8. 仏法と社会問題とは別次元のものではないか。

一、この問いを取り上げたねらい
   仏法をよりどころとして生きようとするとき、社会問題は別といってはいられない
  はずである。人の苦しみに共感し、社会に渦巻く人間性を傷つけるさまざまな問題を
  自らの課題と受けとめることは大乗仏教の原点であり、問題と取り組む現実生活を通
  して仏願の由来をたずねることが聞法のいとなみであるという点を確認したい。

二、さまざまな意見──話し合いのヒント
 ・大事なのは心の問題である。世俗問題より聞法が第一なのではないか。
 ・仏法の教えの通りにしていたら、世の中の厳しい競争についてゆけなくなる。
 ・仏法の教えの通用しない、ドロドロしたものが世間だ。理屈どおりにはいかない。
 ・仏法を聞いても、現実問題の解決に結びつかないように思う。
 ・要は、こころの拠り所を持って、精神を安定させることが、何につけても大事という
  ことであろう

三、話し合いを深めるために
  仏法をよりどころとして生きるとはどういうことかを考えてみましょう。

〔参考〕

 ○精神的な問題と物質的な問題(物と心)、社会的な問題と個人的な問題、世俗的な問
  題と宗教的な問題という二元論の危うさ。
   ──「物にばかり愛着するのも心」── 即如門主のことば
   ── 身体や環境と無関係な、心の問題など存在するのでしょうか。
   ── 物と心というように分けて考えることが無理だと教えるのが仏教。
   ── 社会の問題と個人の問題は別で、無関係だといえるのか。
   ── 現実問題と無関係な宗教問題があるのか。
   ── 政治的観点からみれば、宗教関連のことも全ては政治的な意味をもっている。宗
     教的観点からみれば、政治関連のことも全ては宗教上の問題であるはず。

 ○政治問題に目をふさぐ(あるいは背を向ける)宗教者は、現政権を無条件に支援する
  結果になるという意味で、(本人の意思にかかわらず)甚だ政治色の強い宗教者であ
  る。

 ○世俗的問題にはかかわらないのだという態度を取る宗教者は、世俗の現実をそのまま
  是認する結果になるのだから、(そしてそのことを知っているのだから)実は世俗主
  義者であり、彼の信仰は空洞化しているのである。

  ○競争に勝つより、かけがえのない一つのいのちとしての輝きと喜びを。
    ── 「一切の業繋も除こりぬ」と讃えられる如来の願力によって、いわゆる運命にす
        ら打ち勝つ道。「無碍の一道」こそ真宗。個々の場面での勝者より、人生の勝者
        となる道。

  ○仏法が世間に通用しないのではない。世間が法にそむき、真実に背を向けているのである。
    ── 「世間虚仮唯仏是真」は聖徳太子の言葉。「よろずのことみなもてそらごとたは
         ごとまことあることなし」は親鸞聖人の言葉。世間に合わせるのではなく、世間
         の中に生きて、世間に灯火を掲げる人になれよとの仏の願い。

 ○現実に立ち向かうための仏法 ── 現実を背負っての誓願こそ仏法の原点
   ──あきらめるより悪いのが、初めから問題にもしないこと。
   ──誰も問題にしなかったこと、現に今も誰も問題にしようとしないことを、問題に
    してあるのが、弥陀の本願。
   ──たとえ問題として意識しても、とても無理だと誰もがあきらめてしまうことを、
    どこまでも願い続けるのが法蔵菩薩の願い。果たせないからこそ止むことのない
    願い。
   ──本願の名号は、一切衆生を呼び覚まして菩薩道を歩ませる励ましの呼びかけ。
   ──凡夫が凡夫のまま歩む菩薩道、それが念仏の道。

 ○仏法とは弥陀の本願と名号
   ──本願は五濁悪世の現実を背負って立てられた。
   ──地獄餓鬼畜生は人間現実生活の奥に潜む恐ろしさ・醜さ・悲しさ・空しさの象徴
    的表現。(無三悪趣の願)
   ──差別社会を背負う願い。(悉皆金色の願・無有好醜の願)
   ──苦しむ人を知り、自在に救える身に。(六神通の願)
   ──自らが苦悩から解放され、他を苦悩から解放することのできる身に。それが仏に
    なること、めざすこと。(必至滅度の願)

 ○「現実的」ということの問題性
   ──ややもすれば、仏法を手段として、世間の欲心を満たそうとする。
   ──仏法を手段視するとき、自分自身(のいのち)を手段視することに