6. 地獄も極楽もこの世にあると聞く。要は、こころの持ち方次第ということではないか。

一、この問いを掲げたねらい
    浄土といい極楽といい、死語になりつつある。代わって天国が、若い世代では市民権
   を得てきている。念仏を称える人がいなくなってきたせいであろう。
    浄土真宗は、人間のおもわくを越えた阿彌陀如来の真実の世界・浄土からとどいてき
   た呼び覚ましの声である。浄土なくして念仏も信心もありえない。
    浄土は如来の願いの 顕現したものである。「浄土を願え」ということばに込められた
   如来の願いにふれて、浄土の実在を感得したいものである。

二、さまざまな意見──話し合いのヒント──
  ア 行って見てきたものは誰もいないではないか。あると言われても信じられない。
  イ 悪いことをさせないように地獄を説き、死の恐怖を慰めるために極楽を説いたのでは
    ないか。
  ウ 死んだら誰でも極楽へ行くのだと思っていた。
  エ 死んだらそれでしまいで、何も残らないと思うと、あまりにも空しい気がする。
  オ 死んでもたましいが残ると聞く。たましいが何処へ行くかという問題ではないか。
  カ 死んでからのことより、今、生きている間のことこそ大事ではないか。

三、話し合いを深めるために
   親は子らのために家庭を整え、学問を勧めようとする人は学校を創立し、医師は病
  院を開きます。阿彌陀如来は何のために浄土を建立されたのでしょう。
   浄土へ往く道は、浄土から来る道でもあるはずです。浄土から来たものとは何でし
  ょうか。

〔参考〕

 ○極楽浄土とは
  ・『無量寿経』には「安楽」、『観無量寿経』『阿弥陀経』には「極楽」とある。
     「浄土」の語を多用されたのは親鸞聖人。
  ・浄土は阿弥陀如来が衆生を迎えとって仏に生まれ変わらせるために開設しようと願
   われた世界。
  ・『唯信鈔文意』「極楽無為涅槃界」の釈において、親鸞聖人は、惑いをひるがえし
   て覚りを開く世界であると示し、阿弥陀如来も浄土も真如法性から顕現したもので
   あることを明らかにされている
   ・寺のモデルは浄土、浄土は精舎のありさまになぞらえて説かれる。
  ・釈尊の徳が生み出したこの世の浄土は精舎
  ・天国もまた無常をまぬがれず、煩悩を離れられない迷いと苦悩の世界とみる仏教。

  ○浄土を願うこと
  ・浄土を願う──衆生救済の願い。急ぎ仏になって有縁無縁の衆生を救う道
  ・浄土を願うは他力回向の菩提心。願作仏心はそのまま度衆生心
  ・挑めどもままならぬ現実を背負って。
  ・浄土から来ている道が浄土への道。
  ・浄土の光がこの世の五濁を照らしだす。

  ○死後と後生
   ・後生とは死後の世界のことではない。現生も前世からみれば後生であり、後生から
   みれば前生である。遠い過去世から毎回後生があったわけだから、「今度の後生」
   という。
  ・仏教には「誰もがゆく死後の世界」という観念がない。六道はすべてこの世なので
   ある。死後の世界がないから、生まれ変わるのである。
  ・私たちは、先人たちが死んだあとの、死後の世界に生きている。しかし、一般に
   「死後の世界」というときは、もう一つの死者たちが住む世界という意味である。
   「この世とあの世」という二つの世界があるというのが、仏教伝来以前からの日本的
   死生観である。「この世とあの世」という観念には「過去世」という観念がない。
   これと仏教の輪廻観や三世思想とが混乱している。
  ・後生の一大事とは、今生の一大事に対する言葉。一大事とは覚りを開いて仏になる
   こと。今生に一大事を果たそうとするのは聖道門。

  ○地獄とは
  ・無三悪趣の願、不更悪趣の願は、この世の現実を法蔵菩薩は地獄餓鬼畜生のありさ
   まと見て立てられた。
  ・『観無量寿経』には、韋提希夫人が「この濁悪の処は地獄餓鬼畜生みちみちて不善
   のともがら多し」と訴える。
  ・地獄のモデルはアショーカ王時代の刑罰のありさまといわれるが、原爆の生み出し
   た地獄絵図には及ばないという。人間の煩悩が生み出す世界。
  ・地獄は万人の足元、地下にあると説き、極楽浄土は十万億の仏土の彼方と説く。つ
   まり人間の思い計らいを遠く越えた彼方にあると説く。地獄は意識しようとすまい
   と身近にある。極楽は、仏説で聞くより他に思いつきようもない世界。
     ──一仏土とは三千大千世界(千×千×千の世界)すなわち十億の世界ゆえ、十万
     億仏土とは、十億×十億の世界を指す。

 ○魂が浄土へ往くのか。
  ・魂があってもなくても、生老病死の現実は変わらない。
  ・老病死、別離に憂い悲しみ苦しみ悩み悶えるのが人間。
  ・魂の有る無しを論ずることは無意味。どう苦悩をこえるかが問題。
  ・魂の観念は無常、苦、無我の現実へのおののきと拒否反応から生まれた観念か。
  ・流転輪廻とは迷いの深さ、底無し果てなしの象徴表現。