「仏法をよろこんでいる」といいながら、現実の社会における差別の問題に無関心な人もいますが、どう思われますか。

諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ
(高僧和讃 曇鸞讃 註釈版 P586)

 皆さんようこそお参り下さいました。
 仏法をよろこんでいるといいながら、現実の社会における差別の問題に無関心な人がありますが、どう思われますか。

差別に苦しむ中からの問い

 この問いを実際にお出しになりましたのは、誰ということではございませんが、しかし、常々このことを指摘されますのは、浄土真宗の門徒であり、被差別部落の中に生きてこられた方々です。部落差別のゆえに息子さんが自殺したとか、職が得られない状況があるとか、或いは、結婚の問題で非常な悩みを背負わなければならない。そういう中から何とかして、部落問題の解決をめざしてゆこうではないかと立ち上がった人達から、指摘されるんです。

仏法者の問題

 「仏法をよろこんでいると言いながら、この問題になると浄土真宗はどうなったのか知らないけれども、現実の社会における目の前の差別問題には全く無関心、後生のことはそれとは別だという人がいるが、それが本当の浄土真宗なのか」と。
 これは決して先程の発言にありましたような関西のでき事でもなければ、ほかの所の事でもございません。私共の身辺にあることなのでございます。
 まあそのことを見ないようにしているからでございましょうけれども、この問題について、こういう二つの立場からの言葉があります。

一つの見方

 ある人々はこう言うのです。仏法は後生のことであって死後のことだと、だから仏法と部落問題と何の関係があるのかわからないと。それから、仏法は個人の内面の事、心の中の事、そして一人ひとりの自分の事であって、社会問題については直接かかわらないのだと。
 また、この世は所詮差別があるのだ。歎かわしい事だが差別はある。仕方がない。だからこそお浄土へ参らせてもらうので、この世の差別を何とかせんならんくらいならお浄土へ行く必要がないんだと。だから、これでいいんだ。極楽へ参れば平等なんだから、この世のしばらくの差別くらいは仕方がないではないかと。こういう意見があります。
 それからまた、仏法さえ広まれば、その仏法は平等の精神によってできあがっているんだから、差別は放っておいてもなくなる。仏法を広めることが大事だと。こうおっしゃる方もあります。また、私は平等の精神をうたう仏教の信者でありますから、私には差別の心はありませんと、おっしゃる方があります。
 それから、すべては私自身の業報であると受け取れば、どんなことも、まあ自分で解決していかんならんと、そう受け止めていればいいのだという意見もあるわけです。
 そしてその一方で、仏法を喜んでいるという中に、極端な例でいえば、あの人とくらべれば私達はしあわせやと。これも如来様のお陰様だと、こういうのもあるわけです。

反 論

 これらの考えに対して、こういう反論があるわけです。
 お互いが、同じ人間として相手の声を聞くことができないで、差別し合って苦しんでいる人間の姿に、差別に苦しむ者の苦しみに、目をつぶったままで、はたして平等を説く仏法者といえるのか。平等ということは目をつむることか。如来の大悲、或いは親鸞聖人のお心というのは、そんな心だったのだろうか。こういう反論があります。
 それから、この世のゆがんだ姿を認めてしまうのなら、浄土で仏になる必要はなくなるのではないか。これで仕方がないんだといえば、わざわざ浄土に生まれて阿弥陀如来と同じになる必要、仏になる必要がない。お浄土に生まれる必要がなくなってしまうんじゃないか。 また、人間は内面だけで生きているのではないし、内面はまた外に行為となって現れるものです。社会的存在である人間が救われていくということは、社会全体が救われる道であってこそ、一人一人が救われていくということではないのか。
 差別を差別と見いだして、放ってはおけないということこそ平等の精神ということではないのか。
 仏法さえ広まればというけれども。そういう仏法、仏法さえ広まればいいんだという、そういう仏法の広まっていた時代、江戸時代は、正しく仏教王国の時代でございました。その中で差別は生き続けてきた、いや強固に作り上げられていったわけでございます。仏法さえ広まればという仏法は、差別をなくする何の力ももたなかったばかりか、差別を差別と認める力さえ持っていなかったのではないか。それが本当の仏法だったのかと、こういうことでございます。
 仏法は平等を教えております。しかし、仏法が平等だからといって、仏教信者がはたして如来様と同じ平等心の持ち主なのか、そうではないのではないか。差別の心いっぱいに生きている私であったという事に、如来の平等の心に接すればこそ、気づかせて頂いて、これではならなかったと行動をおこすことが仏法の精神ではないか。
 また、自分ひとりの心の持ちようで、歴史的社会的な拡がりを持った問題が解決するくらいなら、浄土も念仏もいらなかったのではないか。「一切の業繋ものぞこりぬ」というてあります。業の束縛から人間を解放することが、仏法の目ざす所であったはずではないのか。こういうふうに反論がある訳です。

仏法と差別問題とどうつながるか

 前の方の意見は、皆様方が様々な形でつね日頃から聞いてこられたものの言い方だと思います。そしてあとの方は、差別の問題で、実にこう自分自身が悩んだ中から浄土真宗の教えということについて発言されたことばの内容です。これはまあ、私なりに整理させて頂いたことですから、誰が何時どこで言うたということではございません。
 で、先程の発言の中にありました〃仏教と差別〃の、特に核心は部落差別でございます。後でまた何故かと言うことを申し上げたいと思います。
 が、ともかく、どうつながるのかという問いでございました。どうつながるか。それは医学と病とが、どうつながるのかというのとほとんど同じ質問でございます。
 医学は何故生まれてきたのでしょうか。病があったからであります。病に苦しむ人がいたからであります。その病に苦しむ人の姿をみていられない人間であったからです。そこから医学が誕生してまいりました。
 仏法は、まさしく差別ばかりでできたこの世であるが故に、迷い苦しみ、一軒の家の中にさえも、嫁の分際で、年よりのくせにと言うておる、そういう私共なればこそ、これを歎き悲しむ中から、捨ててはおけないというてあらわれてきたのが仏法でございます。
 差別の問題をどけてしまったら、実は仏法をも、どけた事になってしまうんですね。仏法というものが、どこかにでき上がってあるのではありません。
 医学というものが、その人の、生きた人の病を、病が何であるかを見つけ出すのです。医学がなかったら病が病であることがわかりません。病というものを見つけ出したのが医学であります。
 差別を、そう、あの、仏法がなくても差別が分かるということが一杯あります。だけども、仏法に照らしてみて、まさにそれが本当にこの私共が人間として生きる上で、どうしても避けて通られぬ病であるのだという事を教えてくれるのが仏法であります。
 その仏法は、実はそのような差別の現実があればこそ、説きおこされてきたのだということでございます。
 これは、阿弥陀様の御本願の内容をうかがいますと、やっとそのことがうなずかれます。四十八願の初めの方ですが第三願、第四願でありましたか、悉皆金色の願、無有好醜の願というのが並んで出てまいります。浄土の仏となった者は、すべて金色に輝く身とするというのであります。そして「無有好醜」というのは、美しいとか、醜いとか、そういう違いがないようにしたいということでございます。
 このことは裏を返して言えば、本当にかけがいのないいのちが、かけがえのない尊いものとなっていない、それが見失われているこの世の姿を引き受けたところに、如来様の願があったということをあらわしています。
 それからまた、好醜があるというのは、そうですね、あれがきれいだ、これはきたないという、そういう差別ですね。仏法は〃生きる〃〃死ぬ〃という事も差別だという、そういう意味ありのことを言うている教えなのですが、そういうことを乗り越える道を見つけ出そう、その中からひらかれてきたものは何か。
 差別の問題は阿弥陀如来の大悲の由来であったのであり、如来の本願と関係無い問題など、どこにあるかということであります。

仏法の差別化

 その仏法が何故、それではこういう風になってしまったんだということがあるわけですね。
 これは教義の面で申しますと、親鸞聖人の頃にはなかった、いや厳密にいうと蓮如上人の頃にもなかったものが、特に江戸時代を境として段々出来上がってまいります。
 その一つは、真俗二諦と申しまして、仏法のまことと同時に、この世にはこの世のまことの道理というものがあるということです.、つまり、この世は公方様の言うことをきき、あるいは天皇陛下のいうことに従って生きていくのでいいのである。後生については阿弥陀様の御心にしたがっていけばよいのだという使い分けでございます。或いは、心の中にはこ信心で、生きていくには世間のならいに従って………。
 こうしますと、全く、それは、差別の問題と仏法は関係がないということになりかねないわけです。
 もう一つは「業」です。前回もお話しをしましたが、前世から決まった業だから仕方がないのだという。そういうことは親鸞聖人のおおせにはないことなのに、実際の現場ではそれが中心になっていたということです。
 何故そうなったかというと、やはり浄土真宗が、徳川幕府の政策の中に位置づけられた。ある意味ではお坊さんはお役人であったということがあります。そして、幕府がやっていることに対して、一切批判を禁止されたし、ついには、そういうことをしないようなものの考え方になってしまったということがあるわけで、それはある意味では、社会のあり方を問題にしない、別の言葉で言えば、無責任である。私らにはそんな力がないというアキラメですね。どうにもなるもんじゃないと、こういうことであります。
 じゃ、その能力を持っているものは誰か、幕府でいえば、公方様や殿様達なのでしょう。明治になれば天皇一人が全責を負い、全権を持っていて、国民は全く無責任であり、無能であったともいえるような、そういう仕組みですね。
 そういう社会のあり方を認めて、そのわくの中に親鸞聖人の教えを理解したら、そういう風になってきたということでございましょう。

仏法の回復

 そういうことの全体が、他からではないのであります。そうじゃなくて、人間のなまの生活の中から、差別されて苦しむ人間の魂の叫びとして、それが本当に仏法なのかという叫びがおこってきたのだということなのでございます。そしてそれを聞いてみたら、それが本当の仏法ではございませんと。何の反論もできるわけがないという実態がございます。
 その意味では、部落問題を通して浄土真宗とは何であったかが問われてきたということです。
 逆にいえば、そのことによって如来様のお心というものが、親鸞聖人のお心というものが、そういう人達の〃ひと〃を通して明らかにな(.てくるともいえるかも知れません。
 まさしく、この世の中の日の当たる人々ではなくて、日陰にあるものこそ本願の目当てだとおっしゃった。そのことは、ただの理屈ではなく、本当なんだなあ。そこで、そういう処で如来様の本願というものが明らかになってくる。あっ、そうだったのかなあと、明らかになってくるものでなかろうかなあと思わずにはおられんのでございます。
 とかく、このような。これは差別問題だけではないですね。戦争と平和の問題も同じようなことであります。

二種の僑慢

 どうも無責任、無能という観念に陥りがちなわけですけれども、その際こういう二つの意見があるわけです。
 一つには、私はちゃんとやっていますという考え方ですね。「私はやっています。ハイ、私はやります」と。非常に前向きに聞こえるやつです。差別問題だけでいえば、「私は差別はしていません。私はそんなことは致しません。こういう差別はいけません。私はしていません」ということなんですね。
 もう一つは、それとちょっと違いまして、「この娑婆は差別ですよ、そりゃ私だって差別しています。しかし、あんた人間ちゅうもんは、こんなもんですがい。娑婆ちゅうもんは所詮こんなもんですちゃ」「どうせこういう悪人やちゅうくらいやから、本当や、どうせ恥ずかしい悪人でございまして、差別してしか生きられんのでございますから」「こういう奴やからこそ、阿弥陀様が放っておけん、たすけてくれっしゃるというのやから、ただ念仏を素直に喜んで……」。
 この二つとも慢心というのでございます。一つは私は悪くない、私はできている、〃わが身をよしと思うこころ〃でございます。
 もう一つの方も慢心でございます。これは卑下慢という、「どうせ私はこんなもの」、いなおりでございます。つまりどういうことかといいますと、「どうせお恥ずかしい私」、どうせお恥ずかしいなら、少しも恥ずかしくない。口では恥ずかしいと言うとるが、少しも恥ずかしがっておらんのです。親鸞聖人のお言葉で言えば、〃さかしくわが身をかえりみ〃て。こざかしいのでございます。
 わかっとるつもりなんですね。自分はつまらん人間だと、私はよく心得ていますと、自分に智慧があるように思うわけです。どちらも慢心であることに気付かない。自分の最終評価を下すわけでございますね。

事実への謙虚さ

 私、実は昨日、教誨師の中部の大会に出たんです。そうしたら、キリスト教のシスター、尼さん、この方が、少年院の少年の教誨の問題点ということで発表なさいました。
 体験発表でしたが、アンケート調査をした結果につきまして、おっしゃるのです。「これをやってみて、本当にショックでした。今まで私は何を見てたんだろうか。何を聞いていたんだろうか。相手をちっとも知っていなかった。私が今まで言ってきたどんな言葉も全部すれ違いだったということが、これをやってみてわかった」とおっしゃるのですね。
 一方でカウンセリングをやっていらっしゃるんですね。そのテープを専門家に聞いてもらうというんです。本人に、ひとに聞いてもらってもいいかというて許可とって。(少年にですね。)「それを、専門家にも、私の勉強のために、聞いてもらっているのです。自分が相手の少年の聞き役をしているところをテ―プにとったのを、専門家に聞いてもらって意見を聞いたり、自分でも反省のために聞いてみると、如何に相手を聞いていないか、聞きなおしばかりしかしていないかということが、だんだんといやになる程わかってきました」と。
 その後で、具体的な体験をいくつかお話しになりました。
 本当に体でぶつかってみて、相手の少年に教えられ、力づけられて今日までさせて頂いているとおっしゃいました。
 〃同朋〃ということは、同朋の世界というものがこの世のどこかにあるということじゃない。いまだかってあったことがない。未来に行けば、隣の国へ行けばということでもないんですね。
 そういう点では教誨師の活動などもそうなんですね。砂漠に種子まくようなものだと皆さんがおっしゃいました。効果、そんなものがあるとは思えないというんです。でもまき続けるより他にない。ただまき続けるばかり。効果が期待できないのに、どうしてまき続けていけるか。それは、相手との人間的なふれ合いの中で、その人の苦悩する魂から伝わってくるもの、学ぶものが支えである。これは教誨師の皆さんが共通しておっしゃったことです。
 阿弥陀様の本願ということは、そんなことですね。
 十方一切の衆生のありのままの、姿にあらわれない心の中の叫びまでも、すべてそのままに知り通すことによって、不可思議兆載永劫にやむことなく、倦むことなく歩み続けないではいられなかった。他人事とはもうできない、それが本当に自分のことになってしまった。それが願ということです。
 十方一切のものが、救われるまでは止めることができないと聞けば、シンドそうに思えますが、そうじゃない。そうじゃなくて一つ一つのふれ合いの中に感動があり力があり、悩みを悩みとして背負ってゆける力と、よろこびがそなわっているということなんでしょう。そしてついに、極楽の主になられたのでございますね。
 で、まあ、教誨の効果ということが問題になったのです。或る人が、「ためになった、よかった」と言いながら、また刑務所へ出たり入ったり、くり返すんですね。「先生また来てしもうた」と。まあそれでも、死ぬ時にでも、「ああ、あの時あんないい話を聞かせてもらったなあ」と思ってくれりゃ、それでいいんじゃないかと言われる先輩もおられる。
 だけどシスターは違う。「私はそうは思わない。そんなことで逃げたくない。かたづけたくない。自分にどれだけのことができるのか、どれだけ聞けるのか、とにかく精一杯やらせてもらうよりない」とおっしゃいます。
 すばらしい方ですね。あの、キリスト教のキの字も出てこんのですが、この方のお話を聞いていると、私はこんな『聖書』の言葉を思い出しました。
 「神はみずからの姿に似せて人間をお造りになった」、つまり人間は皆神様の影をやどしているんだということですね。ということは、本当に相手の〃人間〃にふれ、心にふれ、悩みにふれ、心が通い合ったら、人はその相手の人の中で神にであうことが出来る。神の姿を他にさがす必要はない。まあ、そういうことなんでしょう。
 そのシスターの声を聞いていると、私はキリスト教徒でもなんでもないのに、この方はそういう風に受けとっておられるのだなあと、伝わってくるのですね。まことにすばらしい方です。私は恥ずかしくなったわけです。
 効果が問題です。やった結果が問題ですよ。何とかしたいが何ともならん。仕方がない。効果なんかどうせない。そんなんじゃすまんのです。何とかせねばならん。救われる道を開くまでやまん。効果が問題です。結果が大事なのです。
 だけれど、結果が出ないからといって、上手にいかないからというてやめるわけにはいかない。効果を問いながら、問題にしながら、効果にとらわれない。むしろ本当に問題をしっかり身に背負えたか、どうかを問いなおせということでしょうね。
 そのことを考えた時、阿弥陀は五劫に思惟して願を立て、兆載永劫に歩み続けられたと説いてある意味が何か伝わってくる思いがするのです。
 私がやりますとか、やっていますとか、どうせできませんとかでなくて、至らぬ身ではありますけれども、させてもらいたい。いや、せずにはいられない。させて頂きます。あなたに教えて頂いたことがご縁で。如来様のお育てあればこそと。それが他力の念仏者の生き方なのでしょうね。
 見通しがあるから、結果が出たから、だからやるというのじゃないのでしょう。見通しがない、自信もない、それにとりくむようなまこころもない。だけれども、せずにいらりれないものに遇わせて頂いた。させて頂けるという、そこに他力の生き方があるのですね。有り難い、結構や結構や、私は結構な身でございましたと、そんなことではないのでありましょう。
 このシスターの、私は今まで何をしていたのであろうか、果たしてどれだけ役に立っているのだろうかと悩みながら、しかし確かな手ごたえをもって、喜びとともに歩めるという生き方こそ、学ばねばならんのではないですか。
 他力は決して理屈やはからいではないということでしょうね。私の生き方、真実なものに引かれ歩む生き方ということそのものなんですね。
 何やら他力の話じゃないように思いがちですが、その差別の問題にとりくんでいくということです。そこに他力ということを考えないではいられません。

自分の気持ちはあてにならない

 それは、私の気持ちとか、私の立場とか、私の考え方とか、私の能力ということを離れたことです。いのちといのちの共感であり、とても一緒にやって行くより他にないということですね。
 親が親として幸せな親であろうと思うたら、子供と格闘して、子供と一緒にやっていくより他にないように、人間としての喜びというのは、そんなに簡単なものじゃなくて本当に様々なものがあるわけですが、同じ人間として共感し、そして一緒にやっていける、とり組んでいけるということがあってはじめて人間であることの喜び、念仏にささえられる力強さということがあるはずなんですね。
 喜ぶ、喜べんは仏法なんじゃないのです。喜ぶ心といいながら、何で喜んでいるかというと、ひとに負けたくないという心が、あの人に勝ててよかったと喜ぶのでございます。あの人よりましだと喜ぶのです。その喜びは、何かというと、差別するんじゃありません、僑慢、ごう慢が喜んでいるんです。今日は何かでたくさんお金がもうかってよかった。これは貧りと欲が喜んでいるんです。そうでしょう。
 だから、本当は、私が喜んでいるんじゃどうもいかんのですね。如来が喜んで下さるようでないと、本当は私自身のいのちの喜びじゃないんです。悩みのはてない人間の魂が喜ぶわけじゃないわけです。あだ花が喜んでいるだけなんですね。
 何を喜ぶのかということも大事ですが、何が喜ぶかということも大事ですね。
 如来様の本願他力は、十方衆生を我がこととひき受けられたところから、始まったわけであります。十方衆生が救われる道が開けてこなかったら、仏にならない、さとりにならないのだと、仏様ではありえないのだという、この阿弥陀様のご本願は、まさしく、それ、真実ということでございます。

共にということ

 ということは、私達一人一人もまた、十方衆生と共に喜べるような救いの道を見い出せなかったら、私一人が救われないというものを背負っているという事なんです。
 親鸞聖人のお言葉を拝見すると、一番最底の私が救われて行く道であるところに、すべての人が救われて行く道がある。最もいきづまった人の救われていく道であってこそ、私が救われていける。
 つまりそれは、十方衆生を救えなければ如来にならないとおっしゃった如来様の真実と、十方衆生が共に救われる道でなけりゃ救われない私だったなあ、その救われる道が今説かれてきた、知らされたと喜ぶ心と、一つですね。つまり如来の真実が親鸞聖人の信心となったということでございます。
 ところがどうかすると違っとったりするんですね。それじゃ、如来の真実は無いことになっとるのでございましょう。
 他力ということをおっしゃると同時に、その他力ということを摂取不捨、ものの逃ぐるを追わえ取るとおっしゃっておられます。そむいているということです、私達はどこまでも。 差別がなくならないのですよ。差別なんです。その差別体質のなくならん身だからこそ、折りにふれ、違うぞ違うぞと、私の心の中に痛みとなって働いて下さるのが如来様のお慈悲なんですね。
 己れ自身も加害者として差別に胸いたむ時、このような私共、差別される者も差別する者も、抱き取って下さる確かな世界のあることにうなずくことができるわけであります。勿論これは、うなずいているだけでいかんのでして、行動を以ってうなずかせてもらわねばならんわけでございますが。
 だから、私は、信心を得たら差別がなくなる、そうじゃないと思うんですね。だからといって、どうせ差別だということでないのです。先程申し上げた通りです。
 後生の問題は自分一人の問題だと、「親鸞一人がためなり」と言うてあるではないかと、よくこう言われるわけであります。

一人一人ということ

 この一人ということは、実は十方衆生ということと同じでございます。十方衆生を束にして言うてあるのではありません。一人、一人なんです。親が子を思う場合のように。ひとりひとりでしょ。これはすばらしいことだと思うんですが。
 ある方が言われました。亡くなられたその方のお父さんは厳しくて立派な方だったというんです。「あー、あんたら、みんなー、ごはんになったよ」と呼んだら、「何言うとるか!〃あんたら〃ちゅうもんが何処におるか!。お父さん、お母さん、清ちゃん、次郎ちゃんと、一人つつ呼び名があるじゃないか」と。いつもこれをやかましくいわれたというんです。 そうなんですね。子供達ではないのですね。太郎と次郎と花子と。ひとりひとりなんですね。それが如来様のおっしゃる十方衆生ということです。そのどのひとりがたすからなくても、本当は、あとの人達の救いというのが怪しいですね。だから〃一人”が”私さえ〃ということではないですね。十方衆生を離れた私じゃない。十方衆生の一人として、十方衆生の代表として、いや十方衆生を離れてはない、私としての一人なんですね。だから十方衆生と一人と同じことなんですね。→つなんです。同じことを言うているのですね。
 大体、衆生という言葉は単数名詞なんやそうです。インドの言葉ではね。だから十方衆生ということは、十方の世界の一人一人ということなんですね。

同朋ということ

 それからまあ、あのー、親鸞聖人の用語で、今の十方衆生一人一人ということをあらわしました言葉は、〃同朋〃とか、あるいは〃一味〃というのがあります。
 一味ということは、「四海の内、皆兄弟なり」いう言葉が出てきます。まあ、これは曇鸞大師の言葉ですが。それから親鸞聖人は、皆世々生々の父母兄弟だとおっしゃるのですね。私は別に、死んだ自分の親のためだというて念仏はせんと。何故かというと、全部親やと。全部親兄弟だと。毎日一刻一刻が、命日でない、臨終の時でない時はない。生まれ変わり死に変わりしてきた中で、皆親であり、兄弟でなかった者はないんだ。誰々を特別にというのは、やはりこの、差別だということです。だから、あの親のためだといって念仏はしないんだと、こういうことなんです。
 あのですね。これはどういうことかといいましたら、あの、戦争しとっても”同胞”ということがはやったんです。これは同じ腹から生まれたということなんです。同じ腹から生まれたということは、別の腹から生まれた者がおるというわけです。内輪と外輪とある。日本人は皆同胞や。少し広めてアジアは同胞とかいうとるわけですが、アメリカやヨーロッパが入ってくると、「同じ人間じゃない」。と言う。この裏は何かというと鬼畜だというわけです。片方には鬼畜がある。わたしらは同胞やというわけです。
 ところが、それとこの〃同朋〃とは違うのです。同じ〃兄弟〃という言葉は使っているが、〃世々生々の父母兄弟〃、皆そうだとはどういう事かといいますと、戦争するということは、親を殺し兄弟を殺すことだ。親子兄弟が殺し合いすることなんだ。敵と味方が戦っているのではない。そうでなくて、親子兄弟が殺し合いをしていることだ、とこういうことです。それが仏教の見方なのです。
 親鸞聖人は「とも同朋」と言われる。それはある意味では、血のつながりということでない。共にあんたもそうか、私もそうだという共感なんですね。そちらの方に重きをおかれた言葉だと思います。その点では、親子兄弟、先生と弟子でも、その前には同じ「とも同朋」だということがあるわけです。だから念仏の生活とは、俺は親だ、お前は子だ、じゃなく共にということ。ともなんですね。そういう世界がお念仏の世界ということでございましょう。

人間の尊厳

 差別問題ですが、差別ということが出てくる時にいつも出てくるのは、基本的人権とか、人間の尊厳ということですね。これは西洋の思想です。憲法もこれに貫かれてできあがっている。だからあれは西洋のもので仏教と関係ないという人がいますが、そんなわけはない。なる程系譜は違うが。
 仏教はどうかというと、聖徳太子がおっしゃったように、「共にこれ凡夫」なんです。無明煩悩の我らが身に満ちみち、欲も多く、いかりはらだち、そねみねたむ心多くひまなくして死ぬまで治らん。あんたもそうか、おらもそうやということですよ。共に凡夫やということです。
 そして共に悩み、苦しみ、空しさをかかえているお互いやということと同時に、だからこそ、あなたがたすかる道がなかったら私だってたすからん。私のたすかる道でなかったらあなたもたすからん。十方衆生が等しく救われる道でなければ救われない。その意味で平等であります。そのことが人間の尊厳であります。
 そうでしょう。犯罪を繰り返して刑務所を出たり入ったりしとる人にですよ、何とかしたいと接する中で、止められないというものを教誨師の心の中に催させるものがあるということです。
 私共は確かにそのような凡夫であるが、その凡夫の迷い悩んでいる事実が、阿弥陀如来の限りない願いを催し起こさせたものである。本当に底なしにやっかいなものであると同時に、限りない大きなものを呼び起こすものであるということです。鳥の卵のように無能なものはありません。ただころがっているだけです。放っておけば腐るだけです。でも卵は、ものすごい力をもっています。母鳥が、キジなどもそうです、ジャーンというて草刈り機がそばへ迫ってきてもジッと動かず守っていく。親鳥を命の危険を犯しても動かさないほどの力がある。焼野のきぎすという言葉があるように、トンビもタカも追い払う程の力をこの卵が持っているのです。そこです。親鳥と卵とをバラバラにして見ちゃいかんですね。
 体の不自由な方々の事も話題に出ていましたが、劣ったものということじゃないということです。仏法でいえば、罪悪生死の凡夫であるということと、阿弥陀如来の願いがそのいのちの中から誕生したということと一つの事です。
 つまり、底なしに醜いものであると同時に、限りなく尊いものであるというのが仏教の人間観ですね。一切の衆生には仏性があるといわれるのもそのことでしょう。理屈にしてしまえば相矛盾しているわけですが、そのことが一つであるわけですね。真実というのも、罪悪生死の凡夫を必ず救うて下さるのが、阿弥陀如来であるということです。

部落の問題

 さて、時間も参りましたので、まあ部落問題につきまして、この部落問題というのはいろんな差別の中で一番問題です。というのは、部落差別は作られた差別です。
 一番根底にあるのはどうも税金というものです。つまり今の部落問題は江戸時代にでき上がったものですけど、じゃその前にはなかったかというたら、その時代時代にあるんですね。そこで基本的に一貫しているものはといったら税金の問題です。
 昔は土地を中心にした税制でしょう。日本の伝統にはね、税金を取れない者は賎民なんです。江戸時代でもそうですが税金を払わなかった人、例えば定住しない商人、それから昔から特殊権益を認められた技能者や神社の世話をしていた人達は、賎民におとされていく。またまれな例ですが、あまりに家柄が良すぎて免税になっておったために、逆に被差別身分に置かれていく、逆転していく例もあると聞きます。ですから、今の国に於けることだけじゃない。
 金にならない人、利潤をもたらさない人は、おとしめられていくのです。一つの会社の中にでもあることでしょう。それはつまり何かというたら、要は人間というものを無視して、美人とか能力とか、そんな事で社会を処理していこうという動きの中から出てくるものですね。
 一人一人のことで言えば、自分自身の面子だとか、体面だとか、そういうことばっかり中心にして動いているのが一人一人の人間であるように、そういう人間が寄って、苦しめ合っている社会ですから、そうなるわけですよ。
 こんなことが基本にありながら、特に江戸時代の土地を中心とした財政が傾いていくでしょう、段々だんだん。そこでどうしたかというたら、税金を上げて百姓をしぼらにゃならん。バランスをとるために、今度は税金を払うとらん者の身分を徹底的に否定していくわけですね。だから、実は江戸時代でも始めの頃は余り差別待遇も強くないです。後になればなる程、差別がひどくなっていっているのがはっきり裏づけられております。
 まあ、作られた差別だということですね。まあそのように人が団結しないように、下見て暮らすように、くらべて満足するようにしていったということです。
 これはもう、巧妙に算用して支配者が作ったものですね。しかし、それが明治以降もやっぱり、ズッーと続いて来たということは、やっぱりそういうものを利用するような政府の政策でもあったし、そういうものに便乗したい人間ばっかりおったということですね。
 何とか一歩ずつでもそのことを切り崩していかんならんわけですが、そのためには、まず、事実をよく知るということでしょう。

差別をささえているもの

 あのまあ、先程の、例えば〃部落民〃だとか、〃新平民〃だとかいうのは、大変な差別用語でございます。簡単なことです。そう言われているご本人が聞かれたらどんな思いがするか。私はですね。〃やせて細長いの〃と言われたら、やはりいい気持ちはしません。たったそれだけのことでもね。そうでしょう。まして、その言葉はどれ程重い言葉かということです。相手の身になって考えればすぐわかることです。
 そして、そういうことを実は平気で言えるような人間ばっかりいるんですよ。ということは、何故かというと、言われた方は、言われる方の人間をひとつも考えていない。知らんからです。聞かんからです。見ようとせんからですね。
 差別はどこから始まるかというたら、まず、無視する所から始まるのですよ。身近に一杯あるのです、差別は。しかし、そういうことは問題にしないということです。それが差別の出発点であり、そうやってズーと維持されていくのです。
 問題にし始めたら、どうかこうかせにゃならんですよ。問題にしないでおくのが一番、温存するいい方法でございます。寝た子を起こすないうてですね。
 でまあ、実際には先程のあのシスターもおっしゃったように、具体的な事実に学んで、直接事実に目を開いてあたっていくのが一番大事だと思いますね。あまり、その、理屈や知識であれしましても、たいてい失敗しますのでね。
 本当にあの、心から心へ伝わったものが、何といっても大事なんだろうと思います。

他人事じゃない

 ええ、「諸仏三業荘厳して、畢竟平等なることは……」。如来様が……、阿弥陀如来になられたということは、そして平等の身をお持ちになったということは、私共の差別ですね。平等でない、「衆生、虚誑の身口意を」。身も心も差別に満ちあふれている、これを「治せんがためとのべたまふ」。これを治したいがためであったとこ和讃の中に示されております。
 大体一通りのことはお話ししたと思うのですが、一番肝心は、人間を人間として見る。見ないということは差別でございます。
 これは実は、差別される側だけの問題じゃありません。差別する方は、そうやっているうちに、どうなっとるのかいうたら、自分を能力とか形とか立場とか健康とか、そんなものばっかりで自分を考えてしまって、肝心の自分自身の中味を見失っていくということになります。それは実は、差別する方もされる方も同じような、実は、うとましさ空しさを背負っていかねばならんことになります。
 もっと具体的に細かい話をすりゃよかったのですが。これくらいにしておきます。