一、この問いを取り上げたねらい
浄土真宗でいう信心は、一般通念としての信心とは根本的な違いがある。ここにこ
そ浄土真宗の特徴がある。他力の信心と呼ばれ、浄土の大菩提心と讃えられることの
意味を確認したい。
二、さまざまな意見──話し合いのヒント
ア信ずるものは救われるという。信じさえすればよいというのはこわい気がする。
イ「たのまぬ衆生は救われぬ」と昔からいう。やはり真剣に祈らなければならないので
はないか。
ウ昔の人とは違い、今の人間はものを知りすぎているから信じにくいのではないか。
エ昔から、信心をもらうということは聞くが、私にはとても無理だと思う。
オ他力の信心というから、おまかせしておけばよいということであろう。
・わかっても、わからなくても、要は信ずるほかはないということではないか。
・災難にあうのは信心が足りないからか。
三、話し合いを深めるために
信じようとしても、自分の意志で、疑いを離れることはできません。疑いが晴れる
とはどういうことでしょうか。
〔参考〕
○世間では、疑い深いことを信心深いという。
「占いを信ずる」とか、「御札の力を信ずる」とかいうが、御札を下げていても
事故に遭ったのはおかしいと、お守り札を出している神社や寺に苦情をいう人はな
い。もともと信じていないからである。ただ、もしや効き目があるのでは、ないよ
りはあった方がいくらかよいのではという「疑い」があるのであり、駄目でもとも
とという計算がはたらいているのである。占いが必ず当たるとは思わないが当たる
のではないかという「疑い」があるので無視できないわけである。
○祈りとの違い ── 方向が逆
──祈るとは、訴えること、請い求めること。その根にあるのは、不足、不満、
不安である。
──祈るとはこちらの思いを知ってもらおうということ。自分の思いどおりなれ
ばよい、そうしたいということ。「神様、私の言うことを聞いてください」
──祈りの反対が聴聞・聞法。仏の教えを聞き、心を聞き、願いを聞かせていた
だくこと。
──ただ聞くだけでなく、ようこそと聞き、はいと従っていくのが信心
──信ずるとは、心が満たされること、喜ぶこと、安んじること。聞法を通して
如来のまごころに遇ったからである。
○何をどう信ずるのか
――仏智、本願、願力を信ず。罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願、
他の善も要にあらず念仏にまさるべき善なき故に。悪をも恐るべからず、弥
陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故にと信ず。
――この我を目当ての本願であったと信ず。
○因果の道理を信ずるというのとは違う。
──仏智の不思議を疑って罪福信ずる人もある。
──信罪福心とは、善因善果悪因悪果を信じて、善果を得ようとして善因を植え
ようとはからう打算的な心。善因少なく罪悪多い故往生は不可能と恐れ嘆く
心。何れも自己中心で如来をそっちのけにした発想。
○信ずる心ではない、私に届いた如来の真心。
信ずるとは思い込むことではない。まず、如来の教えがある。そのままをこのわ
たくしに仰ってくださるのだと受け止めること。如来の願いがこころに響いてくる
ことである。自分の心で、間違いないと判断することではない。自分の判断はあて
にならないことを本当は知っているのが人間。
信心を、「信ずる心」と呼んではいけない。それでは、如来を信ずる私の心とい
うことになる。信心とは、私の心の持ち方やあり方のことではない。私にまでとど
いてきた如来のお心というべきであり。如来のお心を知らせて頂いたというべきで
ある。
如来を信ずる私の心ではなく、私にとどいた如来のまごころということである。
「信心をばまことの心と読めるなり。まことの心と読む上は凡夫の迷心にあらず。
全く仏心なり。この仏心を衆生に授けたまふとき信心といわるるなり」
――信心とは「信受仏心」の義であるという解釈である。
○用語例
・『仏説無量寿経』の用語例 『仏説観無量寿経』 『仏説阿弥陀経』
(至心)信楽(欲生) 至誠心 深心 回向発願心 執持名号一心不乱
信心歓喜 信受
歓喜信楽 歓喜信受
専心信受
信楽受持
信順
○発信する如来、受信する我。
(如来)発信 ── 受信(私) 阿弥陀如来の「まこと」を釈迦如来が「の
まこと たのむ べ」たまう。親鸞一人がためなりけりと「
のぶ まかす たのみ」身を粉にしても骨をくだきてもと
「まかせ」たてまつる。
○「たのむ」も「まかす」も信の古訓で、「信む・信す」の意。
──頼むや任すは、他人をあてにし、人任せにすること。これらとは違う。
──「たのむ」は「信受」の意、「まかす」は「信順・随順」の意。
──「たのむ」は、「たすける」「たよる」と同様に「た」は強意の接頭語。他
の例としては「たなびく」「た折る」「たばさむ」「たばかる」等がある。
──「たのむ」は「た・のむ」である。「のむ」は、「水をのむ」「薬をのむ」
「のみこみがよい」の「のむ」で、「たのむ」とは、確かに受けとること、
ようこそと受けとめること。
──「まかす」に「したがう」の意があることは、現代語辞書にも出る。
○信心の手本、天親菩薩の一心
──「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」
──無二無疑の一心。
──無二心(弥陀一仏による、他の仏菩薩・神等に心をかけず)
──無疑心(この我への仰せと受け止め、態度保留・猶予の心なし)
〇自力のこころをひるがへして他力をたのむのが信
自力-自分の方から覚りの世界へ、如来様の方へ、あの人をこの人をという発想
自己中心、自分のものさし、自分の目にくるいはないという立場。
我が身をよしと思い、自分をあてにする。人をよしあしと裁こうとする。
広大無辺の阿弥陀如来の本願真実を疑うすがた。
如来の本願力に遇って他力ということに目覚めるまでは、自力は全く意識
されなかった。空気の存在に気づかなかったように。
他力─如来の利他力、如来の方から私へのはたらきかけ。
真実そのものが人間の妄想観念を突き破って目覚めさせるはたらき。
○信心は浄土の大菩提心、他力回向の信、だからこそ往生の正因
『正像末和讃』「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ すなわち願作仏心を
度衆生心となづけたり」
願作仏心の左訓「他力の菩提心なり極楽に生まれて仏にならんと願
へとすすめたまへるこころなり」
度衆生心の左訓「よろずの有情を仏になさんとおもふこころなりと
しるべし」
「如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をす
てはてて 利益衆生はきはもなし」
如来の回向の左訓「弥陀の本願をわれらに与へたまひたるを回向と
まうすなり」
○信心と利益(救い)は同時に
・信心は喜びであり安心である。如来の真実に遇いえたすがたであるからである。そ
れ自身が大いなる励ましであり勇気づけである。信じたらそのうち救われるのでは
ない。信じることが即救われることである。