「成仏する」といいますが、それは私の現実の生活とどのようなかかわりがあるのでしょうか。

無明の大夜をあはれみて 法身の光輪きはもなく 無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現する
久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する

(浄土和讃 諸経讃 註釈版 P572) 

 どなたもようこそお集まり下さいました。
 前回は、他力ということでお話しをさせていただいて、本願ということについては、宿題になっておったのでございます。実は今日の成仏という問題は、そのことと深くかかわり合いがございますので、この前の宿題も含めたつもりでお話しをさせていただこうと思います。
 皆様方のお話し合いはどちらかといえば、成仏ということを中心にお話しをして下さったようでございますね。ということは、裏をかえせば、なかなかその私共の現実とのかかわりということが話題にならない。実際には死者ということを通してしか、実感されていないのが、常識になっておるということなんでしょうね。
 お話しの中で出てきたのが、やはり、その成仏ということについては、善悪ということ、善人は悪人はということ、それからもう一つは、死んだ人をめぐってということ、それからもう一つは成仏ということよりも地獄、極楽ということ、まあこういうところに話のなにか中心があったように思います。
 それははっきり申し上げますと、私自身のことになっていないということですね。死んだ人のことになったり、地獄極楽のことになったりして、今の私のことになっていないんですね。それからもう一つは、やはりそれらのことが結局は自分のものさしで、この娑婆のみんなの常識で、仏法というものをどうしても考えてしまう。無理のないことで誰でもそうなんですね。そして同時に、やっぱりそういうこともなにかこう、売り心という、蓮如上人はおっしゃっておりますけれども、まあ人を戒めるためにとか、というかたちで、こう、考えられがちなんですね。まあそういう中にかえって私達の地金の体質というものが、よく現れているわけですが。
 実はそのことと、仏法とは何であったか、親鸞聖人は何を教えられたかは、これは全く別のことであると一遍腹をくくってもらいたいのです。私達が思うことと仏法と反対であるとまず考えたほうが近うございます。何故なら、私達の考えでだいだい合っておるものならば、仏法なんて聞く必要もなければ、現れてくる必要もないのですね。私共の誰でもがもっておる、ごく普通の人間であれば誰でもそう考えるであろうというものさしと、根本的に違うのですからね。だから仏法だ仏法だとこういうておるわけなので。ですから、こうなんというか、こうだろうなと思うとたいてい逆だったというのがほんとだと思います。そして、それは他でもありません。寺で生まれた、寺で育った私が実際にもう何もかも全部逆だなあという実感を重ねておるわけでございます。
 ただ、だけれどもそれじゃ自分達がどういうふうに思っておるかということを整理整頓したり、話し合うことは無意味なのかというと、決してそうではありません。そうではなくて、私達のそういう考え方のどこに問題があるのだろうか。それを学ばねばならんわけですし、同時に何故仏法はそういうことを教えておるのかということも学ばなければ、これは単なる知識になるわけですね。
 私のこういう考え方では、こうだからあかんのやったなあとか、あるいはここのところをいうてあったのだなあと、初めて自分のことになってくるわけですので。ですからその意味では、合うとるも違っとるもない、つまり、私達の持ち前の考えとは何であったかを確かめる中から、如来様の教えとは一体私にとって何だったのかが、そこではっきりするんですね。ただ、有り難くて立派なお説教を聞いたら仏法が身につくかというとそうじゃないと、こういうことだろうと思うて皆様方のお話し合いをお聞き致しました。
 さて、今日の問いなんですけれども「成仏するといいますが、それは現実の生活とどのようなかかわりがあるのでしょうか。」という問いになっておるわけです。で、こういう問いを掲げてあるということは、つまりこういう問いがでてくる背景になる考え方をちょっと問題にしてみましょうということなんです。

死んだら仏

 どういう考え方が背景にあるかといいますと、まず死んだら仏という考えがありますね。これが大体ちょっと問題だとこういうことなんですね。死んだら仏、死んだら仏ということになりますとね。誰でも死んだら仏だと、ということに思われておるようですね。それから死んだら仏ということであれば、そりゃまあ死んでからの問題じゃないかと、死んだ人の問題じゃないかという、まあ、こういうことになりかねんわけであります。
 それで、実は死んだら仏ということは、全面的に間違っておるかというと決してそうではないのですね。一つには死なねば仏になれない私がおるわけでございます。どこまで行っても自分中心で目前のことばっかりに迷うて、そばにおる人間の気持ちにも中々なれん私がおるのであります。死なんかぎり毛頭なれん。
 まさしく、真の知恵と慈悲とをもって、本当に真実の道を歩むべき身でなければならんとは思うても、そうありたいと願っても、煩悩をかかえておる身であってみれば、どうしても死ぬまでは仏になれん、どこまでも煩悩がなくならん私がおるということですね。そのことが実は死んだら仏ということがでてくる一つの根拠ですね。
 もう一つは、そのことを言葉をかえていえば、死ねばじゃなくてね、死なねばならないという、実はこれは私共の現実の日ぐらしを、悲しみ嘆く言葉でなければならんと思うのでございます。如来様の教えに照らしてみたら、如来様のお心というものを聞かせてもろうてみたら、ほんとに死なにゃどうもならん人間だなあ、ということでございますね。ですから実は、先の話しじゃない今の私のことなんでございますね。
 そして、実は誰でもということではないのです。死ねば仏、誰でもじゃないんですね。誰でもなら仏法はいらんです。ほっときゃいいんです。そうですね。聞かんでもいいのです。そうじゃないですね。信心の人はいつ死んでもどんな死に方をしても死ねば仏なんです。ね、そういう意味ですね。信心の人は、真の信心を得た人はいつ死んでも、どこで死んでも、どんな死に方をしても死ねば仏という意味がひとつありますね。それがちょっと間違うて、誰でもどんなのでも、ということになりますと、これじゃ仏という名前を付ける必要がないので、死んだ人というておればそれで結構だということになるわけでございます。
 さて、そういうことの背景にありますのは、やはり私どもの現世中心ですね。その自分の経験や思うてきたことをまず正しいと考える、そういう私共のものの見方にたっておるわけでございます。それから自分を中心にして考えますとね、仏になることなど何の意味もないのですね。如来様になりたいと願う必要がないでしょう。私共が願っておるのは、丈夫で健康で、家族にめぐまれて知人にめぐまれて、うまいもの食って楽しいことにおうて、いつまでも死なんとおればいいというのが私共の願っておることであって、何で仏にならにゃいかんのかと。
 十方の衆生、一人でも迷うておるものがおったら、地獄の底をはいずっても止むことなく、倦むことなく働き続けて止まんと、十方世界にただ一人でも迷うとるものがおる限りは、安らぐひまがないという、そんな如来様に誰がなりたいんですか。そうでしょう。自分さえよければいいというのが私でしょう。そうでしょう、私共はもともと成仏するかせんかじゃないんです。仏にならにゃならんとも思わず、なりたいと願う心も、もともと持っていないのですよ。仏にならにゃいかんのだぞと教えられたのは、仏なんでございます。私が願うとるわけじゃないんです。
 さて、そういうことですから、この世以外のところへは行きたくないというのも本音ですね。人間以外のものになりたくないというのも本音でありましょう。地獄も極楽も戒めのための作り話だとこう考えるのが、私共のものさしですよ、ねえ。仏様が私になにをしてくれるのかと、こういいたいのが私共の地金なんですね。そういうのでずっと生きてきたわけです。それで結局私は仏様と関係ない。すくなくとも仏様と関係のないところで、私は自分の力で生きておるんだと、こういう考え方なんてす。
 そして、神仏のお陰で無事息災にと感謝してとか、祈ってとかいう人がいるけれども、それは裏を返せば災難、苦境にあえば、神も仏もあるものかというのと同じことです。これは、無事息災を祈り、感謝する人は苦境にたったりどうもならん時は、神も仏もないというて呪うのですよ。同じ心ですからね。そしたら、如来様となんも関係ないやないかとこうなって当たり前なんです。それは決して変わった考えではありません。いつの時代、どんな人であろうと必ずそう考えるのです。それ以外に考えようがないわけです。私達の立場からいえばです。

成仏とは

 さて、そういうことも考えた上で、一体そのね。成仏するという。仏になる。一体仏様とは何か。如来様と同じことなんですが、仏というものは前にもお話しをしましたが、目覚めたる者、それから他をして目覚めさせる者、何に目覚めるのか、それは言葉でいえば法ということです。真実ということです。真実に目覚めた、他の人をして真実に目覚めさせようと働くもの、それが実は仏という言葉の意味です。仏というのは、ブッダというインドの言葉をあてたんですね。それで字引をひいて、この字をみても意味はないので、実はブッダというインドの言葉にこの字を当てただけです。
 それでほとけというのもそれのなまった言葉だといわれています。それで意味からすれば目覚めた者、そして他を目覚めさせるものということになるわけでございます。そして真実に目覚め、他の人をして真実に目覚めさせるところにこそ、人間としての真の喜びと安らぎと尊さがあるのだというのが、仏法の教えなんですね。
 それから、成仏というと、浄土真宗では、この世、今申しましたように生きとる間に成仏するんじゃない、浄土、命終わって浄土に生まれて仏になるという。ですから、これは往生ということともつながってくるわけですね。浄土に往生し仏になる。往生浄土。往生ということは、これは往くということ、これは生まれるということです。浄土に往って生まれてということは、仏様に生まれ変わるということ、浄土に往って仏様に生まれ変わる。つまり、自ら目覚め、他をして目覚めさせる者に生まれ変わるということなんですね。一応の意味を申せばそういうことなんですね。
 ということはどういうことかといいますと、これでいいのだと長角をはやしとってはあかんということです。往生ということ浄土ということは、この娑婆は汚れた娑婆だ、だからこの娑婆の人間の考え方や、やっておることを参考にして生きていったら必ず空しいと歎かねばならんぞ。つまり、娑婆のことを参考にはしても、手本にしとってはあかんということなんですね。この娑婆を基本にして、この娑婆の姿を土台にしてものを考えとったらあかん。自分の考えをものさしにして、そういう我流の生き方をしとってはやがて何をやっておったのかと歎かねばならん。こうおっしゃっておるのですね。
 浄土ということは、この娑婆が穢土だということです。往生ということは、そのままいたずらに生きてはならんということです。そして、成仏ということは仏になれとおっしゃってあることです。何故ならねばならんか。私共が迷い、自ら迷い苦しむ凡夫だからですね。私共が迷うておるから、目を覚ませ仏になれとおっしゃっておるんです。だから成仏という言葉を聞けば、私共に、おまえは迷うておると呼びかけられておるのだと受け取らねばなりません。浄土という言葉を聞けば、この娑婆の姿にたわけ、振り回されておってはいかんのだと呼び掛けられておると知らねばなりません。往生と聞けば、それでいいのか、そうやって日を暮らして年老いて死んでいって、それでよいのかと呼びかけられておると聞かねばなりません。それが実は、我がこととして聞くということですね。
 さて、この仏になるということこそ、仏法の目標でございます。だけどそれは、先程申しましたように私の目標ではないのですね。目覚めたものが、これこそが万人の願うべき目標であったなあ。それを見失なっとった、ほんとの目標を見失なっとったんだと、まあこういうことでございまして、仏になることこそ仏法の目的であります。それは目標ということ、願うてゆく究極の結果ですね。最後に往きつく道、最後は必ずそこへ往きつくべき目標が、成仏ということなんでございます。

仏 道

 だけども、最終的にその目標に往きつくためには、そこへ往きつくような道を歩まねばなりません。そして、同時に別の言葉でいえば、必ずそういう結果が生まれる種(因)がなければなりません。結果に対しては因といいます。因果をつなぐもの、それを道といいます。それを仏道といいます。仏道というのは必ず最終的には仏になるというような道を、仏道といいます。ということは裏を返していえば、仏様の世界から届いてきた、如来の世界から届いてきた道でなければ、如来の世界へは往かれんわけです。如来様から出たお言葉、如来様の心から出たものを身につけていかなければ、こりゃあかんということになるわけですね。道というのは、因果を結んだものが道です。目的地に往く道は、目的地からきた道ということですね。
 オタマジャクシはカエルの子ということは、カエルが生んだものでなければオタマジャクシではないし、カエルにはならんわけです。そうですね。因と果というものは、別のものではないわけです。ねえ、そういう点では、ナマズの子はナマズですが、オタマジャクシの子はナマズになれませんのでね。ですから仏道というものは、必ず仏になるような種を得なきゃならん、道を歩かねばならん、そのためには如来様の世界から届いてきたものに従わなければならん。如来様からの如来の悟りを私がいただかねばならん。
 どういうかたちで。リンゴをいただきたければ、リンゴの種をいただければ、いいというようなもんで、如来様の悟りをこの世でひらくことはできんけれども、如来の悟りの全体が結晶してこれだと、私共の受け取るかたちになりました「ナモアミダブツ」を我がものといただくことができるということでございます。

如来の本願

 それで、如来様が私共にとってどういう方であるかということが問題です。それはまさしく阿弥陀如来のお姿の上に明らかになっておるわけです。如来様の如来様たる所以は………この中身ですね。それは一体何かということを現してあるのが、本願ということです。迷うておった私が、ああそうだったのかと目覚めた。これが法でしょう。そりゃ私共はそんなわけにはいきませんでしょうけど、迷うておったものが見い出したのを法というのです。だけど自分で見い出せん者、その者に目覚めよ!、こうだぞとはたらきかけてあるのが本願ということです。自ら目覚めることができん私共のために、聞けよ、称えよ、私をたよりにせよと立ち上がったことが、如来様の本願ということです。
 如来の如来たる所以は、他をして目覚めさせるというところにあるわけでして、目覚めさせずにはおかないということは、迷い苦しんでおるこの私が本願の中身だということです。つまり、親というのはどこかにおるんじゃなくて、親が子を産んだというのはあれはうそです。夫婦の間に子供が生まれたんです。そうでしょう。亭主が種を仕込んで女房が産んだんです。まだ親じゃないんです。子供が産まれて親になったんですね。はじめから親やったものはおりません。それで親の命は何かというと親心だと。如来様の秘密はなにか。如来の如来たる所以は本願だと。じゃ本願の中身は何か。たとえば親心の中身はなんだ。そんなものは元からあったわけでもなけりゃ、子供ができたからポツンと沸いてでたもんでもない。我が子の姿や我が子の身が、そのまんま私のことになって、それを引き受けておるのが親心というもんでしょう。親心の中身というのは子供そのものですよ。そりゃあね。生まれたなりから物を食べてなんでもできれば、親なんか要らない。幼ければ幼いほど、危なければ危ないほど、か弱ければか弱いほど、やるせなく働くのが親心です。阿弥陀如来の本願の中身は、迷い苦しむ私そのものであります。阿弥陀如来の本願を聞くとは、そのような本願が現れねばならなかった、念仏申せと叫ばねばならなかった私の迷いの深さと悩みの底無しさを聞くことであります。そのことを離れて本願はあるわけではないのですね。

如来とは

 それで如来様といいます時は、まあもとからいえば法ということなんですが、それが法を見い出せん私、迷うておる私に向かって働く本願ということです。だけど具体的にいえば、具体的な人間の姿をとって現れればこれはお釈迦様のように、説法ですね。法を説く人が現れる..自ら、法を、教えを説かれたのは仏様でしょう。でもそのもとは何かというたら、迷い苦しんでおるものを捨てておかない本願です。その中身は何かといえば、一言でいえば法ということです。
 だから如来様という時、法そのものをさしていうこともある。また、その如来様の本願を、まさしく如来様といえば、このご本願だと親心だとこういうときもある。いや如来様というたら歴史上の人物で法を説かれたお釈迦様のことだと、これもいえるわけです。人としての仏様、真心の働きとしての仏様、もっと根本の道理としての仏様、皆仏様ですね。だからなかなか分かりにくうございます。いま一言で言うても分かりにくいかも知れませんが、これから聞いていただければ段々はっきりしてくると思います。

如来のいのち

 さて阿弥陀如来とは、迷いと苦悩の衆生を成仏せしめる原動力である。それが阿弥陀如来であるとこう申すことができます。さて、先程は私共の立場からということで申し上げたわけですが、その阿弥陀如来の、迷い苦しむ私共だからこそ立ち上がられたという阿弥陀如来の本願からすれば、如来の立場からすればということです。如来様の立場からすれば、この世は、汚れたる煩悩に汚れた迷うた人間が、エゴイズムと妄想とによって築き上げたこの世は、そういう歴史の積み重ねであります。この世は穢土である。これが如来様のお心です。
 如来様のお心からすれば、この世は穢土である。汚れたる世界である。この私は迷いと苦悩の凡夫である。捨ててはおけない。だから、捨ててはおけない如来様のいのちであります。悪人を救うのはけしからんというけれど、子供というのはわけが分からんから、親が親として心配するのですよ。そんなね。悪いことは一つもせんもんの、何でも知っておるもんの、そんなんなら親はいらん。そうでしょう。できの悪いもんだからこそ、「おまえ何しとるか、そんなことでいいのか」と時にはたたいたりつねったり、「私の子ではない」とまで叫ぶ親はおるんです。まさしく私共こそが如来様のいのちである。親が我が子をいのちとして親であるように、迷い苦しむ私共をいのちとして如来様のいのちはある。私共の愚かさをいのちとして如来のみ教えはあるわけでございます。目覚めさせ、立ち上がらせて、真実の身、仏になれよと働いて下さるのであります。
 「どうかおまえも仏になる道を歩めよ」ということで、むずかしい法を説いても、「こんな修行をせよ」と言われても、そうはいかないのが私共であればこそ、いや自分のものさしでしか考えられない私共であればこそ、南無阿弥陀仏の名号を与えて、聞けよ受け取れよ、称えよ信ぜよとおっしゃったのでございます。
 今から八年前ですね、昭和五十四年でありましたか、石川県の青少年の家というのがあるんですが、本願寺派の所有になっとるのですが、土地の事業家が寄付したんです。そこでね。高岡教区の日曜学校の生徒を連れていったんです。研修会をやったんです。それで私はそのとき担当者でした。皆に作文書かせたんです。どういうテーマかというと、「あなたが仏様になったら何がしたいですか」。なかなかよい質問だったと思っているんですがね。その時分「宇宙戦艦ヤマト」というのが、マンガ映画で流行っておったんですが、そのせいかと思いますが、「ぼくが仏様になったら地球の危機を救いたい」というのがありました。それから「公害をなくしたい」「この世から争いや戦争をなくしたい」というのもありました。 それで私が最も感動致しましたのは、ちょうどその時に身体障害者の施設の人達もそこに来ていて、海水浴を一緒にやっておったのです。だから、一緒に泳ぐわけでしょう。車椅子の人やら、まあ身体が不自由なんですよ。それを見てね、ある子供が気持ち悪いと言うとるわけです。私の耳にも入りました。それを聞いておったんですね、この子は。それでどう書いたかというと、「私が仏様になったら、どんな身体が不自由な人でも、それでも人間に生まれたということは、とっても素晴らしいことなんだから、そのことを分からせてあげて元気を出させてあげたい」。これは大変感動しましたですね。それがね、その子の気持ちは分かるんです。どういうことかというと、本当は今言ってあげればいいのに、でもね、言えないんですね。自分の身体がそうだったら、簡単には素晴らしいこととはいかんものがあるわけですから。それからまた、言葉で言って伝わる自信がないんですね。そうでしょう。本当は今言ってあげたいんだけど言えんのですよ。そういう思いが、そして言えない自分に対する悲しさが、でも言えんからといってじっともしていられない思いが「私が仏様になったら」という言葉にこもっておるわけですね。まあそういうことを思いますというと、実は先程ある班で話がありましたが、段々長じると横着になるのですかね。
 成仏という言葉も、どこまでいっても何というか、そういう自分の問題としてなかなか受け取れない。だから年をとって経験を重ねるにつれて、利口になるとは限らんような気がしますね。
 それでですね。いつ死んでも仏になる道をゆけよとおっしゃっておる。この世と自分と、自分に執らわれて迷い苦しんでくれるなよ。あてにも頼りにもならんものばっかり、御利益、御利益、幸福と求めるなよ。いつかはみんな置いていかねばならんものを、つかんだ分だけは壊れていくことを、恐れていかねばならない。我をたのめ、我を頼りとせよ。我が名を称えよ。私の国を願ってくれよとおっしゃったわけですね。私を力として力強く歩め、何も恐れることはないとおっしゃっておるのが、如来様の立場からすればということだと思うのでございます。

救いの道

 私共の現実生活ですね。そういう自分の安楽に迷い、ああでありたい、こうでありたいというその幸福感に迷うておるからこそ、仏法が実は説かれてきたんだということでございます。そういう中で今日はそういう話はありませんでしたが、浄土真宗の現世利益ですね。つまり成仏する、成仏の道を歩くというたら、今は道を歩いているだけで命終わらんとなにも始まらんのかと。そうじゃないわけですね。つまりこの道を歩むことそのことに備わっておる力というものがあるわけでございます。
 つまり、いわば救いというか、利益ということですね。それが実は現生十種の利益ということで、親鸞聖人はお説きになっておるわけですけれども、それは一言でいうと無碍の一道ということでございます。無碍ということはどういうことかといいますと、歎異抄にこういう言葉があります。「念仏は無碍の一道なり、そのいわれいかんとならば」、その中身を問うてみれば「信心の行者には天神地祇も敬伏し」。我々の恐れておるものであります。天の神・地の神を恐れ、運命を恐れ未来を恐れておる。「天神地祇も敬伏し」というのは、天の神・地の神を崇め拝まずとも天の神・地の神に拝まれるようになるということ、つまり逆なんですね。天の神・地の神に敬われるようになるんだと。何故か。念仏は、天地の神もどうしようもない私を抱きたもうのが念仏だからです。だから天の神も地の神も念仏を得た者を敬い崇めるのである。
 「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」。魔界といいますのは、外にあるのではありませんで私共の心の中にあるんです。まあ妄想といいますか、コンプレックスといおうか、エゴといおうか、どうもこうもならんものを一杯抱えておるわけですね。外道というのは、浄土真宗の教えを聞きながらでも、心が他にいってどうもならんということです。念仏称えながらでも如来様に背を向けたことを考えておるんですね。つまり如来様の言うことを聞くどころか、自分の言うことを如来様に聞いてもらわにゃならんということですね。そういう根性というのは死ぬまで持っておるわけですよ。自分の都合のいいところを聞いてもらいたくてならない根性を持っておるわけです。「魔界外道」。それも邪魔にならんというのですね。そういうものに惑わされる。煩悩に狂わされることがあるんですね。でもお客さんと主人公と違うですね。この頃、嫌いな客が沢山来てこの家がガチャガチャというのと、その人が主になってしまっておるのと話が違うでしょう。魔界外道が主人、みんな今まではこれで生きておったのですよ。これで生きてきておった私が、それはお客さんになって邪魔物なんだけど、邪魔物は邪魔物としてあるんだけれども、そのまんまが実はもはや主の地位を犯すことはない。これ中心に生きていくことはないということです。「魔界外道も障碍することなし」。
 「罪業も業報を感ずることあたわず」。どのような罪も、罪を犯せば当然ですね、いよいよ迷い苦しんでいかねばならんのですね。だけども罪を犯す罪の深さがそのまま、愚かなるが故に、つまらんことで腹立つが故に、つまらんものに欲を起こすが故に、いよいよ如来の本願でなければと。このような私のために念仏もうせよ、聞けよとおっしゃってあったなと。罪深ければいよいよ迷うて悪を重ねてゆくはずなのに、罪深い分だけ止どまるというですね、腹立った分だけ相手の気持ちも考えるようになる。腹立った分だけ腹の立つのが治ってゆく。そういうことですね。「罪業も業報を感ずることあたわず」。
 「諸善も及ぶことなき故なり」。私共の努力でやる様々な善も及ばないほどの大きな力とまことが、与えられるのだとおっしゃってあります。それは一言で申せばどういうことかというと、この無碍ということは、この私が強くなる立派になるということの前に実は、如来様にまもられているということなのですね。

如来のお護り

 摂め、護られ、阿弥陀様のお力に摂めとられ護られ、「南無阿弥陀仏」に摂めとられ護られるということが、浄土真宗の利益であります。この利益は、決して他から降ってくるのではございません。神様を拝まなくてもいいということは、拝まないで生きられるようになるということなんですよ。自分の欲やものさしに振り回されなくなるといったって、自分の考えで我を立てておれば同じことですよ。そうでしょう。
 あのね。交通法規というものは私共を守ってくれますけども、交通法規を無視する人を守ってはくれません。交通信号は歩行者と車の安全を守ります。しかし、信号無視する人を守ってはくれませんのです。念仏を中心として、依り処として歩めば、念仏が私を護ってくれるのです。本願が私を護ってくださるんです。だけど自分の考えで生きとれば、そりゃ自分で始末するほかないですね。
 ただ話を聞いてなる程というておってもあかんわけで、私がどうするかと。だけど話を聞いただけではできんわけですよ。できなかった私がああ本当にそうだったんだのかとできる私になるということです。知恩報徳というて如来様の御恩に報いるという利益も説かれておりますが、それは如来の御恩に報いようと歩む私になるということですね。要はこのどこまでも私自身がなにものか、私がどう生きるのが本当かということが、実は焦点であるわけでございます。
 仏法は決して他の宗教のように神様から話が始まるのでもなければ、ご先祖から始まるものでもありません。迷い苦しみ、横着な根性に振り回されとる今の私から出発するんです。そのことさえしっかり押さえて聞いていただければ、仏法というのは決してわけのわからん難しいものではないと思います。何だかよくわからんというたものの、その中でなんか考えさせられるものがあると思うのです。ああ言われてみればそうだったなあというものが、必ずあるのではないかと思うのであります。
 私の話はこれくらいにさせていただきます。