を利用するエゴ

 自分の望みをかなえるために、神でも仏でもと祈るこころは魔に仕えるのとどこが違うのでしょうか。
 祈りといっても、自分の望みをかなえるための手段に過ぎません。仏の心を学びそれに従おうというのとは逆さまです。神仏を自分に仕えさせたいのです。その人が求めるものは力なのであって、真実ではないのです。人が政治や科学に求めているものも同じだとしたら悲しいことです。

L  凡夫の患い

 自分自身が老い病み死ぬ身ありながら、老いを嫌い、病いを憎み、死を恐れるのが人間です。所詮は一個の生きものでありながら、生きものに過ぎないことを呪わずにいられないのです。
 ここに、生きものとしての人間の根本的矛盾があります。生まれたいと思って生まれたわけでもない身なのに、思い通りに生きられないことを嘆き、時には死さえも願うという意味で、いのちに背いてものを思う存在です。
 いのちへの驚きに立ち返りたいものですね。

M  迷い

 過去の経験を基準にしてしか現在を見ることがなかったら、現在は変形した過去にすぎないということになります。これでは、過去の影に縛られて現在を見ようとしないのと同じです。自分が思い描く未来に向かってしか現在を受けとめようとしないとすれば、現在は単なる途中経過でしかなくなります。これでは、現在を見ていないことになります。
 そうやって、自らの「いのち」にそして「今」に背いているのが、迷える私たちではないのでしょうか。

N  人間としての花

 死なねばならぬという嘆きを転じて、生まれ得たことへの驚きと、生きてあることへの感動とよろこび、そして人の世に生きるものとしての自分の使命を見いだすことこそが、人間としての花なのではないでしょうか。
 いのちをいのちと知る唯一の生き物、生老病死のいのちを持て余して悩まずにいられない生き物、それが人間だからです。
 人間に生まれ得たことを喜べないで、どうして死を受け入れられましょう。

O  ありふれた宝

 人間として生まれたことに驚きと喜びを見いだすことは案外むずかしいことかも知れません。親も兄弟も親戚も友達も、憎いかたきも、みな人間ですから。最も罪深い生き物は人間、最も悩み多き生き物は人間ですから。
 他の生き物はなんと素直ですっきりした生きかたをしていることでしょう。しかし、いのちをいのちと知り、いのちにひそむ願いを知るのは人間だけですね。

P  こころこそ仇

 幸せとは心の満足を得ることだという考え方があります。しかし、決して満足してくれないのが心というものではないでしょうか。越後の名僧徳龍師は「おのれの心に気を許すな、この心こそ迷いに迷いを重ねさせた万劫のかたきである」と言われました。
 「体は嘘をつかない」と言います。嘘をついて身を煩わせ悩ませるのは心です。「自分の心に正直に」生きてよいのでしょうか。
 眼前の事実が語ろうとしているものに耳を傾け、もろくて老いやすいわが身のいのちの声に耳を開くことこそ大切なのではないでしょうか。

Q  物と心

 現代は「物で栄えて心で滅ぶ」時代だと言う人があります。しかし、物は嘘をつかず、欲望を持たないのです。物を欲望の対象として消費しようとするのは心です。「現代は物質的欲望に対する心の歯止めを失った時代だ」という方がふさわしいでしょう。
 人間の物質的身体は人を殺すようにできているわけではありません。物質的な欲望のために身体を人殺しの手段に使うのは心なのです。
 国益のためと称して、相手国と自国の国民の命を賭けものにするのは、何が国益であるか以前の問題ではないでしょうか。

R  仏法で得ができるか

 仏法を信じて何の得がある、何の役に立つと言う人があります。しかし、私たちは、役に立つために生まれてきたのではありません。得するために生きているわけではありません。
 生きるために損得を考え、生きるために役に立つとか立たないとかを判断しているのです。では、苦悩多き人生、しかも必ず終わる人生を生きることに何の意味があるのでしょうか。
 私が生きることの意味は私自身が見つけていくより他はありません。私がそれを見つけ出していくためのよりどころとなり、励ましとなるものが仏法だと思うのです。

S  豊かさの中の醜さ

 「昔の人は偉かった」という言葉をよく聞きます。清貧・忍耐・勤勉・道徳的・敬虔・世のため人のため子孫のためにという言葉が浮かんできます。
 「小人閑居すれば不善をなす」という古語がありますが、小人豊かにして悪徳多しという意味にも取れそうです。
 国会では、財政税制論議が盛んですが、貧苦の中の人達をこそ重点にしてもらいたいものです。一般は、収入が増えることより、先人を偲び、自ら省みて己を律することの方が大事かもしれません。

T  願えどもままならぬ人の世

 極楽浄土に生まれることは、迷いをはなれて覚りを開き、自らの苦難を離れるだけでなくあらゆるものを自在に導き救う身になることだと示し、だから浄土に生まれたいと願えと勧めて下さっています。
 願えどもままならぬ人の世の悲しさ、どれほど絶望的に思えてもやはり願わずにはいられない人間のこころ。これを見通し、これを背負って立って下さったのが阿弥陀如来の本願でした。
 できておごらず、できなくて嘆かず、決して投げやりにならず、愚かで弱い自分にすなおに、現実に真向かいになって生きよと呼びかけられているのだと思います。

U  三悪道

 地獄・餓鬼・畜生の三つの境涯を三途といい、三悪道とも呼びます。
 六道絵などに描かれる姿にはモデルがあって、地獄の姿は牢獄における刑罰の様子を、餓鬼の姿は飢饉の時の瀕死の飢餓の人のありさまを、畜生は弱肉強食の姿をもとにしているといわれます。人間の中にひそむ醜さ恐ろしさを象徴的に表現したものだということでしょう。
 原爆被災者の証言が語る人が作る地獄の凄まじさ、天災よりは内戦ゆえの骨と皮ながらお腹だけがふくらんだ飢えた子供の姿、まさに弱肉強食の人の世のありさまなどが想起されてきます。

V  地獄は足下に

 地獄は足下の大地の奥にあると説かれています。私たちの現実の背後に隠れている果てしない苦しみ、嘆き、悲しみ、絶望感を見通して涙をこぼしていてくださる阿弥陀如来の大慈悲の表現であると思います。
 親鸞聖人は地獄の王、閻魔を「炎魔法王」と呼ばれました。法王という呼称は阿弥陀如来にのみ用いられるはずです。閻魔王は阿弥陀如来の化身と見られたのでしょう。
 「地獄で仏」といいますが、地獄もまた実は阿弥陀如来のお膝元といいたかったのでしょうか。

W  万人の宿題

 如来の大慈悲は誰の上にも無条件にかけられていると説かれています。如来の眼の前には誰もが、苦悩の衆生だからでありましょう。
 どんなに幸運な人といえども、思うままに生きられる人はいません。生きている以上は老いと病と死を逃れることはできません。それ故、憂い悲しみ苦しみ悩みから免れられません。
 ままならぬ限られた命の中で、どこに不滅の輝きを見いだすかは、命あるすべてのものの宿題です。

X  安楽への道

 「憂いあり、悲しみあり、苦しみあり、悩みあり、悶えがある」と釈尊はお説きになりました。
 生まれた以上は、必ず老い、病み、死ななければなりません。あるいは愛するものに先立たれ、あるいは愛するものを残して先立たねばなりません。何時どんな病や事故や不測の事態が襲ってくるかもしれません。たとえはじめからわかっていたとしても別れの悲しみは避けられません。
 これが人間が生きる現実なのだと示し、その苦悩を越えて安らぎと喜びを見いだす道を説き開こうとして下さったのでした。

Y  念仏者のいのり

 願わくは、こうして私の心にまで届いてきた如来の真実を、あらゆる人々に伝え、ともに仏となって世に光をもたらそうという志を起こし、安らぎと喜びの世界に集いたい。
 これが、すべての念仏者の願いです。ご法事の最後にとなえる「願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国」はそんな意味のことばです。
 なぜ、念仏の教えでは「祈る」ということを言わないのか。あえていうとすれば、念仏に込められた祈りとはどんな祈りなのか。このことばが示していると思います。