不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。
(御文章五帖目第六通 註釈版 P1193)
『私が、この世でいろいろな苦を受けるのは、全て前世の因縁・過去世の業なのでしょうか。』というこの問いを、よく口の中で繰り返していただければ、お感じになると思います。この様な問いを発するのは、どういう人なのか、ということです。
この人は、現実に苦しみを抱えている人ですね。そして、どうしたら、どう受けとっていったらいいのだろうかという時に、「それは、全て前世の因縁・過去世の業だから、あきらめなさいよ」と言われた。あるいは、言われないまでも、そう聞いている。そうした時に、「やっぱりあきらめていかねばならないのだろうか。いや、あきらめよう」と思いながら、あきらめきれないものを抱えた人の口から出てくる言葉であります。
私が、この世でいろいろな苦を受けるのは全て前世の因縁・過去世の業なのでしょうか。「はい、そうです。」と答えるのが仏法であるならば、仏法に未来はないでありましょう。仏法というものが、勝手に存在しているだけで、仏法に生き、仏法に光を見い出す人は、いなくなってしまうのに違いありません。
何事も前世からの約束
さて、こういう問題が出てくる背景には、通常私自身も耳にしてまいりました、「何事も前世からの約束だ、業だと思ってあきらめなさい」「全ては生まれた時から決まっているのだ」という、こういう言い慣らされた言葉があるわけでございます。
そして、あたかも、それが仏法だあるかの如く、実際に思われている現実があるわけでございましょう。
さて、その言葉を言う人は、どういう理由で言っているのでありましょうか。それは、「不足や不満を言うな」という意味であります。そして、「この現状を変えようなどと、じたばたしても無駄だ」という意味でございます。そして、「上見て暮らすな、下見て暮らせ。お前より、もっとひどい者がいるのだ」という事でございます。
又、「上の者の言う事には、どんなにおかしな事でも、黙って従うのだ」と言う事でもございます。「このより、この中の事はどうしようもないから、あきらめよう。」とこういう意味でもありましょう。
しかし、その様なこの意味をもったこの言葉を、「だけれどもやっぱり、やっぱりそうなのかなあ、やっぱりそう思って生きてゆくよりしょうがないのかなあ。想ってみればそうかもしれない。つまり納得する側は、どんな想いを抱えて、この言葉を発するかということでございます。
それは、やっぱり「私自身が、努力しても、こうしたいと思っても、どうにもなることではないな」という、この無力感とでも言いますか。「どうにもならないな」と思う所で、うなづかれる言葉でありましょう。
それから又、いわれのない差別ですね。「何故わたしがこの様な差別を受けなければならないか。」そういう時に、やっぱり「ああこれでもどうにもならない決まった約束だったのか」という事になるのでありましょう。又、「こんな変なバカな社会の仕組みがあるのだろうか」、と思うのだけれども、どうにも変えようがない。どうにもならない社会の仕組み、というものに突き当たった時、出る言葉、うなづかれる言葉でありましょう」
そしてまた、そういう事でなくても選択不可能な身の事実というものがあります。女に生まれた。別に女の方を選んだ訳ではない。気がついたら女であった。気がついたら、この我が家の子であった。気がついてみたら富山県に生まれていたということであります。あるいは、気がついたら、自分は体が不自由であった。という事もありましょう。気がついてみたら被差別部落にうまれていた、という事でありましょう。
それから、避け難い苦難ですね。どうにも避けられない、あらかじめ用心のしようのない事だったという状況も実際には、ありえる事ですね。
あるいは、比べても仕方のない、またかわってもらうわけにもいかない、人のせいにしてもはじまらない、そういうその自分の状況に突き当たった時に、一方ではそんなバカなと思いながらそうかな、とうなづかないではいられないものをいっぱい抱えて生きている現実があるからでございますね。
しかし、先程皆様のお話し合いをちらっと聞いておりまして、発言の中に出ておりました「このことを業だと言われるのは年輩の人が多いですね。若い人は認めない。」これは重要な問題でございます。
という事は、どういう事かと申しますと、このような業という思想を説かせ、うなづかせた背景に社会の現実があったという事でございます。そして、それが崩れたから、今の人達は余りこれを問題にしなくなった。
それは何かと、言ったら、それはまさしく身分制封建社会というものでございます。どうにもならない、がんじがらめの身分制度。そして一人一人の人間よりも、家というものが優先する社会。あがいても、もがいてもどうにもならない。まさしくそういう社会のしくみというものが思想化した説き、すべてが前世の因縁、何事も業という言葉となって表れた訳でございます。
因縁・業
「否、それは仏教にもともとそういう思想があったのではないか。」という問いがありますが、ところがどうも、そうではないのですね。
さて、言葉としては[因縁]というのも[業]というのも仏教の言葉。しかも仏教の一番根幹を表す言葉であったはずであります。それじゃあ、お釈迦様が、「業」、「因縁」というのは、どういうことでそもそもおっしゃったのだろうか。という事を考えねばなりません。
お釈迦様は、何故それをおっしゃったのか。この事については、仏法が何故おこったのか。何をめざして仏法が説かれたのか。ということをはずれて考えてはなりません。人間の苦悩を理解する為に、人々を様々なしがらみから解放する為に、仏法は説かれたのです。
ここをはずしてどの様な、広遠な解釈がなされようと、それは所せんたわごとであります。人間の苦しみを根本的に解決する。人間を自由に解放してゆく。はじめからその為にこそ仏法はあるのだということです。
どんなに立派な理論に基づいた薬でも、それを飲んで、いよいよ病が重くなるような薬は薬ではございません。それは毒であります。
お釈迦様が、問題にされたのは「そうだったんだ!!」という事でございます。
それで、人生はまず苦であるという事実から出発なさいました。「苦」ということはどういう事かと言いますと、これをわかりやすく言うと「ままならぬ」という事でございます。
我が意志のままにはならないものだという事。何が?何が?何がですか。私の生命そのものがでございます。
生まれることは苦である。大事なことであります。別に生まれた時に苦しかったわけではありません。生まれてきたというその事が、私の意志ではなかったという事でございます。つまり、願わないのに生まれてきたのだ。だから、願わないのに老いてゆかねばならない。願わないのに病まねばならない。願わないのに死なねば鳴らない。つまり「ままならなぬ」ということでございます。
それは、生まれた初めからそうだったじゃないか。願わないのに生まれた身だから、願わないのに死んでゆかねばならない。
私共の生命そのものが、私共の意志とは意志のままにならないものだということでございます。それをべつの言葉で言えば、生きているのではなく、生かされているのだという事でございます。
生かされていると聞けば、何でも結構なように思いがちですが、そうではないのです。それは、私共の思い、計らいを越えた厳然たる事実としてこの生命はあるということなのです。それはまさしく「苦」という事であります。
と同時に、そのことにめざめた時、我と我が生命ながら、その生命の不思議さに、さの生命のもっている限りない意味の深さに大きな驚きと喜び我、見い出されてくるという意味でもあるのです。
そして、この苦という、このままならぬ人生の中に、いかにしてこの生命の尊さと喜びにめざめ、その尊い生命を尊い者として、さの尊さを発揮してゆくかという事が仏教の課題だと思われるのです。
苦悩解決への道
さて、お釈迦様がお説きになった教えの一番基本は、四諦八正道だと言われております。四諦の諦という字は、「真実・まこと」という意味です。と同時に、これを「あきらめる」とよむのであります。つまり、この諦という字は、真理を明らかにする、という意味です。「仏教はあきらめの宗教である。」その通りでございます。それは真理を明らかにする宗教である。
何の為に真理を明らかにするか。それは、苦悩をのりこえる道をひらく為であります。
四諦のひとつは「苦諦」人生は苦であるということなのでありましょう。今申しました意味です。
そして2番目には「集諦」。これは、こう書くのが本当でしょうね。苦というものは様々な因縁が集まって起こっているという、一方は結果。一方は、それによっておこってくるしくみでございます。
そして、その原因を考えたとき”私自身”がこの苦しみを、この生命を苦とししてしか受けとめられないということの根本原因を作っているのだとすれば、それは、断ち切ることができる。苦しみをのりこえた世界があるということです。あらゆる苦しみはのりこえられるのだということです。これが「滅諦」です。
そして、その苦しみをのりこえる道が、ここにあるのだということです。これが「道諦」です。その内容は、これは八正道でございます。
この四諦というのはどういうことかと言えば、人生はまさしく思うままにならない。その中で私共がどのようにその人生に苦しんでおるのかという、その事実にしっかり目を向けることであります。そしてその苦しみは、どの様にしておこっておるか、苦悩におこるしくみを明らかにし、そしてそのことによって苦悩が解決されうるものであることを、明らかにする。そして苦悩解決への道を明らかにする。これが四諦であります。
この内容の要は、しくみを明らかにする。これが因縁ということでございます。あるいは、縁起と実は同じ意味です。
それから、苦悩解決の道を明らかにしようという所に業ということが問題になってくるわけでございます。いかに生きるかということは、どの様な心で、どの様な言語生活で、どの様な行動をもって生きてゆくかと言うこと、それが実は道なのですね。
ですから、いかに生きるのが本当なのか、いかに生きるのが苦悩解決への道なのか、ということから、業が問題になったというわけです。
裏を返して言えば、どの様な行いが、どの様な言葉が、どの様な考え方が、見方が、私を悩ませ苦しめているのかを問題にしたという事にもなるわけであります。
何故、因縁、業ということが説かれねばならなかったか。苦悩を解決する為には、何故苦しみがおこってくるのかということを知らねばならないからです。その苦しみというのは、どの様にしておこってくるか。これが実は因縁ということなのです。
因縁そいう言葉が教えている事に、実は大切な点が三つあります。ひとつは、「苦しいなあ、こんなに苦しんだ、こんな目にあったんだ」という結果ばかりにとらわれておってはならない。何故その様に苦しまなければならないかというしくみに目を向けねばならない、ということが第一点でございます。つまり、結果ではなくて因縁を問えということです。
二番目は、ひとつの原因が事で起こっているのではないということです。神様のせいだ、怨霊のせいだ、あいつが悪いんだ、こいつが悪いんだ、ということじゃないという事です。お金さえあればと、この病気さえ治ればというのじゃあない。私のものの見方、考えかた、今まで体に身につけたくせ、おかれた状況、様々なものがからんでできあがっておるのであって、これさえどうにかなれば、というものではない、ということなのです。つまり、縁ということが大事なのであるそいうことなのです。これが二番目。
三番目は、抱けれども、根本的に私がこれを解決しようと思ったら、因というものは諸々の縁の中でも一番かなめになっている。その要というのはどういう意味かと言うと、実は私自身の問題だということです。だからこそ私自身がそれを変える事ができる。それが因ということである。それが、内因外縁と言われますように私自身の内にこそ因がある、外からくるのは縁だということの意味でありましょう。これを変えなければ、これならば変えられるという、これは私の問題である。私次第である。そして悩んでいるのが私である以上、これが一番要だという意味なのです。
その苦しみの内因とは何かと言いますと、「とらわれ」であるというふうに答えられるものであり、もっと奥深く言えば、煩悩だというおさえ方もありますし、根本は、「無明」、本当の意味の智慧がないのだと、言うことでもあります。
それはどういうことかというと、とらわれを離れることによって自他を変えることができる。本当に、自分の姿というものに目を開くことによって打開できる、という意味なのです。
さて、この私共のおかれた状況、つまり、外縁の中には、変えようのないこともありますし、変えられることもあります。人間が老いて病んで死んでゆくことは、変えられません。歳をとることはかえられません。しかし、その老いてゆかねばならないということを、どの様にうけとめ、その老いをどの様に生きてゆくかということは、これは、私次第でどうにでもなってゆくことであります。そうでしょう?!女に生まれたという事は、変えられません。しかし、女であるが故に差別されるということは変えられることであります。男に生まれればよかった。となげかねばならない様な事態は変えることができることなのです。
お釈迦様は、ある年寄りが「私はすっかり年老いてしまった」と言われた時に、こうすれば老いがなくなるという言いかたをしておられます。別に若返るという意味ではありません。そうではなくて、何故、老いが老いだと心にかかるかと言うと、老いに苦しむということがあるからなのです。だから老いを苦にするということがなければ老いがないと同じなのです。そういう意味で、変えられるところを変えることによって解決してゆくのが仏法なのですから。変えられないことをいくら「変えられん、変えられん」と言っていてもしようがないのであります。
もう一つ、業という考えかたは、身分だとか、家柄だとか、生まれだとか、血筋だとか、どんな立場にいるとか、どんなものを着ているかだとか、そんなことで人間を見るんではないということです。そうではなくて、どの様な心の持ち主であるか、どんな振るまいをする人かが、その人間なのです。だから、たとえ日本一位の高い地位につい
ていても、心の中がりっぱでなく、人を傷つける様なことばかり言って、どうかすれば、人を殺せと命ずるような人は・・・・・・。と言う事になるのです。
それは実は、自分というものを考える時に、どの様にみたらよいかを教えてくれるのです。私はだれそれの親だとか、私は課長になっただとか、年令がいくつだとか、そんなところでみてはだめですよ。私は現にどのようなものの見かたをし、どの様な心で生きててる人間なのか。どんなことを言って毎日暮らしているのか。どんなことをやって生きているのか。それが私です、ということなのです。その意味では人間を素裸に、平等にして、その人間そののものを、質を問うているのです。
国土を問う
さて、苦悩の克服をめざす仏法は人間を生まれ、身分や、姿や形で見ずに生き方で見るのです。生き方こそ苦悩の内容だからです。特に内面を重視する。業という時のかなめは、あの因であります。内面を重視する。と同時におかれた環境の縁というものの影響の大きさに目を向けて、人間り弱さと尊さを見る目のであります。
だから、お浄土を建立して、ここへ迎え取ろうということなのです。人間はある意味で環境次第なのです。我家の家風というものが、あります様に環境でそうなってゆくのです。人間というものの、その様な状況次第でどうにでもなってゆく弱さ、それをしっかり見ております。それと同時に、だからこそどの様な姿になっていようと、人間であることそのことの尊さを、そんな様なことで見失っては鳴らないのです。環境によってどの様な振るまいもする。どの様な尊いこともするし、どの様なあさましいこともする。そういうものを持っているのです。そういう因を内面に持っている。だからこそ、そこに生きる人間が、本当に人間としての尊さを発揮できるような世界を築こうという営みが、おこってくるのです。
阿弥陀如来が法蔵菩薩のいにしえに「如何なる者も、私の因に来たならば皆仏になるような国にしたい」と誓われた。ということはそういうことですよ。その様な世界を築こうとして、言わば、ご縁をつくるのです。よいご縁を築いていこうということであります。そこに単に自分一人の苦悩をのりこえる為の努力ということばかりではないのです。環境次第で大きく左右されてゆく人間であることに目ざめた時、人間は本当に人間らしくいきられる環境をつくる為に、どこまでも努力してやまないという、仏教徒のあくなき情熱というものが、そこから生まれてくるのです。その姿こそ法蔵菩薩のあの願と行いに明らかでございます。
さて、この様な業とかが問題になりましたのは、実は同和問題を通してでありました。同和問題と申しますのは、差別はいろいろございますが、非常に特殊な差別でございます。先程「人種差別だ」と言われた人がありましたが、同和問題は人種差別ではございません。全くそうではないのです。実は。人種差別だとしていった時代もありましたが、今日はそうでないことがはっきりしております。同和問題は作られたしくみでございます。あくまでも。それは、はっきりしております。皆様方のところまでは、まだその情報が充分にゆき届いてはいないかも知れませんが、全く作られた世界であります。
それは、実は、人間であること、、人間に生まれてきたこと、そのこと自体を嘆かなければならないような問題だということです。この様な差別をつくるのは人間だけであります。トンビの世界には上も下もない。犬や猫の世界でさえ、力の差はあってもそんな差別はないのに、人間が人間なるが故に見いだして、同じ人間であるということを否定する制度であります。それはまさしく、人間であること、人間社会そのものが抱えている最も悲しい姿だと言わねばなりません。
その悲しい姿の中に苦しむ人々が「おかしいじゃあないか、それが仏法なのか」と問うたところから、実は今日まで、まかり通っていた業論が「おかしかったな。いやよくたたいてみたら、仏法ととんでもなくずれたところへいってしまったな」ということが、段々明らかになってきたのであります。その中から今日のテーマもたてられているのであります。
つくる人間が問題
差別は人間が作ったものであります。実は仏教は、この人間世界の全体が、社会の全体が、人間の営みによってつみ重ねられた、という見方をしております。それが実は空ということなのです。だから、人間の営みが変われば、それは変われるのでございます。
例えば、美田という言葉があります。その、美田というのは空な存在であります。何故かというと美田というものは営々としてその田んぼにうちこんで、肥をやり、草を取り、それをささえるお百姓さんがいてはじめて美田があるのです。その田んぼと取り組むお百姓さんの営みが、業が、美田を作っている。だから、その業が変われば、子の代になって何もしなくなれば、あるいは病気になって田んぼのことができなくなれば、美田はたちまちのうちに美田でなくなる。裏を返せば、悪い方も同じことです。それが空ということです。
世界などというものがあるというのではないのです。と申しますのは、人間の営みは、必ず差別をつくるということではありません。”差別を営々として日夜つくっている私達”がいるのです。人の問題ではございません。「私は差別しておりません。」などとしいことは、許されないことが、実は仏法でございます。
部落問題などもそうですが、作られた、人間の営みによって作られた環境に、又、中の人間が縛られてゆくそういう作用がありますでしょう。やっかいなのです。差別の多い社会の中で生きてきたお互いなので、気がつかないうちに差別するのです。まことに悲しいその様な私共の姿に手をさしのべようとするところに仏法があるのでありましょう。
仏教徒の姿勢が問われる
この前世の業ということは、実は、同和問題を通して問題になったこちでありますけれども、と同じに実は、この思想では伝道は不可能であるということに思いいたる訳でございます。
何か問題が起こってつらい。こういう時こそお寺へ行きたい。如来様のお話を聞きたいと思うのに、きかなくてもわかっているのですから、「前世の業だから、何ごともあきらめなさい。」聞かなくてもわかっているのですから、誰も寺にはこない。そうではないですか。ありがたい御同行のところへ、誰も困り事を相談に行かない。「あの人の言う事は、どうせそうだから」ということです。これで若い人どころか、年寄りも詣らないのです。
つまり、前世へ全部問題を繰り上げさせるのです。それでなければ先のこと、後生つまり死んでから後のこと。この人生のことは何も問題にならない。問題が起これば前世の業でかてづけて、不安なことがあれば、後生の一大事だから念仏しとればよい。これでは人間の苦悩ということと全く関わらない。お釈迦様がめざされたものと全く無縁な浄土真宗になってしまったという事でございます。
しかし、後生の一大事という言葉も、この前世という言葉が語られたのも実は、その様な意味からではございません。先程話し合いの中で有る方がおっしゃっておられましたが、「過去・現在・未来・」これが妄想り世界であります。仏法はそうではありません。「過去・未来・現在」お経にはこう書いてあります。「過去未来現在三世一切諸仏」とも言ってあります。そしてこれと同時に、常に十法世界ということが言われるのであります。
どこが違うかというと、直線的に過去があって現在があって、ずっと続いているという考え方は固定観念です。「過去・未来・現在」というのは、どういうことかというと、実は、現在を問題にしているのであります。過去とは、現在の中身であります。過去の集積が現在なのであります。そして未来とは何か。現在が向かっている方向が未来なのです。つまり、未来とは現在の向かっている方向であるし、過去と現在の中身なのであります。だから、全ての問題は現在私がどうするかにかかっている。それが全てです。だから、むかしから「後生の一大事とは今日ただ今」ということであると言われて着ました。
それでは何故、変な事が流行ってしまったのか。それは封建制度のせいだということもあるのですが、やはり一向一きの敗北以来完全に世俗のわくの中におさめられまして、その中に安住の地を見出してきた教団の歴史というものがあるのです。身分制度の中で世間の体制をわくとして、その中におさまってしまった仏法になっていたというわけです。
この世のまがり、この世の誤りを正すはずの仏法が、その中にすっぽりおさまって家をささえる為の仏法、国をささえめ為の仏法になっていたのです。
そしてその中で、生きております僧侶も門徒も、「寺に生まれたのも業だ。嫌いだけれどもどうにもならない。長男に生まれたら、寺の後継者荷ならなければならない。」そう思ってしまえば、平気で業だと言えるわけです。私なども嫌いで嫌いでだいぶもがきましだので、「そんなことはないはずだ」と言えるのです。真宗門徒の家に生まれたのも業だ。と言ってしまえば滅茶苦茶であります。
先程ありました様に。門徒というのは門徒の業を生きる人が門徒であります。つまり、浄土真宗門徒としてものの見方や考え方をし、浄土真宗の門徒としての、門徒ならではのものの言い方をし、浄土真宗の門徒らしい生き方をする人が、門徒なのでございます。門徒の家に生まれても、必ずしも門徒ではないのです。僧侶も同じことです。ただ単に法衣を着ていても、寺に住んでいても僧侶ではないのです。僧侶としての業がなければならないのです。それははっきりしているのです。
お釈迦様はこの様におっしゃいました。「人は生まれによってバラモンたるにあらず。生まれによってバラモンたるにあらず、人は行為によってバラモンとなり、行為によってバラモンたらざる者になる。」
人は生まれによって浄土真宗の門徒になるのではありません。そうではなくて、その人の生き方を通して浄土真宗の門徒となってゆくのであります。僧侶もまたそうであります。ところがそんなことがわからないで、門徒の家に子供が生まれればその子も門徒だとか、跡継ぎだとか、はじめからそういう考え方になっているものですから、だからわからなかったのです。自分達の言っていることが、仏法とはずれていることに気がつかなかった。ということですね。今だに充分気がついているとは言えませんね。私自身も。
大体申しあげたいことはそういうことであります。その事に実は、親鸞聖人はこの様なことに縛られている私共の姿にじっと目を向けられた方であります。
『歎異抄』の中に「さるべき業縁にもよほせば、いかなるふるまひもすべし」とおっしゃってあります。人間はやっぱり環境次第でどうにでもなっていくものをもっているのだということです。だからこそ、よき業縁をきずくために私共は一生懸命努力させていただかなくてはなりません。
と同時に、心が良くて悪いことをしないのではない。状況次第である。人間というものはそういうやっかいなものを抱えているという指摘でもございます。
それと同時に状況次第。商いをしている人、あるいは漁師をしている人、商売をしている人。皆が同じ様に浮世のしがらみの中で生きている人間なのである。と同時にその人間人間上に限りない大きな光を放って人間であることの尊さを私共のうえにかかげて仏になれよと、呼びかけて下さったのが如来の本願であったということを明らかにしておいて下さったのです。また機会がありましたら、解説付きのくわしいものでこのお言葉のいみをお読み下さい。