12. 人権尊重とお念仏の精神はどうつながるのでしょうか。

一、この問いを取り上げたねらい

 人権尊重は世界の潮流である。時代社会の激動の中で、家族、隣人、宗教などの伝統的共同体は、人間のいのちとこころを守る保護膜としての力を失いつつある。今や社会的弱者の「人間としての尊厳」を守る最後の防波堤が「人権」であるからである。
 しかし、人権は近代ヨーロッパのキリスト教文化の中から生まれたものであり、国家と教会の権力の横暴に対抗して現れたという世俗的性格を持っている。人権という思想は日本の社会にも宗教界にもまだ十分浸透していないようである。
 真宗の伝統においては、信教の違いを越えて、人間相互の信頼と対話を尊重し、人と人とのつながりを確認する原理として、「王法・仁義」の尊重が言われてきた。今まさに、「王の法」から「人の正義=人権」への意識転換が迫られているのである。
 ここでは、念仏の精神の非宗教的表現という観点から、人権について語り合ってみたい。

二、さまざまな意見──話し合いのヒント

  • 人権は西洋のキリスト教的思想であって、日本の仏教思想とは合わない。
  • 世界に通用する人道思想といえば人権思想しかない。植民地の解放も、南北格差の是正も人権思想あればこそのことである。
  • 個人の尊重は、まとまりと秩序を壊す。人権の主張は、わがままを言うのと同じだ。
  • 社会には個人の従うべきルールがある。そして個人に保障すべき権利がある。個人は社会の規則にしたがい、社会の一員としての権利を有する。当然ではないか。人権を主張することをわがままだと言うのは、それこそ権力者指向のわがままだ。
  • 女性の権利や子供の権利を言い出して、家がバラバラになり、社会がおかしくなったのではないか。
  • 家庭も地域共同体も、産業の変化でバラバラになった。しわ寄せは老人・女性・子供の安らぎを直撃している。人権尊重はそのための特効薬である。

三、話し合いを深めるために

 人権は人間である以上当然の権利と、社会の一員である以上当然の権利とからなる権利です。人間の歴史的所産としての人権と、釈尊の覚りの内容である永遠の法(ダルマ)の共通点と相違点について考えてみましょう。

〔参考〕

○侵害されている人権
  ―― 幼児虐待
  ―― 児童労働
  ―― 家庭内暴力
  ―― セクハラ
  ―― 人身売買と売春
  ―― 被介護者虐待
  ―― 人種差別

  ○人権意識で人間を守らなければならなくなった背景
   産業構造の変化は社会構造の変容をもたらした。かつては、家族が、親族が、そし
  て教会や寺が、避難場所であり、癒しの場所であった。しかし、戦後の著しい産業構
  造の変化は、家も家庭も崩壊させ、親族社会と地域社会の保護力を決定的に弱体化さ
  せた。バラバラの家族、漂流する個々人のの時代がきたといっても過言ではない。伝
  統的な家社会・親族社会・地域社会を基盤としてきた日本の既成仏教教団もまたその
  基盤を慢性的にそして加速度的に失い、人々の心を支え守る力を失いつつある。

 ○人権ということ
   ──王の権力・国家権力・教会の権力に対して、弱い立場にあった人民が団結して、
      正義として認めさせた権利である。
   ──歴史とともに発展してきた概念である。フランスの人権宣言当初は、男だけ白人
   だけの権利と思われていたが、植民地の住民の人権主張、女性の人権主張を通して
   性別や人種、国境を越えた正義として認められるようになってきた。
    ──人が人として尊重されねばならないという願いに裏付けられた正義。
   ──真の人間性を回復しようという願いの具体化としての権利。
   ──王法・仁義・世法と呼ばれてきたもの。但し、王が与える保証としではなく、市
   民が共に認め合う正義としての権利。人間として当然の権利、市民の一員として当
   然の権利として、再確認されてきた歴史的所産。
   ──日本の文化伝統の中でいえば、「一寸の虫にも五分のたましい」「世間の道理」
   と呼ばれてきたものに通ずる。

  ※奴隷制と教会の容認が問われたことの歴史的意味

 ○ 個人の尊厳と集団の論理
   ──集団かならずしも公ならず、個人かならずしも私ならず。集団エゴという私。
      普遍的真理や公正さは個人の覚醒において現れるもの。
   ──利益共同体は共有するエゴの共同体にすぎない。運命共同体はその共同体の支
      配階層のエゴを中心に動く。
   ──個人を尊重できない集団は、ある種の構成員のエゴイズムに支配されている。
   ──国家、宗門、町や村、家庭、親族などの既存集団が持っていたはずの個人を護
      る力が、社会構造の変化に伴って穴だらけとなり、弱体化した今日。保護集団
      を失った個人を護る砦として「人権」が再認識されてきている。人権こそ、あ
      らゆる法概念の基盤である。

 ○「王法を額にあて、仏法を内心にたくわえよ」という蓮如上人の言葉にそっていえば
  「信仰を異にする人達とも、人権尊重を共通項として信頼と連帯の関係を築き、自ら
  は弥陀の本願を究極のよりどころとして、念仏とともに生きる」ということになるの
  ではないか。

 〇念仏の精神の世俗的表現
    人権は、権力を持たないものの、道義をよりどころとした訴えによって確立され
   てきた概念である。権力側に立つか、力ない民衆側に立つかが問われている。
    これまで、「生かされて」「おかげさま」「報恩感謝」ばかりが強調されてきた
   きらいがある。権力者側にとって好都合な体制順応、現状肯定的な表現である。し
   かし、それは少なくとも蓮如上人時代、そして一向一揆によって今日の宗門の基盤
   が形成された時代の思想とは全く異質なものである。キリスタン禁制のための寺請
   け制度の下で、藩政の保護を受け、従順な領民を育成することを使命としてきた江 
    戸時代、そして皇国の忠良を養成するための教導職をもって任じた明治以降の国家
   神道時代の思想であったといえよう。
    これでは、苦難とどう向かい合うか、不当な圧政にどう抵抗するか、被差別者、
   弱者の立場の人々とどう連帯するか、時代の諸問題にどう取り組んでいこうとする
   のかは、全く視野にも入ってこない。余りにも、個人的、内面的、閉鎖的な念仏理
   解であったといわなければならない。
    問題を問題ととらえ、自分の問題として受け止め、これに立ち向かおうとする勇
   気と励ましを与えるのが浄土真宗であったはずである。
    本願を信じて念仏を申し、浄土で仏に生まれて衆生の救い手になるという、浄土
   真宗は、「人間性の開花結実」の道であり、「人間の尊厳の発揚」の道であるとも
   いえよう。それは、いわば人権尊重ということと別ではないであろう。