仏法が今日の私に届くまで

「仏法が今日の私に届くまで」

一、教主釈迦如来の出現

 仏教の開祖釈迦如来は、今から二千五百年程前に誕生され、八十年の生涯を生きられた歴史上の人物である。

 現在のインドとネパールの国境付近にあった釈迦族の国の大王家に、長男として誕生された。名をゴータマ・シッダールタと名づけられた。漢字で瞿曇・悉達多と音写される。釈迦とは部族の名であって、ご本人の個人名ではない。

 父は釈迦族の大王浄飯王であり、生母は釈迦族とは同族の隣国コーリヤ国の王女マーヤ夫人であった。出産のための里帰りの途中、ルンビニーという地でにわかに出産、産後の日立ち悪く、七日後に生母マーヤは亡くなられた。代わって養母となられたのは、後妻として嫁いでこられた叔母、ゴータミー・マハーパジャパティという方である。後年この方が出家して尼僧教団の創始者となられる。

 青年の頃より、老病死の迫る無常の身であることに驚き、憂い悲しみ苦しみ悩みを越える道を見いだしたいとの願いを抱かれたが、跡継ぎである一子ラーフラ(後に出家、『阿弥陀経』に羅侯羅と出る)の誕生を待って、二十九才にして出家、修行の旅に出られた。

 アーララ・カーラマ、ウッダカ・ラーマプッタなど当時のインド宗教界の頂点にあった修行者に教えを乞われたが、彼らの示す所は真の苦悩の解決ではないと見切って、独り前人未到の新天地を求めての修行に入られた。あらゆる試みの挫折の末、ついに「ありのままに見る」ことによって開眼、「目覚めたる者=仏陀」となられた。三十五才の時である。後には、敬って、如来・世尊と呼ばれることになる。

 世の人々の苦悩の闇に安らぎの灯火を掲げたいと、生涯を野宿暮らしの伝道の旅に送り、八十才にしてクシナガラという村の辺の沙羅の木の林の下で生涯を閉じられた。

 弟子となった修行者は、男子僧侶だけでも千二百五十人とも一万二千人ともいい、在家の弟子は無数であったと伝える。サーリプッタ(舎利弗)やモッガーラーナ(目連)は特に有名である。また、当時の最大国家、コーサラ国(舎衛国)の大王パセナディ(波斯匿)や、これと並ぶマガダ国(都は王舎城)の大王ビンビシャーラ(頻婆娑羅)も信者となった。

二、経典の編纂

 釈尊滅後、仏弟子達の長老としてまとめ役を担ったのはマハーカッサパ(摩訶迦葉)である。釈尊の教え(経)を後世に伝承するため、釈尊常随の弟子アーナンダ(阿難)に聞いてきた教えを語らせ、五百人の長老たちが聴衆となってこれを記憶するという形で経典の結集を行った。これとは別に在家の弟子達が伝承した教えも多くあったであろう。後にこれがもととなって、文字に記録され、膨大な経典群が出現する。仏滅後二百
  年頃からのことである。

三、大乗仏教の成立

 仏弟子たちは幾つものグループを形成し、それぞれの伝承の特徴を現しつつ、部派仏教の時代を経て、大きくは、出家中心主義の上座部仏教系と、在家生活重視の大乗仏教系の二系統に分かれてゆく。中央アジアから中国・朝鮮・日本へと伝わったのは大乗仏教の系統である。龍樹(ナーガールジュナ)・天親(バスバンドゥ)の二人は大乗仏教の理論的大成者であり、共に菩薩と敬われた方々である。

四、仏教の中国伝来と浄土教の興隆

 文字に記録された経典は、紀元前後から、中央アジアを越えて続々と中国に伝えられて次々に漢語に翻訳された。その中心をになった僧たちは三蔵法師と呼ばれる。『無量寿経』は康僧鎧三蔵、『阿弥陀経』は鳩摩羅什三蔵、『観無量寿経』は彊良耶舎三蔵によって翻訳された。

 隋唐の時代に至ると、中国仏教は百花繚乱の最盛期を迎える。インドでさまざまな仏弟子グループによって伝承された経典群が、等しく仏説として、未整理のまま受容されてきていた。それを系統立てて受け止め、仏教の核心をつかみだそうという試みがさまざまに行われた結果、数多くの宗派仏教が登場する。

 三論宗・成実宗は龍樹系の論書を中心とする学派であり、倶舎宗・法相宗・地論宗は天親系の論書の研究を主とする学派である。天台法華宗・華厳宗・涅槃宗などはそれぞれの経典こそが大乗仏教の極致を表すと見る学派である。これに次いで、生活実践を重視する念仏や禅が起こり、最後にインドの末期仏教として真言密教が伝えられた。

浄土教は、龍樹・天親の教学を受け継ぎつつ、浄土三部経をよりどころとして、曇鸞道綽・善導の三師によって明らかにされた。末代悪世の凡夫のためにに開かれた成仏道であり、菩薩道である。

五、仏教の日本伝来と聖徳太子

 朝鮮半島の高句麗・新羅・百済などを経て、日本に仏教が伝わってきたのは、紀元五 ○○年代のことである。欽明・敏達・用明・崇峻・推古の五天皇が皇位にあったこの数
十年に仏教は日本に定着した。その立役者が聖徳太子である。高句麗からの渡来僧慧慈や百済僧慧聡を師として、本格的に仏教を学んだ最初の日本人であった。法興寺・四天王寺の建立にたずさわり、憲法十七条を作り、勝蔓経・維摩経・法華経の注釈書を著すとともに、仏教の精神を根幹とした国家の形成を志し、明治維新まで千数百年の朝廷の 歴史を仏教色で染める基を開いた人でもある。

六、法然聖人以前の日本仏教

 飛鳥・奈良時代を通じて、仏教は徐々に国民の間に浸透していったが、この時代の仏教は、それぞれの神を奉じて群雄割拠する国内を、仏教の権威をもって統合するという国家の文教政策のもと、国家仏教と呼ぶにふさわしく、僧侶は国家官僚という色彩が強かった。三論宗・成実宗・倶舎宗・法相宗・華厳宗・律宗が相次いで大陸から伝わり、 奈良の六宗と呼ばれるが、一つの教団で六つの学科が学ばれていたと見るべきで、後世のいわゆる宗派とは異なる性格のものである。

 平安時代に入ると、天台・真言の二宗が最澄・空海によって伝えられる。この二宗もまた、鎮護国家を標榜する点では国家仏教的性格のものではあったが、教団の自治を獲得したという点で奈良仏教とは一線を画する。これによって、奈良(南都と呼ばれた)教団、天台教団、真言教団の三つの教団ができあがった。因果を説いて国民を教育し、国家安穏のために祈るということが、共通の使命であった。

 このような全体状況の中で、人間としての真の救いとは何かを求め、浄土往生の道に心を寄せ、念仏を行ずる人々の流れが、奈良時代から脈々と続いていた。覚りを開いて
  仏となり、一切衆生を救済するという仏教の目標からあまりにかけ離れた現実に対する悲歎からである。

 一○五七(永承七)年は、釈尊入滅後、正法千年、像法千年が終わって末法に入った年として人々の危機感をあおった。しかし、親鸞聖人の『顕浄土真実教行証文類』によ
  れば、正法五百年像法千年説に立てば、これをさかのぼる五百年前、仏教伝来の年とされる五五二年に既に末法に入っていたのであり、覚りを得るものは一人もいないと予言された末法の中の日本仏教であったのである。

 これに先立って、九八五年、源信和尚は『往生要集』を著し、念仏こそが濁世末代の救いと説いた。これ以後、念仏は比叡山を中心に広く世に伝わっていった。それから二百年後、法然聖人の登場によって日本仏教は大きくその流れを変える。いわゆる鎌倉新仏教の時代が開かれたのである。法然聖人とその弟子親鸞聖人によって開示された末法悪世の凡夫のための救いの道が浄土真宗である。

七、親鸞聖人から今日まで

 親鸞聖人の教えは、越後、関東、京の弟子たちに受け継がれた。後に特に大きな集団を形成したのは高田専修寺と本願寺の二派である。高田専修寺派は、常陸の高田の直弟子真仏と顕智に始まる。東西本願寺派は、親鸞聖人からその孫如信上人を経て、親鸞聖人の末娘覚信尼の孫の覚如上人によって受け継がれた系統である。

 覚如上人は、親鸞聖人三十三回忌の法要を「報恩講」と名づけて勤め、『御伝鈔』を著して親鸞聖人の生涯を世に知らしめた方である。また、祖母覚信尼、父覚恵と受け継いできた親鸞聖人の墓所、大谷の廟堂の隣に阿弥陀如来を安置して本堂とし、本願寺を名のって寺院化を果たされた。親鸞聖人の足跡をたどる行脚を行われた経験から、その教えが混乱変質してゆくのを憂え、自らが伝承の中心となって門流の統合をめざすためである。第八代蓮如上人が、『御文章』「正信偈勤行」による教化を施されるに及んで教団は爆発的拡大を遂げ、今日の基盤が築かれた。

 戦国乱世に入ると教団もこれに巻き込まれ、一向一揆の時代をくぐり抜けることになった。その経過の中で東西の二派に分かれ、今日に至る。
 
  江戸時代には、キリスタン禁制のための寺請け制度による固定的寺檀関係のもとで、宗門の安泰が保証されたが、一方では伝道布教は制限され、制度的慣習的な性格が強くなった。

 しかし、明治に入ると、宗派ごとに分かれて統一しがたい伝統をもつ仏教では、民心を統合して近代的国家意識を形成することは困難とみた政府は、復古神道をもって民心をまとめ、富国強兵の基盤としようと、国家神道という新宗教を編成する。そのための施策として、千数百年来仏教徒であった皇室からの仏教色の排除、神仏分離令の公布、僧侶の兵役義務化、三条の教則(皇上奉戴・敬神崇祖・忠君愛国)布教の強制などが行われ、いわゆる廃仏毀釈が進められた。教団でもこれに対応すべく、現世には皇国の忠良となり、来世には往生を遂げるという、二本立て主義の真俗二諦の教学が真宗の肝要とされ、戦争政策に全面協力して、やがて敗戦を迎えたのである。

 戦後、過去への反省から、門信徒会運動・同朋運動が展開され、親鸞聖人の教えに立ち返り、蓮如上人時代の生き生きとした教団に立ち戻り、時代の課題と現代人の悩みに応え、宗教集団としての使命を果たしうる宗門にしていこうという努力が重ねられている。

「浄土真宗の教えの系譜」

一、浄土三部経

 浄土真宗の教えのよりどころとなっているのは、浄土三部経である。ただし、法華経をはじめ、阿弥陀如来とその浄土を讃えた経典は少なくない。

 浄土三部経とは、『仏説無量寿経』上下二巻、『仏説観無量寿経』一巻、『仏説阿弥陀経』一巻である。そのうち中心をなしているのは『仏説無量寿経』である。

 親鸞聖人が「真実の教」と讃えられた『仏説無量寿経』には、一体何が説かれているのか。全体としては、如来とは何か、救いとは何かを総合的根源的に説き明かした経典である。釈迦をはじめとして、世に一切の仏・菩薩を生み出す原動力は阿弥陀如来の願力であること、この世に仏法をもたらしている本拠地こそが安楽浄土であることを明らかにしてある。浄土に往く道とは、もともと浄土から来ている道に他ならなかったのである。

 法蔵菩薩の誓願と修行、それによって開かれた浄土のすがた、名号による救いのさま阿弥陀如来が立ち上がらねばならなかった人の世の醜く悲しい現実、疑いを離れて信ぜよという釈迦の勧めなど、象徴的表現をもって生き生きと説かれている。

 古来この経典は、上巻には弥陀如来の真実を示し、下巻には衆生救済の道筋を説くといわれてきた。親鸞聖人はこれを、弥陀如来の願いがそのまま南无阿弥陀佛の名号となっていることを説き明かす経典であると示された。

 譬えとしては、神の罰でも運命でもなく、病があることを示し、医者とは何か、医療とは何かを説いて、診断を受けよ、薬を飲めと勧めるのに当たる。
 
  次の『仏説観無量寿経』は、診断書に譬えられる経典である。「王舎城の悲劇」と呼ばれる事件を背景に、息子が父を殺し、母である自分を幽閉するという事件の渦中で苦悩する韋提希王妃のために、釈尊が念仏の道を説き開かれるという構成になっている。世のトップにある人々もまた、煩悩具足の凡夫、十悪五逆の罪人であるという実態を暴き出し、そのような者を救うための阿弥陀如来であり、南無阿弥陀仏であったことを説き明かすのである。

 三つ目の『仏説阿弥陀経』は、処方箋に譬えられる。釈迦如来のみならず、ガンジス河の砂の数ほど数多い六方の諸仏が、口を揃えて勧めたもうところは、ただ念仏の薬一つであり、そこに込められているものは人間の思考を越えた大いなる真実であることを告げ知らせるのである。

二、七高僧の勧め

 ・龍樹菩薩(インド)

 釈尊亡きあと、歳月を経るにしたがい、仏教の伝承に観念化形式化固定化の傾向が見られた頃、大乗仏教の偉大な先駆者が南インドに現れた。龍樹菩薩(一五○~二五○) である。幾度生まれ変わっても果てることのない苦しみと空しさを「生死の苦海」と示し、これを脱する覚りを開き、一切衆生を救うのが仏をめざす菩薩の道であるが、気骨軟弱なものは堕落しやすいことを指摘して、難行道と名づけられた。その上で、本願の船に乗って、南無阿弥陀仏の風に、信心の帆を挙げれば、誰もが確実に覚りに至ることができると譬えて、本願を信じ念仏を称えて仏になる道を、易行道と呼んでお勧めになった。

  ・天親菩薩(インド)

 天親菩薩(五世紀頃)は、龍樹菩薩の勧められた信心とは如何なるものかを、自らの信心表白をもって明らかにしてくださった。その著書『浄土論』の始めに、「このみ教えを説き残してくださった釈迦牟尼世尊よ、 あなたの仰せを今こうむりましたこの私は、あなたの仰せの通りに一心に、阿弥陀如来のみ心に従いたてまつり、かの安楽国に往生させていただこうと願わせていただきます」と述べて、二心なく疑いなく如来の仰せにしたがう一心こそが信心であると示されたのである。そして浄土に生まれようと願うことは、そのまま、仏となって衆生を救おうと願うことであると示して、往生浄土の道が菩薩道であることを明らかにしてくださったのである。

  ・曇鸞大師(中国)

 インドにおける龍樹・天親二菩薩の教えを承けて、中国仏教徒として、浄土教の骨格かいぬいを解明してくださったのが曇鸞大師(四七六~五四二)である。大師は、浄土往生も衆生救済も阿弥陀如来の本願力他力の作用であることを明らかにし、なればこそ易行なのだという道理を示し、浄土往生の要因は唯一つ信心より他はないと説かれた。
 
  ・道綽禅師(中国)

 曇鸞大師の教学を受け継いで広く念仏の行を勧められたのは道綽禅師(五六二~六四五)である。禅師は 難行自力の道は、所詮凡夫が釈尊の真似をしようとする聖道門であり、末代悪世の今は不可能な道であると示し、ひとえに念仏して浄土を願うより他はないと勧められた。

  ・善導大師(中国)

 道綽禅師最晩年の弟子が善導大師(六一三~六八一)である。大師は『仏説観無量寿経』の教えの真意を明らかにして、五逆十悪の罪人を救おうという阿弥陀如来の本願はただ一つ、専ら念仏申すことに結晶しているということを説き示された。また、多くの著述によって、浄土真宗の法要、勤行の基本をお示しになった。

  ・源信和尚(日本)

 わが日本において、善導大師の教えに注目した最初の人は源信和尚(九四二~一○一七)である。和尚は『往生要集』を著して、浄土を願い娑婆を厭うべきことを示し、罪悪深重の私たちを見捨てることのない阿弥陀如来の大悲を仰いで、念仏申すより他はないことを説かれた。また同じく念仏する中にも、信心の人は真実報土に往生するが、疑いの抜けないものは方便化身土に往生するという違いがあることを明らかにして、信心を勧められた。

 源信和尚の影響力は大きく、日本国中のあらゆる階層に念仏の行は広まったが、まだ仏道修行の補助的な行という受けとめ方が主流であった。

  ・法然聖人〔源空〕(日本)

 源信和尚に遅れること約百九十年、法然聖人(一一三三~一二一二)が出られて、誰にでも称えることのできる念仏にこそ仏法の真実の全体が籠もっていること、法にそむき真実に背を向けてさまよい回る私たちを救うために、阿弥陀如来が、これしかないと選んで、南無阿弥陀仏になって耳から心へ飛び込んで、声をあげてくださるすがたこそ念仏であることを明らかにしてくださった。ただ念仏一つこそ仏法の全てであると、浄土真宗を開き示されたのである。

三、親鸞聖人と蓮如上人

 親鸞聖人(一一七二~一二六三)は法然聖人の教えを、そのままが阿弥陀如来から自分への仰せと受けとめ、生涯その跡を慕って歩まれた。法然聖人の教えの眼目は本願他力の信心一つと受け継ぎ、私たちの歩むべき道を示してくださったのである。

 親鸞聖人の教えを広く民衆の暮らしのなかに届けてくだったのは本願寺第八代蓮如上人(一四一五~一四九九)である。正信偈勤行の習慣も御文章も蓮如上人のお仕事であ る。これなくしては、私たちは、親鸞聖人の名すら知らなかったであろう。