それ、仏法東漸して日域より盛んなるはなし。しかれども教に漸あり頓あり。聖道自力の門は難解難入にして、低下薄地の凡夫いかでか入証得果に至るべき。他力念仏の一門、時機純熟の教にして男女老少をえらばず貧富貴賤を論ぜず。一念帰命のたちどころにおいて必至滅度の大益を期すること何疑いかあらむ。 たまたま我ら南浮の生を感じ、この仏法にまう遇ひたてまつること如何なる過ぐ世の因みにやありけむ。よろこびても歓ぶべきはただこの一事なり。 | そもそも、仏法がインドに起こってから東へ東へと伝わってきた中で日本ほど盛んな所はありません。しかしながら、その教えにも生まれ変わり死代わり永い歳月を要する道と、この一生のうちに目標に至る道とがあります。 自分の方からさとりに向かっていこうとする釈尊をまねる道は難解で入りにくいので、仏の世界からあまりに程遠い迷いの身である私達はどうしてさとりにまで至り着けましょうか。 一方、如来の方からとどけられた念仏の道は今の時代の私達のためにこそある教えであり、男女老少をえらばず貧富貴賤を問わず、光と仰ぎいのちとたのむ心の起こったそのときから必ず浄土で真のさとりに至るという広大な利益が約束されていて、疑う余地がありません。 思いもかけず私達がこの人間界に生を受け、この仏法に遇わせて頂いたことは、いかなる過去世の因縁によるものでしょうか。幾重にもよろこぶべきはこの一事です。 |
されど、いたずらにのみ聞きなして、ついに奈落の旧里に帰らば、万劫の後悔悲しかるかるべきことにははべらずや。 しかれば、天親菩薩の『往生論』に「観仏本願力 遇無空過者能令速満足 功徳大宝海」とのたまへる文を引いて聖人は「仏の本願力を観ずるにまうあふて空しく過ぐるひとなし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観は願力をこころにうかべみると申す。また知るといふこころなり。遇はまうあふといふ。まうあふと申すは本願力を信ずるなり」とねもごろに教へたまへば、たとひ昼夜に聴聞すとも本願力を信ぜざればまうあひたてまつらざるにひとし。 | しかし、無意味に聞き流して、結局もとの地獄に帰ったのでは、万劫に後悔しても及ばぬ悲しいことになるではありませんか。 だからこそ、天親菩薩の『往生論』に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」と仰せられてある文を引用して、親鸞聖人は「阿弥陀仏の本願の自在無碍なはたらきをはっきりと知らされてみると、ひとたびこれを聞き開けば空しくいのちの時を過ぎ去る人とてはない。信心を得たたちどころに、大海のごとく広大な如来の真実の結晶である南無阿弥陀仏の功徳が身に満ち満ちるのである」とおっしゃいました。そして「観」は如来の願力をこころに思い浮かべるということである。またはっきりと知らせていただくという意味である。「遇」は思いもかけず身に余る幸せに遇わせて頂くということである。思いがけず身に余る幸せを得るとは阿弥陀如来の本願力を信ずる身になることである」とねんごろに教えて下さってありますから、たとえ昼も夜も聴聞づめにしたとしても如来の本願力を信じなかったならば、何にも遇わせて頂かなかったのと同じです。 |
されば本願力を信ずるといふは、かねて申し示すごとく、もろもろの雑行雑修自力のこころをふり捨てて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候へとふかくたのみたてまつりて露ばかりも疑いの心をまじへざるを、本願力を信ずとも、大悲の勅命に信順すとも申すなり。この信治定の行者は仏の心光に摂め取られ、一期の間は光明撫育の身となして、臨終の夕べには必ず浄土に送りたまふとなり。 | では、本願力を信ずるとはどういうことかといえば、かねて申し上げております通りであります。如来に近づこう悟ろうのさまざまな行も読んでわかって拝んで唱えて供養してという手柄ごころも、自分の力で己を磨いてという心もすべて振り捨て、自己中心の思いを転換して、疑いなく二心なく阿弥陀如来が、わたくしを後生に仏にする、これが最後の一生、不滅の輝きある一生にせずにはおかぬと、必ずたすけて下さるとしっかり聞き取って、露ちりほども躊躇することのないのを、本願力を信ずるとも大悲の呼びかけにまかせしたがうともいうのです。この信がさだまった念仏の行者は仏の大悲の光明に摂め取られ、一生の間まもり育てられて、臨終のときには必ず浄土に送って下さるとの仰せであります。 |
この御うれしさを思はば、畢命を期として日夜に称名を称へ、他力広大の恩徳を報尽申すべく候なり。かへすがへす地獄必定の凡夫、弥陀他力の本願にまうあひたてまつらずむばいかでか難思議の往生を遂げたてまつるべき。怠りやすきは浮世のならひに候へば、一旦信心を得と申せども、そのまま打ち捨て候へば信心も失せ候べし。「さいさいに信心の溝をさらへて弥陀の法水を流せといへることありげに候」とも中興上人も示し置きたまへば、時々参会して信心の有無を沙汰し、報謝の経営怠慢なく、定め置ける世間の王法仁義の道までも堅く相守り、うるはしく法義相続せられ候こと肝要に候なり。あなかしこあなかしこ明治二 己巳の年 林鐘 中旬 龍谷寺務 釈廣如 御判 代書 明如 御印 越中国 砺波郡 東五位庄 平等講 法中 同行中 | この勿体ないうれしさを思ったならば、命尽 きるそのときまで、日夜に称名を称え、わが思いはからいを越えて如来の方から救いの手を届けて下さった広大なお慈悲のご恩におこたえ申し上げるよりほかはありません。 かえすがえすも地獄よりほかに行き場所のない我と欲に目のくらんだおろそか者のわたくし達であります。そむこうと逃げようと必ずと立ち上がって下さった阿弥陀如来の誓いに遇わせて頂かなかったら、どうして浄土に生まれ仏となることなどありえましょう。ゆめにも思いつくことすらないことであります。怠りやすいのは浮世のならいですから、一度信心を得たと申しましても、そのまま放置すれば信心も消え失せかねません。「頻繁に信心の溝をさらえて弥陀の法水を流せということももっともなことと思われる」と中興蓮如上人も言い残されたことでありますから、機会あるごとに会合して、信心の有無を確かめ合い、報謝のいとなみに怠慢のないよう、歴代門主の制定した社会人としての義務責任についての訓戒も厳守してうるわしく法義を保ち伝えて下さいますことが肝要であります。 |
平等講の沿革と概要
一、本尊 六字尊号「南无阿弥陀佛」
「嘉永三庚戌十二月四日正辰」(かえいさん、かのえいぬ、じゅうにがつよっか、しょうしん)の日付で、御本尊が下付されている。(正辰は午前八時)「廣如上人」(第二十代宗主)より頂いた。
宛て名は「越中国 砺波郡 東五位庄 廿三ケ村三季小寄 広済寺・西福寺・永念寺 並びに門徒中同行中」
(発足) これによって、嘉永三年(一八五○)をさらに逆のぼる時期に廿三ケ村が結束してお講が発足したことを知ることができる。
(講下) 廿三ケ村とはどの範囲を指すか定かではないが、現在は、荒見崎・蔵野町・辻・石塚・本保・小竹・今市・三ケ・上開発・駒方・中保・樋詰・内島・池田・荒屋敷・六家・立野・千鳥ケ丘・出来野・笹川・後正寺・高田島・荒又・渡りの二十四ケ村を講下としているので、現況とほぼ同様と思われる。
二、ご消息と講名
「明治二己巳年林鐘中旬」(めいじにつちのとみのとしりんしょうちゅうじゅん)の日付で、「廣如上人」(第二十代宗主)名で、「平等講、法中・同行中」の宛て名で頂いている。
(認可) これによって、本山講としての「平等講」の名称とが明治二年に正式に認可されたことを知ることができる。
三、講員の数
上記二十四ケ村の本願寺派門徒三百余名をもって講員(同行)とし、一定額の「お講銭」を分担して費用に当てている。また、広済寺・善立寺・西福寺・永念寺・本正寺・善教寺・教願寺をもって法中とし、毎回の勤行・布教を担当することとしている。但し、降誕会と報恩講は別に布教使を依頼。
四、講の年間行事
- 一月二十五日 本山講(初御講)
- 三月二十五日(本山講)報恩講
- 五月二十五日 本山講(例会)
- 六月二十一日(本山講)降誕会
- 八月二十五日 本山講(例会)
- 十一月二十五日 本山助成会・追悼会
五、講の役員
講長 一名 副講長 若干名 会計書記 一名
他に法中代表(伝統的に広済寺住職)
※解説
「平等講」は高岡教区五位組に属する小矢部川東部の七ケ寺とその傘下地域二十四ケ村の本願寺派門徒の総結集によってできた「本山講」である。元来目的とするところは当地の法義の引き立てと本山本願寺の助成護持ということである。
故に、『ご消息』に示された真宗の肝要を繰り返し聴聞、体解し、互いの信心の有無を問いただし合うとともに、「一文でも御本山様へ」の精神に立って、本山護持のため、営々として歩みを重ねてきたところである。
「三季小寄」とあるのは、「春・夏・冬の三季における小寄りの講」の義である。
氷見には「馳走講」という大きな講がある。これは一郡一講の所謂「大寄り講」である。これに対して規模が小さいのを「小寄り講」と称する。今、この「平等講」は「小寄」であり、農繁期の秋を除いた三季に開催する講であるので「三季小寄」と呼ぶのであろう。
本山助成会は元来、平等講の最重要行事であったと思われる。毎年本山へ助成のための上納金を運ぶことこそ講を開設する動機であったからである。その精神の展開として二十年程前から、高岡教区講社連盟による「御正忌報恩講お供え用もち米上納運動」が展開され、毎年の本山報恩講(一月九日-十六日)のお供えの餅はすべて当地より上納のもち米でまかなわれているところである。
ちなみに、『ご消息』を頂いた明治二年といえば富山県が大凶作であった年である。
いわゆる「ばんどり騒動」が起こり、県も放置できず困窮民に対して施粥・救米の貸与がされるほどであったという。そのような中にあって、江戸から明治へと大きく変動する時代に、地域ぐるみの力を結集して南無阿弥陀仏の法義を相続しようとした先人の意気と努力が、今日までの「平等講」の伝統を支え続けてきたといえよう。まさしく当地の浄土真宗を永遠に伝える砦として築かれたのが平等講である。その精神を私達ひとり一人がくみ取って、しっかりと伝統を受け継いでゆきたいものである。