いのちの法話 あいうえお

あ  今を生きる

 生まれたものは必ず死にます。しかし、死ぬために生まれてきたのではなく、死ぬために生きているのでもありません。
 未来のために現在があるのではありません。現在のために過去があったのではありません。その時の「今」こそかけがえのない「いのちの時」です。
 過去に縛られることなく、未来を追うことなく、過去によって成り、未来を生む「今」を大切にしたいものです。

い  いのちには始めあり終わりあり

 生きることの反対が死ぬことではありません。死ぬことの反対が生きることではありません。死ぬことの反対は生まれること。生まれることの反対は死ぬことです。そして、誕生は生きることの始まり、死は生きることの終わりです。
 いのちには始めがあり、終わりがあるということです。もとはいなかったものが生まれてきて、やがて死んでいなくなるものが、今ここに生きているのです。不思議ですね。

う  死から生きる

 「死ぬかもしれない」のではありません。「まだか」「いよいよか」なのです。
 何時死ぬかわからないからといって、「多分、当分は生きているだろう」ということを前提にしているのはおかしなことです。明日のことはわからなくても、何十年か先、自分がいなくなるということはわかっているのです。
 終りある命だからこそ、願うべきこと、努め励むべきことが見つかるのでしょう。

え  死という名の鏡

 「死」はいのちの意味を照らしだす鏡。鏡を見ることが自分の姿を見ることであるように、死を見つめること、死を想うことは人生の意味を問うことです。
 「死」というものが何か実体として存在するわけではありません。存在するのは「生存」という今の、かりそめの事実です。その生存が、「これ何ぞ」と問われているのです。 一瞬一瞬のしかし不滅のかがやき、それが「いのち」であってほしいものです。

お  死を憎む故に

 「死んだらおしまい、何も残らない」「人は死ねばごみになる」こんなことを言う人があります。「死んでも魂は残る」という人がいるものですから、それに対する反発なのでしょうか。或いは、死というものを憎むあまりの嘆きの言葉でしょうか。
 考えてみれば、死んでも魂が残るというのも、ずいぶんこだわった言い方ですね。よっぽど、死というものを素直に受け入れられないのでしょう。どちらも、死とういう避けがたい現実に対する拒絶反応ではないでしょうか。

か  いのちの不思議

 「死」というものが何か実体としてあるわけではありません。「死の世界」というものがあるのでもありません。生きていたものが、もはや生きてはいなくなっただけのことです。
 そもそもが、生まれてこなくても少しも不思議ではありません。生まれてきたこと、生きているということが、不思議なこと、全く特別のことであったのです。「死」を恐れる前に、人間に生まれたことに驚きたいものです。

き  この今から

 明日のために今日があるのではありません。老後のために青春があるのではなく、大人になるために子どもがいるわけではないのです。
 そしてまた、少年が老け込んだのが老人なのではありません。若すぎる老人が少年なのではありません。
 それぞれが初めての今日、最後の今日、私の今日を生きているのでしょう。かけがえのない今日を生きるのです。悔いることのない、輝ける今日でありたいですね。

く  今がいのち

 今日を明日の手段にしてはなりませんね。今日そのものが、尊く、かけがえのないいのちの時なのです。
 今日を昨日の残り物にしてはなりません。新しい今日なのです。昨日はどうあろうと、今日その昨日をどう受けとめ、どう生かすかが今日の宿題なのです。
 昔の人は「無常は同い年」だと言いました。いのちの世界は、誰もが同級生だったのです。

け  いのちを受けとめる

 愛する人、尊敬する人、大事な人、忘れられない人が、死んでいなくなったことを嘆いても、それはどうにもならない事実です。だからこそと、今生きているこのいのちをどう生きるかが問題なのです。
 確かにその人が生きていた。このように生きた、という事実を大切に受けとめるべきなのでありましょうそして、その事実からわたしが何を受け取り、何を見いだすかなのではないでしょうか。

こ  消えないいのち

 生存が終わった後を「死」と呼びますが、生存が始まる前を呼ぶ名はありません。何故でしょうか。その人がいないことは同じなのにです。
 考えますに、どんな生存も、その後に消えることのない痕跡を残すからではないでしょうか。たとえ、ひとは気づかず、あるいは忘れてしまったとしてもです。死んでもそのいのちの重さは消えない、変わらないということなのでしょう。

さ  一瞬の輝きとしてのいのち

 わたしが生まれる前には、無限ともいうべき長い長い時間があったわけでしょう。そして、わたしが死んだ後、また永遠の時が流れて行くに違いありません。
 無限の時間の中にほんのひとときの、一瞬の輝きにも似たいのちなのでありましょう。無限の時間の中の五十年や百年の寿命は、長いとか短いとかいうべきものではなかったのかも知れません。
 与えられたいのちの不思議に目覚めるかどうかがだったのではないでしょうか。

し  長くならない人生

 科学の発達と生活の豊かさによって寿命は長くなりましたが、人生は長くなったのでしょうか。かえって短くなったというのが実感ではないでしょうか。
 あれもしたいこれも見たいと夢ばかりが膨らんで、限りあるいのちの重さ不思議さを噛みしめることが少なくなったような気がします。死は受け入れがたい悲劇になってしまったようです。
 「仏法には明日ということあるべからず」ということばが思い起こされます

す  不滅の過去、永遠なる事実

 「人は死ねばごみになる」と言った人がいますが、それは変です。生きている人間はごみの本なのでしょうか。
 釈尊の生涯もわずか八十年、しかし二千数百年の歳月を越えて、今も人々のこころの灯火として燃えつづけている不滅の八十年でした。
 我が家に仏壇があるのも、私達が手に数珠を持っているのも、二千数百年前に生きられた釈尊のいのちが今もはたらき続けていて下さる証です。

せ  明日の風を憂えず

明日は明日の風が吹く」という題のドラマがありました。今日さえよければというのんきな考えかと、そのころは思っていましたが、今思うと、「悔いのない今日を精一杯生きよう。それが、明日はどんな風の吹く明日であろうと、明日もまた精一杯の明日にする道だ」という意味だったようです。
 「人生やり直しはきかないが見直しはできる」といった人があります。今あることの尊さを教えられます。

そ  無知を生きる

 蝉は夏の盛りを生きながら夏ということを知りません。春を知り、秋を知る人間は、まだ鳴かぬ先からやがて蝉が鳴きだすことを知っています。しきりに鳴いている最中にも鳴き声がもうすぐやんでしまうことを見通しています。蝉の命のはかなさを知っています。 生まれる前も、死んだ後も見ることのできないわたしは、実は自分の人生の意味もわかるはずがないのかも知れません。如来さまの智慧の眼より他ないのでありましょう。

た  抱かれてありと知る

 幸いなことに、私たちは如来の智慧を教えとして聞くことができます。如来がお知りになるように知ることはできようはずもありませんが、このわたくしにかけられた如来の底なしの慈悲、果てしない願いを聞かせていただく時、わかった知ったというのではなく、我が思いを越えた重く尊いいのちが、広大無辺なるものの中に確かに抱かれていると、うなづかせて頂くのです。

ち  わからなくてもよかった

 仏法は広大過ぎて我々の理解を越えています。経験を積んでも積んでも、知識が増えても増えても腹は立つし、欲は深いし、愚痴も多いことは、幾つ何十になっても一向に治らない。そんなおろそかなわたしの智慧で、そんなさもしいわたしの心でわかるものは仏法ではなかったのです。
 ちっぽけなわたしの心にはおさまる筈のない果てしなく大きな真実、そして悲しいわたしを抱いていて下さる確かな世界。それが仏法だったのです。

つ  いのちを支えたものを拝む

 昔、和辻哲郎という哲学者が父の葬儀を出すために、故郷に帰ったとき、村の慣習通り庭先に土下座して会葬者を送ったという話を本で読んだことを思い出します。
 何と古臭いことと内心は批判的だった氏が、目の前を次々と通りすぎていく村人の足もとを見ているうち、苦節を語るその足・足・足に胸を突かれ、この足々に支えられての我が父の生涯であったと痛感したといいます。
 葬儀は死んだ人のためではなかったと知りました。

て  いのちの重さをかみしめる

 死去の日から数えて七七・四十九日間を中陰と呼びます。この期間中に死者のいのちは別の生き物に生まれ変わるというインド伝統の生命観にもとづくものです。
 この期間中は故人を偲びつついのちの重さ・不思議さに思いを致し、身を慎み、特に殺生を避ける習わしです。いわゆる精進料理もこの趣旨から出たものとうかがわれます。
 そこには、あらゆる生き物に同じいのちが宿っているという、いのちへの共感が示されています。

と  自らのいのちを問う

中陰の終わることを満中陰といいます。死者は何時までも死者に非ず、今や新たなるいのちなりということを意味します。
 四十九日の法要も、何時までも、死者の影を追うことなく、自らが生きてあることの意味を問うべしという意識の転換を促すという意義を持つものでありましょう。
 それ以後の年忌法要も究極のよりどころである仏法僧の三宝を供養して、いのちの尊さに目覚め、如来の大悲と故人の恩にこたえるためです。

な  わたくしのためにようこそ

 『正信念仏偈』や『経』を読誦することの意味を、蓮如上人は何かの手段として使うためでなく、自分自身のための仰せと受けとって「ありがたや、尊や」とよろこぶいとなみであるとお示しになっています。
 私たちにかけてくださる如来の大いなる願いを聞き取り、人間に生まれさせて頂いた本当の幸せを見い出す中に、私たちにまで、浄土真宗を受け継ぎ念仏を伝えて下さった祖先のこころを引き継ぐ道もあるのです。

に  いのちの意味

 すべての生き物はもとより、この大地も、太陽も月も満天の星々までも、消えてなくなる時がくる。大宇宙も生まれたものであり、滅ぶものです。諸行無常です。
 長く生きることや、何かを残すことに意味があるのではありません。滅びることがわかっているからこそ、今、いのちの意味、すべての存在の意味を、私自身が見いださねばなりません。
 大宇宙の全歴史を、今のこのいのちの中に燃やしたいものです。

ぬ  明日を待つことなかれ

 「仏法には明日と申すことあるまじく候」「仏法の上には明日のことを今日するやうにいそぎ」と言われたのは蓮如上人です。
 今自分が死んだとしたら、このことが心残りだろうと思うことがあったら、今日すぐ始めるべきでしょう。
 これだけは聞いておきたいこと、これだけは言っておきたいこと、これだけはしておきたいこと、そこに本当の自分がいるのではないでしょうか。

ね  死を前の今日

 「今日ばかり思ふこころを忘るなよ さなきはいとど望み多きに」とうたわれたのは覚如上人です。無常の身、限りある命、二度とない今日ということを忘れるから、際限のない欲望に振り回されるのだという意味でしょう。
 死を見つめることは、人間に生まれたことの意味を見いだすための、何よりの目覚まし薬なのではないでしょうか。自分にとってかけがえのない人から、その命と引き換えにただ一服しかもらえない薬ですね。

の  無常ゆえに努めよ

 「諸行は無常である。怠らず努め励んで清らかな眼を開け」とは、釈尊の遺言です。清らかとは、我や欲を離れたということでしょう。
 明日は死ぬ身が今日は生きていると見れば、我を張ったり、欲をかいて空しく日を過ごせようか。努め励んで悔いのないように生きよということであると思います。
 何と単純で、真実で、実行困難な道でしょうか。迷いの凡夫と呼ばれている我が身の愚かさを痛感します。

は  無常は我欲を笑う

 今日一日のいのちだと思えば、損だとか得だとかいってはいられましょうか。楽だとか苦労だとかは問題にしていられましょうか。自分の立場を守るために煩うなどというチビッた生き方をしていられましょうか。過去のことに縛られてなどいられましょうか。明日のために今日を犠牲になどできましょうか。今の自分なりに精一杯に生きるよりほかはありますまい。
 この無常という事実から目をそむけているからこその、「迷い」でした。

ひ  忙と忘

 心という字と亡くなるという字を合わせた字が二つあります。忙と忘です。
 傘も、財布も、仕事も、遊ぶことも、面子を守ることも、何一つ忘れず、忙しく走り回って来たけれど、気がついたら自分の命が限りあるものだということを忘れていた。お金の損にはすぐ気がつくが、お金のために限りある命を浪費していたという命の損には気がつかなかったいうのでは寂しいことです。
 忙は命の忘れものですね。

ふ  釣り堀の魚

 私たちは釣り堀の魚たちに似ています。次々に仲間たちが釣り上げられていなくなっているのに、相変わらずただ餌ばかり求め回り、次々と釣り上げられていきます。仲間がどんどんいなくなっている事実から何も学ぶことがないようです。「あわれというもなかなかおろかなり」というほかはありません。
 すぐにもいなくなる人達の中に、すぐにもいなくなる私が、今こうしている。このままでよいのかと問わずにはおれません。この問こそ仏法の出発点でした。

へ  鬼が笑う

 まだ明日もあさっても、来年も再来年もあるというあいまいな気持ちが抜けない私には本当のところはよくわからない境地ですが、ほどなくして自分は死ぬのだと受け入れたとき、底知れぬ寂しさを感ずるもののようです。しかし、また生きるものの華やぎと輝きを見る目も同時に開くようです。
 今の時を一杯に生きるというのは、死を前にして生きるということではないかと思えます。
 諸行無常の事実を見よと教えられてきたことは、いのちの輝きを見る目を開け、そのいのちを一杯に生きよということでもあったのでしょう。

ほ  古くなれば

 古くならない機械や、古くなってもいたまない機械がどこかにありましょうか。人間の身体も同じことです。老いない人はなく、老いて病まない人はありません。ただ医療の必要がないか、医療でも治しようがないために医者にかからない人はいます。ついにかなめの部分まで傷めば動かなくなってしまいます。それが死です。
 宗教の力で病気を治すという話を聞きますが、宗教で老化を止めるという話は聞きません。老化が止められないのにどうして病を止められるのでしょうか。心幼いことです。
 生老病死がいのちの約束と仏陀は説かれました。

ま  無常なるわたし

 このわたしはこのわたしである。このことが間違いであるはずがない。そう思っておりましたが、諸行無常と聞かせていただいたとき、それが単なる便宜上の理屈、かりそめのことに過ぎなかったと気づきました。このわたしはこのわたしと思っている間に皺がより白髪が増えて、これがわたしかと鏡を見て驚くのですから。
 変わらぬこのわたしなどないということを無我と言い当てて下さったのでした。
 このわたしの奥に霊魂という変わらぬものがあるという人がいます。しかし霊魂があろうとなかろうとわたしは老い、病み、死ぬのです。このことをどう受け止めるかこそ大問題でした。

み  いろは歌のこころ

 色は匂へど散りぬるを、わが世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔ひもせず。ご存じのいろは歌です。
 色香匂い立つように咲いていた花も、すぐに散ってしまうではないか。誰が永遠に生き続けられようか。損得や愛憎にしばられて、あれやこれやと思い惑う世界を、まだ命ある今こそ越え出ようではないか。たわいもない夢を追いかけるのはよそう。かりそめの幸せに酔っていてはならなかったのだという意味でありましょう。

む  滅ぶべくして今ある

 いずれは、人類もこの大宇宙も滅び去る時がやって来ます。宇宙が誕生し、生命が現れ人類が登場したことに目的や意味がはじめからあったわけではありません。目的や意味は私たち人間が生きるいとなみの中で生み出し、見いだすものです。
 宇宙が何時こわれるのであろうとも、今を生きることの意味を見いだそうとする人間として、わたしがここにいることに変わりはありません。
 一切の消滅という恐るべき観念にも耐えうる不滅の輝きを、束の間のいのちに見いだそうとする願い、そこから生まれる智慧と慈悲こそが、仏陀のさとりの内容であったと受けとめます。

め  いのちを輝かす願い

 いのちの輝きはめざすものの高さ遠さによるのではないでしょうか。
 権力も財力も武力も、力と名のつくものは必ず滅びます。他の力と争わないではすみません。
 しかし、あらゆるいのちに光あれという願いは、滅びることがありません。そこにいのちあるものがいるかぎり、朽ちることも滅びることもありません。誰かがどこかで受け継ぐからです。どんな力ともぶつかることはありません。力では滅ぼせません。

も  悲しみに華やぐ

 「としどしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」という岡本かの子さんの歌に感銘しました。
 友を失う別れの悲しみ、今までは当たり前にできていたことができなくなる老いの悲しみは一年一年深くなるというのでしょう。その悲しみが深くなる分だけ、いよいよ生きてあることの華やかさ、あらゆるいのちが持つ華やかさが見えてくるということだと思います。悲しみもまた生命の燃焼なのですね。

や  意味を見いだす

 命を与えられたこと、しかも命を命と知る人間としての命を与えられたことは、大きなチャンスを得たということでしょう。
 では一体何のチャンスでしょうか。食って寝て起きて働いて死ぬまで生きているためのチャンスだというのでは自家撞着というものです。子孫を残すためのチャンスだと言ってみても、問題の先送りに過ぎません。与えられた命の意味を見つけ出すのは自分自身の責任であり、自分一人の宿題なのです。
 世界と自分の存在の意味は始めから定まっているわけではないはずです。それを見いだし、生み出すチャンスだと思うのです。

ゆ  子孫にたかる

 自分が生きる意味を、子孫に見いだそうとすることは、自分の宿題を子供に当てつけるのと同じではないでしょうか。それでは子供は無意識のうちに親に対して憎しみを抱くに違いありません。
 親自身が、生きることの意味を自分なりに見つけ、あるいは求めて精一杯に生きようとしている姿こそ、子にとっての励ましであり、育てであって、そこに親に対する敬意も生まれるはずです。
 自分が生きることの意味を問わない親、求めようともしない親は、愛されることはあっても尊敬はされないでしょう。

よ  生きることの意味

 自分の夢をかなえることが理想の人生だという考え方があります。科学の進歩は、近い将来に、思いどおりの夢を見させる技術を開発するにちがいありません。そうなれば、現実以上に魅力的で快楽と達成感に満ちた仮想現実を味わうことができることになります。 もはや苦渋に満ち、悩み多い現実に立ち戻りたくなくなるかもしれません。麻薬も覚醒剤も酒もいらなくなります。裏をかえせば、麻薬と覚醒剤と酒を全部合わせたより恐ろしいものができあがることになります。
 生きることの意味が根本から問われている時代なのですね。

ら  関係の中で生きる

 事故に遭って南海の孤島に漂着。何とか生き延びてはいるものの、自分の存在の空虚さに耐えられず、愛する妻のもとへ帰ろうと手作りの筏で決死の渡海を敢行。戻ってみれば会社では既に死亡扱いで、座る机はなく、妻は夫が死んだものとあきらめ、既に他の男と結婚し幸せそうに暮らしている。どこにも自分の居場所はなかった。アメリカ映画です。 一方で、毎年、オスタカ山の飛行機墜落現場に集まる遺族の方々がいらっしゃいます。他の人との関係をいのちとして私たちがあることを深く考えさせられます。

り  過去は生きもの

 父が亡くなってから、ときどき思い出す出来事や言葉があります。父が生きていた時には、思い出すこともなかったことなのにです。
 私が今たどりついた地点からだからこそ見えてくる過去という景色があります。過去は生きもので、だんだんその様相を変えてきます。
 大きくみれば歴史もまたそうなのでしょう。歴史ほど現在的なものはなく、流動的で主観的なものはないのではないかとさえ思います。一つの事実にも、目のつけどころはさまざまであり、見方や感じ方はいろいろあって当たり前だからです。

る  今日という日

 「あの人が生きたいと願って、生きられなかった今日の日を、私が生きているということに気づかせていただこう」新聞のコラムの中に、そんな趣旨の言葉が載っていました。 わたしの命とはいいながら、わたしのいのちには、わたしの思いを越えた広がりと重さがひそんでいたのだと、深い感銘をおぼえました。
 今日を生きることの意味をかみしめて、大切に生きようという呼びかけでした。

れ  いのちは誰のもの

 あなたのいのちは誰のもの。あなたを産んだ人のもの。あなたを育てた人のもの。あなたを愛する人のもの。あなたが愛する人のもの。愛するであろう人のもの。遠い過去から今までにあなたが生きる日のために尽くしてくれた人のもの。そして誰より、ほかならぬあなた自身のものですね。あなたがあなたのあるじです。
 わがいのちとはいいながら、わがもの顔は勘違い。わがまま過ぎてつまづいて、わがいのちから叱られる。自分が自分を見捨てても、見捨てたまわぬ如来ありと、聞かせてもらったこのいのち。如来さまのものでした。それでもやっぱりわがいのち。わたし次第でどうにでも。