13. 浄土真宗を次の世代に広めるにはどうすればよいのか。

一、この問いを取り上げたねらい

 お寺へ参る人が少なくなった。念仏を称える人がいなくなった。浄土真宗は形骸化して、葬式仏教になった。その葬式さえも葬儀社主導になりつつある。法事もだんだん勤められなくなってきている。若い人を寄せる工夫はないのか。話し合いをするとどこででも出る声である。現在の状況を、自分はどう見るのか、自分は何をすればよいのかを考えてみたい。

二、さまざまな意見──話し合いのヒント

  • すばらしい教えだと思うが、みんながそっぽを向いている感じだ。
  • このままでは次の時代には誰も念仏するものがいなくなる。
  • 世の中がおかしくなってきている。若者の心のあり方が心配だ。
  • もっとわかりやすく魅力ある説教をするようにしてもらいたい。
  • お坊さんの封建的体質、不熱心と怠慢が法義の衰退を生んでいるのではないか。
  • 毎朝、我が家のお仏壇に参ることさえしなくなったのだから、寺へ来る方が不思議なくらいだ。お坊さんはもっと厳しく指導すべきだ。
  • うちの若い者にもやかましくいうのだが、いい過ぎると反発される。
  • みんな勤めをもっていて、家族そろってということがなくなった。しかたがない。
  • 子供のうちに植えつけることが大事だ。日曜学校がなつかしい。

三、話し合いを深めるために

 情報がとどくということ、語り合う場があるということが、念仏者の育つ基盤でしょう。そのために協力してなにができるかを考えてみましょう。

〔参考〕

○ それまで細々と伝えられていた親鸞聖人の教えが一気に大きく広まったのは蓮如上人の時代。その理由として幾つかの要因が挙げられる。その一つは「お文」の効果である。文書伝道のもつ厳正さと集約性、朗読による大衆布教の効率性を兼ね備えた点が注目される。いわば伝達手段の均一化と効率化である。
 もう一つは正信偈和讃の勤行のもつ影響力である。大衆参加型の勤行形態は、門徒の家庭の中に生きた根をはる役目を果たした。いわば主体的参加意欲の喚起である。
 第三の要因は、当時の社会構造の動向との対応性である。惣村の形成期、日本的家社会の草創期に、本寺・手継ぎ・末寺・道場という組織と、親族集団による指導体制は、最新最強の組織であったといえよう。

○ 今日の伝統的宗教基盤の慢性的崩壊は、産業構造の変化が社会構造の変容をもたらしているからに他ならない。かつては、真宗門徒のほとんどが、農民・職人・商人であった。祖先伝来の家産・家業によって家をなし、家の精神支柱としての宗旨と仏壇を中心に暮らしてきたのである。家社会は、その連合体としての村(町)社会と、親族社会によって補強され、確固たる規範として人々の暮らしを規制してきた。
 しかし、戦後の著しい産業構造の変化は、家も家庭も崩壊させ、親族社会と地域社会の規制力を決定的に弱体化させた。バラバラの家族、漂流する個々人のの時代がきたといっても過言ではない。伝統的な家社会・親族社会・地域社会を基盤としてきた日本の既成仏教教団はその基盤を慢性的にそして加速度的に失いつつある。
 「ご文章」朗読の力も、「正信偈」のお勤めのもつ影響力も、伝統の寺檀関係も、朝夕ばらばらの時刻に出勤し、帰宅する共同下宿的様相の家庭の中では機能しなくなっている。

○ 浄土真宗門徒の宗教生活は、日常生活とは別に、在家信者の修行という形であったのではなく、日々の暮らしなりわいと一体化して存在したところに特徴があった。しかしそれゆえにこそ産業構造の変化が与えた影響は深刻であったといえる。あらゆる宗教の信者で真宗門徒ほど、宗教生活・宗教行動・宗教実践を失ってしまった例は他にないのではないか。「真宗門徒は、坊さんを呼んで法要を努めてもらうことと、お寺にお金を出すこと以外、何もしていない。彼らは浄土真宗を何も知らない。浄土真宗は坊さんたちの宗教に過ぎない。だから私は浄土真宗と縁切れになった」と言った人がある。

○ 伝道方法さえ時代即応のものに変えれば、浄土真宗は広まるのか。
 宿命論的「業」理解と、真俗二諦論理によって、近・現代の真宗教学は内面化・個人化・観念化・思弁化が進み、社会性・行動性を失ってしまったようにみえる。人間性回復の教学(反戦・反差別)を再構築する努力の積み重ねが不可欠であろう。

○ 何はともかく、僧侶・門徒ともに、浄土真宗に出遇い、浄土真宗を受け継ぎ、浄土真宗門徒としての自己確認をする場がなくてはならない。我が家での朝夕のお勤め、村内で勤まる年幾度かのお講、寺の報恩講や祠堂経、我が家や親戚での法事があり、いろり端で、或いは手仕事を持ち寄りながら繰り返された信心談義など、かつて真宗門徒を育てた「場」がなくなってしまった今、どんな場作りをすればよいのか。それこそが問題である。
 前項で述べた通り、それは既製品としての教義を伝達するだけの場であっては、存続さえ困難であろう。今日の新たにして多種多様な問題を背負う私たちに、南無阿弥陀仏は何を語りかけようとするのか、聞きなおす場でなくてはならない。新たな時代の僧侶、新たなタイプの門徒が育ち、新たな教学が、伝統の中から生い立たなければならないのである。
 試みは既に始まっている。連研は試みの第一段階である。

○ 信心の有無は一旦不問にするとして、浄土真宗の門徒の基本であったのは何か。正信偈を称えることではなかったのか。それが全ての始まりではなかったのか。仲間を誘って一緒に正信念仏偈を読もう。正信偈の読める人を増やそう。それが念仏者を増やすことであり、信心の行者にともになろうという運動の出発点ではないか。

迷いと覚り

仏法は、生老病死・憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・悶えをのりこえる道を求めることから見いだされた法。

迷いとは、釈尊の覚りにおいて、苦悩を生み出す根源として発見されたもの。

  • 迷いは迷いを迷いと知らず。迷いを迷いと知るのは覚りの智慧。
  • 迷いは無智・無明(愚痴)を本質とし、貪欲と瞋恚なってはたらき、苦悩を生み出す。
  • 迷いとは自分が描いた過去にとらわれ、自分が描く未来に惑って、今を直視できない状態。
  • 迷いとは自分を見失うこと。自分を裏切ること。
  • 迷いとは老病死のいのちを見失うことで、老病死の現実に踏み迷うこと。

覚りとは、ありのままの事実(法・実相・真如)に目覚めること。

  • 覚りは、今までのとらわれを知り、迷いを知り、無智を知る。
  • とらわれから解放されて真の智慧を得るために、出家・修行が尊ばれた。
  • 凡夫の智慧、凡夫の言葉・凡夫の想念では表現しようも受け取りようもないものが覚りの中身ある「法」

迷いを離れえず、覚りに至れず、覚りを求めるための出家修行さえもできない故にこそ、迷いと苦悩の中をもがきながら生き、死んでいくのが大多数の凡夫。

迷いからは覚りを知り得ず。覚りからは迷いを手に取るように知る。

  • 仏法は覚りの智慧から、迷いの世界への呼び覚ましのメッセージ。
  • 安楽をもたらすため、光を掲げるため、よりどころを与えるため、勇気づけ励ますため、覚れるものに起こる慈悲心の故に仏法は説かれた。
  • 迷いの凡夫は、仏陀の覚りから出る教えを受け取るだけの智慧をもたない。

迷える者の愚痴に即しながら、しかも法の真実を知らしめる教えがなければ、仏陀の慈悲は空しく孤立する。真如法性に順じながら、しかも凡夫の情に即した教えを説いて、迷いの衆生を利益することこそ、仏陀の本懐と釈迦は説く。

  • 覚りの世界から迷いの世界に届いた、メッセージこそが、浄土教・本願念仏の教えである。
  • 如来は実相身・為物身──浄土・阿弥陀を疑うことのおかしさ。             
  • 西方に浄土あり──指法立相の浄土はとらわれ深い凡夫の心情に合わせての表現
  • 自然の理を知らせん(がための)料なり──言語でも、形象でも表しえない真実を、あえて言語的表象的に表現したものが浄土教。