5. 寺参りや仏壇のお守りは年をとってからでもいいのではないか。

一、この問いを掲げたねらい
  寺や仏壇は仏(本尊阿彌陀如来)・法(浄土三部経・正信偈・和讃・御文章など)
  (浄土の往生人・念仏同行たる僧侶・門信徒)の三宝現前の場であること、生きるものす
   べての帰依所(よりどころ)を象徴するものであることを確認したい。特に仏法を縁と
   して結ばれた同朋同行の和合の集いに、自らが加わるという体験の重要性に目を向けた
   い。

二、さまざまな意見──話し合いのヒント──
 アまだ若いから寺参りには早い。だいいち忙しい。
 イ寺の法座は年寄りばかりで仲間入りには抵抗がある。
 ウ寺は先供養のための施設ではないのか
 エ寺へ来ると何かしら穏やかな気持ちになる。
 オ昔は、毎朝、家族全員が仏壇の前でお参りして、お仏飯を分け合って頂き、一日が始
  まったものだが、今はそうはいかない。
 ・かっては、年に何度も町内にお講が勤まって、他所からもお参りがあって賑やかだっ
  た。念仏の声が、ドーッとあがったものだ。
 ・誰かの年忌でもない時に仏壇を迎えると死人が出ると聞いている。
 ・最後はお世話になります、ご院家さん。今はまだ忙しいのでそこはよろしく。

三、話し合いを深めるために
  同じく悩みやを抱える人間として、心通う友を見出させ、和合の集いをもたらすもの
 が真の宗教です。エゴイズムを越えた連帯のもつ意義を考えてみましょう

〔参考〕

 〇寺とは何か
  ・この世の浄土・浄土の出張所・和合僧の集うところ
  ・寺の原型は精舎(竹林精舎・祇園精舎など)
     ── 仏陀と尊者たちが集うところ、諸々の上善人(仏・菩薩)に会える場所。そし
        て人がそこに行って、仏に遇い、教えを聞き、同朋を見いだし、生まれ変わる
        ところ、覚りを象徴する世界  。
  ・真宗寺院の内陣や仏壇は阿弥陀浄土を象ったもの。
     ── 阿弥陀如来の浄土も『阿弥陀経』によれば祇園精舎になぞらえながら説かれる
        阿弥陀如来の徳によって開かれた精舎である。それを象徴するものとして真宗
        寺院の本堂はある。精舎の伝統を受け継いで、真宗の寺はこの世の浄土を表現
        している。
  ・真宗寺院・仏壇の直接のモデルは本山本願寺両堂(阿弥陀堂・御影堂)

            聖徳太子像                帰命尽十方無碍光如来  (十字名号)

            竜樹・曇鸞・善導像            歴代宗主影像

   (阿弥陀堂)  阿弥陀如来像      (御影堂)  親鸞聖人影像

            天親・道綽・源信像            歴代宗主影像

            法然上人像                南无不可思議光如来 (九字名号)

     ──これを寺院では五尊に略し、仏壇では三尊に略している。

 〇仏壇とは何か
  ・迷いと悩みの人生を生きるもののよりどころを表現している空間。
  ・仏壇は仏法僧現前の場、帰依所の表現。浄土の光を仰ぐ窓。
     ──阿弥陀如来と親鸞聖人・蓮如上人の教え(正信念仏偈・和讃、御文章)そして
       同朋同行としての家族。

 〇寺は何のためにあるのか
     ──同朋相集い、励まし合い学び合い、報恩の営みを結集するため
     ──寺の主は阿弥陀如来、住職寺族は従業員、門徒は出張所(仏壇)の従業員。
       院長は阿弥陀如来、祖師・蓮師・七高僧とは医師団、住職寺族は入院患者、門徒
       は通院患者
  ・寺は如来のもの、如来の願力が人の世にすがたを表したもの
  ・宗門と寺──寺は誰のものか──阿弥陀如来のもの、十方衆生のもの。住職のもの
                         でも門徒のものでもない。
  ・宗門はサンガ、寺は聞法の道場・伝道の拠点、菩提寺ではない。

 〇法座に参ることは
  ・念仏同行の仲間に加わること、親鸞聖人の同朋になること、僧伽の一員になること
  ・寺参りは年寄りの仕事とした富国強兵殖産興業政策と国家神道によって私事化。
  ・産業構造の変化によって、家業中心、仏壇中心の生活習慣が崩壊。朝参り、寺参詣
   は激減。

 〇仏壇のお守りは
  ・窓を開けて光を家のなかに入れること。