「他力本願」ですくわれるのなら、べつに聴聞したり念仏を称えたりしなくてもよいのではないでしょうか。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
(唯信鈔文意 註釈版P707)

 どなたもようこそお集まり下さいました。私もあちこちでちょっとお話し合いの様子を聞かさしていただきましたが、どこの連研も同じようなあんばいでございました。他力本願という言葉は、仏教の言葉の中でも世間の通念で最も取り付きにくい言葉でございまして、この言葉を聞いただけで本当の意味が分かるということは、万に一つも千に一つもないことです。
しかしながら、他力本願という言葉は、実は浄土真宗の生命とでもいうべき言葉でありまして、逆に言えば他力本願ということが分かったということは、ご信心がいただけたと同じということであります。だから分からないので当たり前でありまして、分かったならば別に連研に来なくてもよいくらいのものであります。
 「他力本願ですくわれるのなら、べつに聴聞したり念仏を称えたりしなくてもよいのではないでしょうか」というこの質問は、「他力本願とはなにもしなくてもよいのではないか」という意味を含んだ質問でありますが、いや実はそうではないのだということが裏にあるわけであります。
 さてまず、「他力」ということと「本願」ということと二つに分けてお話しをしたいと思います。最初に何故「他力」ということがいわれねばならなかったかということです。何故自力・他力という分け方をして、何故、他力ということをいわなければならなかったのか。何故、自力はだめなのだといわねばならなかったのかということです。

難行・易行

 この自力・他力という言葉は、曇鸞という方がはじめてお使いになったお言葉です。自力ではなくて何故他力なのかということですが、これは曇鸞様がお書きになった「浄土論註」というお書物の最初を見ますと分かります。
 まず菩薩が、必ず仏になるに間違いのない道にでるために、龍樹菩薩が二ついわれた。難行と易行とがある。難行というのは、釈尊と同じように自分の力で修行を積み重ねて、如来のさとりを開いていこう。それは難行だ。
 何故かといえば、もろもろの修行をあますところなくやらなければならない。諸善万行、あらゆる修行をしなければならない。しかも、一年や十年や八十年、九十年やってもだめだ。 生まれかわり死にかわり、万劫に修行を重ねていかねばならない。だから、ともすればもうこのへんでいいじゃないか、結構なもんになったじゃないかと、あらゆる生きものを救うという願いを捨ててしまいやすい。到底如来になれない。そういうことから難行道。つまり仏になろうと努力はするのだけれど、なんぼ努力してみても、あらゆることを、もうそれこそ生活のすべてを、生活の全体をかけなければならない。ねえ、一生やってもまだ足りんということである。これだけ悟ったからもういい、これで私は結構幸せだということではだめなんだ。いいかえれば、私共には実際上不可能なんだということを示しているわけです。 それに対して易行ということは、それは難(不可能)だということではなくて、私共にも可能だということです。つまりそれは信心を道として、信ずることにおいて救われていく。具体的には、称名であります。如来の本願を信じ念仏を申すことにおいて、如来様の力で必ず仏になるようにしむけられている。こちらなら可能だということです。
 それは何故かというと、私のような心の持ち主でも通じるということです。一つや二つならできるが、あらゆることをやっていくには、私の心がもたないのです。一生やってもまだ足りない、とても耐えられない、あらゆる迷える人を救うなんてそんな、とてもできない、私の心がつぶれていってしまう。こちらは、如来様のお心を信じて如来様のお心にしたがって、如来のみ名を称えていくならば、それは可能である。如来様が支えて下さるからである。龍樹菩薩様のお心を受けて曇鸞様はこういわれるのであります。
 それでこの難しいということをさらに開いてこういわれます。
 『一には外道の相善は菩薩の法を乱る。二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。三には悪を顧みることなき人は他の勝徳を破す。四には顛倒の善果はよく梵行を壊る。五にはただこれ自力にして他力の持つなし。』(浄上論註)

何故難行か

 一つには外道、外道と申しますのは、仏教以外であります。仏教以外の宗教のことです。外道の相善、相善というのは、似て非なるということです。かっこうはまことに善であるけれども一枚皮をはげば、何が出てくるかといえば、〃誉められたい、これだけしておけばいいことがあるだろう”という欲望がかくれている。姿、形だけが立派で内側は空しく偽りの偽物の善であります。偽善ということですね。乱す。何を乱すかというと、菩薩の法を乱す。菩薩の法というのは、まことの智慧と慈悲の主となって、あらゆる衆生を救うていこうという、限りなく止むことのない誓願に生きることです。そのことの意義をあいまいにする。
 その次は、声聞。お釈迦様の教えを聞いて、そして自分一人が心の平和をもつ、他の人が迷うていようとそんなことは私の知ったことではない。これが声聞自利です。自分さえ安楽であればそれでよい。声聞の自利は大慈悲を障う。仏法の精神である大慈悲を見失わせてしまう。
 それから三番目に、悪を顧みること無くして他の勝徳を破す。他というのはここでは如来様ということです。如来様の真実の大きな力を無にしてしまう。
 それから四番目に顛倒の善果。これは、迷いの変形でしかない安らぎや喜びのことです。よく梵行を壊る。まことの修行を放棄させる。
 最後に、唯これ自力にして他力のたもつなし。
 こういわれまして、さらに、現実にもうお釈迦様はおられない無仏の時代である。そして五濁の世界である。そういう時代というのは、とても自分の力で努力して如来に近づいていこうとしても、私自身の中に問題がでてくる。つまり私自身にやっかいなものがある。
 さて外道というのは、他の宗教。声聞というのは、小乗仏教のことです。他の勝徳というのは、大乗仏教のことですね。どういうことが自力かと申しますと、自分のはからいで自分を幸せにしようとすることです。
 その意味からすると自力というのは、仏教徒だけではないですね。いや自力の世界は外道と底のほうでつながっているのではないですか。外道というのは、姿、形はうるわしく人に誉められるようにやるということなんです。これはうわべだけの自力なんですね。自分さえ内面的に幸せにすごせれば、それでよいというのが、声聞の自力の心なんですね。そして自分自身の中に抱えている悪に目を向けようとしない、それが自力なんですね。そして、結果の善、この世の幸せばっかりを問題にしている。それが実は自力の姿なんですね。
 それでは、他力の世界はどんな姿なのかというと、菩薩の道です。あくまでも一切衆生を救うという如来を目指して歩んでゆく。そして、それこそ大慈悲、あらゆる衆生を救わずには止まないという道である。そして、如来様の大きな力によって歩いてゆこうという、そして梵行ですから、その如来様の力にもよおされて、真宗の言葉でいえば報謝の道を歩いていく、そういうことが他力ということなんだということです。

虚仮不実のわが身

 つまり、我々の心の中にあるものをあばいておるわけです。格好ばかり、心の中はどうかというと、口で言うとることと腹で思っておることと違っておる。口でうまいことばっかりいっておる。それが自分なんですね。そういうのが私の姿なんですね。そういう自分の、横着な自分の心を頼りにしている。それが自力なんですね。ね、自らを頼む。この自力というのは単なる力という意味ではなくて、自らを力として頼るということなんです。口で言うことと腹で思うことは違っている。口で言うことは空ごとであります。心にもない空ごとです。腹で思うとることは口にもだせんたわごとでございます。
 そういう者が、姿、形を一生懸命整えていこうとする。……外道の姿ですね。所詮は自分一人の心の安らぎしか求めようとしない。自分さえ心静ならそれでよい。そして、自らの悪に目が覚めない。悪人だということが分からないということですね。そして形に現れたこの世の幸せばかりを、喜んだり感謝したりしている。自らを力として自らを根拠として、自己中心に生きている人間の姿です。それではとてもじゃないが、成仏の道を歩むことはできないということなんですね。
 そこに、実は曇鸞大師が結局自力がだめと言われたことは、どういうことかというと、人間というものが虚仮不実であるということ、つまり真実がないということを言うてあるわけです。真実でない人間が、なんぼりきんでも自力からは真実は出てこない。

因 果

 こちらは因をあらわし、こちらは結果をいうてある。要は因果ということであります。つまり、因が真でなかったら果は真ではない.、ウリの種からナスビはならない。如来になる、成仏の果を得ようとしたら、如来になる因がなければならない。それは何か、如来から出たものでなければ如来になれない。ウリの種はウリの中からしか取れない.、柿の種は柿の実の中にしかないのです。如来の真実の世界にしか、私共が如来になってゆく因〈種)はないのですね。だから私達のこのような心を因としてゆけば、結果はやはり迷いと苦しみの世界しかない。だから真の仏になるまことの因、つまり如来様、阿弥陀如来様が阿弥陀如来になられた因は何だったのか。本願でございます。本願を因として弥陀になられた。だけどその本願というのは、どんな本願だったかというと、自分がただ如来になろうという本願ではなかったのであります。重誓偈の中で、一つには、私は、仏になろうという誓いでございました。。「必至無上道」この上ない悟りをひらこう。この上ない悟り、それはどんな悟りなのか。中身は、「普済諸貧苦」、諸の貧苦を救う、貧苦というのは、仏になる因のない者であります。貧しき者、苦しき者、諸の仏になる因、まことの心を持たないで迷い苦しんでおる者を救う仏になるということです。どうやって救うのか。「名声超十方」、我が名を聞かせ称えさすということですね。あらゆる者に我が名を聞かせる。十方世界に我が名を聞かせ、その心を知らせ、信じさせ、我が名を称える者にしたてあげて救う、それが阿弥陀如来の悟りなのです。つまり、ただ自分が悟ったということではなくて、あらゆる者が救われる道を悟られたということですね。その本願が因となり、その因によって阿弥陀如来が成仏したもうという果があるわけです。
 そうしますと私共は、まさしく阿弥陀如来の世界に生まれよう、阿弥陀如来と同じ悟りを得させていただこうと願うのであれば、この阿弥陀如来の本願の全体であるこの名号をいただかなければならない。つまり如来の本願、この因が、全体が実は私共が受け止める姿としては、名号となって下さっておるわけです。
 つまり、阿弥陀様がお悟りを開かれた。これは結果ですね。この果の中に因が宿っているわけです。この種はまた同じ種を生み出す種なんですね。この種は何かというと名号なのです。
 実の一番大事ないのちは、種です。皮でもなければ肉でもない、種なのです。その阿弥陀如来のまさしく悟りの果のいのち、核心である名号が私共に至り届くことである。如来様の、如来様ご自身から、如来様の真実全体がこめられた実をいただかなければ、仏にはなれないということです。

他力とは

 それでは如来様の真実を私がいただいていくというその他力ということを、どのようにおっしゃってあるかというと、言葉を聞けば大体分かるわけです。

自 然

 『正信偈』の龍樹菩薩のところに「自然即時入必定」というてあります。これはお経にもありますが、〃自然〃。他力というのは自然ということです。まあ、自然法爾という言葉がありますが、「おのつから、しからしむ」。つまり他力ということは、人にやってもらうということではない。つまり、自然とは、私自らがそうなっていくということ、今の言葉でいえば自発性なのですね。自発性なんだけれども、自分で計算してやらなければならないというのではなくて自然になんですね。「母さん、母さん」と子供が慕うのは、子供が母親を慕わなければならないと思っているわけではなく、親の慈愛のなせるわざなんですね。自然に子供が「母さん、母さん」というわけです。それと同じことです。他力とは自然ということです。
 子供に何故母さんが好きかと聞いて、カレーライス作ってくれるからとか、お菓子をくれるからとかではなくて、本当は子供が母親を好きという原因は子供にあるのではなくて、その子をかわいいかわいいと育ててきた親であることが、実は子供が親を慕う根源なのですね。自然に慕うのですね。自然ということが他力ということなのです。
 それから、先程申しました「易行」ということは、つまり私達にもそういう〃言いつけ〃ならば仏になっていけるのだという、万人に可能であるということ、万人に開かれてある可能な道であるということです。

廻 向

 それから、曇鸞大師は「廻向」とおっしゃいます。廻向というのは至り届いて来るということです。相手の、つまり如来様のまことが、私に届いて私の中で働いてくれるということです。自然ということと同じ意味でございます。如来様の心が、私に働きかけてくださる。それで私が動いていくということですね。それは裏を返せば、私の心で動いていた私が、如来様の心にひかれて動くようになるということです。つまり方向転換させられるということなのですね。自分のものさしばっかりで動いていた私が、如来様にひかれて動くのだと、方向転換するということですね。

本願力

 それから、曇鸞大師は、そのものがらは何かというと本願力であるとおっしゃいます。

知恩報徳

 本願力ということはどういうことであるか、受け取る私の姿でみれば「知恩報徳」とおっしゃいます。知恩報徳というのは、感謝することではございません。そうではなくて曇鸞大師は、忠孝の如しとおっしゃっています。忠義な家臣は自分の考えや判断、また自分の都合で動いたりはしないのだと、必ず主の命令を待って、主の心を受けて動いてゆく。親孝行な子供は、決して自分勝手に事を考えたり言うたりしない。必ず親に相談して親の心に添うように動いてゆく。つまり、自己中心的でないということです。従ってまさしく〃従ごうていく〃、つまり「言い」のままになる。親の言いのままになるのを「孝」という。主の言いのままになるのを「忠」という。如来様の言いのままに、お心のままに動くというのを「知恩報徳」というてある。それが実は本願力であり、本願力廻向ということである。

おおせのままに

 如来様の願いをうけて、如来様の願いのままに生きていく。難しいことではなくて、仏になることなど毛頭願う心を持たぬ私ではあるけれども、仏にせずにはおかぬと願われ、念仏申せとおっしゃってくださる。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし……」ということが実は言いのままになるということなのですね。おおせのままということです。

浄土門

 それから、曇鸞大師は、それは浄土門であるとおっしゃいました。他力というのは浄土門である。自力というのはこの世を物差しとしている。この世で総てを解決していこう。この世の経験、この世の知識を問題にしているのです。だけどこの世は五濁悪世である。そんなものを参考にしていてはいけない。それを根拠にしていてはだめなんだと、そうではなくて如来様の世界に聞かせてもらって、それを願わなければならない。浄土門。これはある意味では、この私共の現実を、物差しにはしないということであります。いってみれば現実否定ということですね。

摂取不捨

 それから「摂取不捨」だと。これはお経にもでてまいりますし、親鸞聖人も重要視されたことです。摂取不捨というのは、摂め取って捨てんということです。如来様の方から一方的にということで、私共は如来になりたいなどという心は初めから持っていないし、救われたいなどと思っていない。救われるということは、うまく娑婆を渡ることにしか思っていないのです。私共が願っていないのに、如来の悟りを開くこと以外に、まことのみのりはないぞと、まことの幸せはないのだぞと、それを聞かせたいと如来様の方から摂め取って捨てたまわず。つまり、私共の意志に反してということでございます。思いもかけないのにということでございますね。つまり、他力とは私の意志に反してということでございます。

選択の本願

 さて、今度は「選択の本願」ということについて考えてみます。「如来の選択」、私共が自分の物差しで選ぶ道ではない。如来様が如来の智慧をもって、「これより外にあなたの歩む道はなかったのだぞ」と、如来様が選んで与えて下さった。我々のこの世の知識や分別や物差しや経験で選んでいく世界ではない。如来様が如来の智慧をもって選んでドさった道なのである。

義なきを義とす

 如来様のおはからいにまかせるということなのですね。それは、この選択ということを特にいわれたのは法然上人ですが、その法然上人は、それを受けた私の姿として「無義為義」「義なきを義とす」。私のはからいを離れて如来様の仰せにまかせ、仰せにただ従こうてゆくこと、それこそが他力だとおっしゃったわけです。
 この本願力、摂取不捨、無義為義ということを他力ということの重要なポイントとして、親鸞聖人はおお示しになっておられます。「他力とは本願力なり」とおっしゃっておられます。それから、摂取不捨だから阿弥陀という、阿弥陀と名づけたてまつる。このことを他力という。法然上人は「無義為義」とおっしゃった。他力の念仏ということは、この意味であります。他力の信心とはこの意味であります。
 私のはからいで算用するんじゃない。ただただ仰せに従うばかりなりということです。あんたどんな気持ちで称えとるんですか、いや私の気持ちで称えとるんじゃない。如来様が称えよというてくださるから称えているのだと。これが他力の念仏ですね。仰せのとおりということですね。他力ということは、ですから自分自らを力として修行していくことに対して、他力の救いということで、いわれているということでございます。

自力を捨てるとは

 問題なのは、先程の話し合いの中で出たことでございますが、他力が問題ということは、実は裏を返せば、自力とは何かということが問題なわけですね。まさにそのことでございます。先程自力ということについて少しお話しをしましたが、このことを親鸞聖人は、わかりやすくおっしゃっておられます。
 自力とはどういうことかというと、自力の心を捨てる、それが他力なんですが、自力の心を捨てるとはどうすることか、「さまざまの大小の聖人」、大乗仏教、小乗仏教のそれこそ頂点に立つような偉い方々であります。そういう人達も、あるいは凡夫、善凡夫も悪凡夫も、あらゆる人ということですね。
 自らが身をよしと思う心を捨てる。自力とは、私こそ、私でもという心なのでございます。よしと思う心を捨て身をたのまず、おのれを根拠とせずたよりとせずということですね。「身をたのまず」、我が身をたのむことが自力だということです。
 「あしき心をさかしくかえりみず」、「私みたいな者は」とこざかしい反省をしないことです。反省する暇があったら如来のいうとおりにしなさい、ということですね。反省してどうかなるのならば、凡夫といわないでしょう。反省するのも煩悩の心でしか反省できない。やっぱりこんなことして損した。こんなこといって馬鹿にされた。今度はうまくやらなければという根性が、いつも奥に隠れているわけですね。だから、さかしく反省などしないのだ。ただ如来の仰せに素直に従うていくことこそ大切だということですね。
 また、「人をよしあしと思う心をすて」。まことにそうであります。つまり自力の心とは、あの人はいい、この人はあかん、あいつより私が上だと、人をよしあしと、人を裁く心であります。人を評価する心であります。自己中心の心であります。
 これをすてて、「ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類」、煩悩に縛られた日々の日暮らしが、そのまま罪を犯すことをもって生活している。それより他に生きようを知らない私が、「無碍光仏の不可思議の誓願」。私共の思いはからいを越えた如来様の大いなる誓い、広大な智慧によって、これを依り処とせよ。これを受け取れよと与えられた「広大智慧の名号を信楽すれば」、「煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり」、「具縛はよろずの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわずらわす、悩はこころをなやます」。まさしく身を煩わせ心を悩ます種をもっているのですね。欲・そねみ・ねたみ・自分の姿が見えない愚かさ、そういうものをかかえているわけです。そして、そういうものに振り回されながら、生きている私共の姿。その私のために実はたてられたのが本願であったし、その私なればこそ、これだと与えられてあったのが名号だということなのです。

思いはからいをこえて

 さて、このようなことでありますから、聞いてみなければ分からないということであります。いや聞いてさえも分からない。不可思議ということは、私共のおもいはからいをこえているわけですから。ただ私共にとっては、私の方から分かっておる如来様は、それは私の考えた如来様でしかないということです。私の方からは分からないけれども如来様は、私共の姿を見抜いたうえでいっておって下さっておるということだけは分かるわけですね。
 海の真ん中にでてみると、海の広さや形は分からない。海はただ丸く見えるばかり。丸く見えておる向こうにまだ海が広がっている.、それが分からない、だけど一つだけ確かなことが分かる。何が分かるかというと、私がその海の中におるということです。だから、「仏智の不思議」ということは、分からないということは、やみくもに分からないということではなく、とても私共の思いはからいをこえた世界だと。だけども、一つだけ分かったことがある。この私というものを見抜き通したうえでできあがっておった。この私のためにあった。その中にこの私が、摂め取られておるということがわかる。

自己があばきだされる

 それでは、先程から話してきたことが無駄だったのかというと、決してそうではないのであります。それは、まず他力と聞けば、他力本願と聞けば、つまり、他力をどのように誤解したかということにおいて、私のものの見方かあばかれてくるということです。
 一つは、他力というのは、何かお願いして助けてもらうことだと思ってしまう。そういうことで申しますと、他力でない宗教はあるか、というとみんな他力ですよ。それはまさしく、「祈る」「祭る」「願う」、という宗教感で見れば、そう聞こえるわけです。
 それできくということは、後の方で聞くことが大切だとでてまいりますが、つまりは私のいうことを相手がきいてくれるということです。私のいうこと、私の思うどおりになればいい、私のいうことをきいてもらいたいということなのです。それが祭ることなのですね。
 これを蓮如上人は、「まいらせこころ」とおっしゃいました。つまり、自分のいうことを聞いてもらうには、相手をあがめ祭っておいて、頭を下げて、持ち上げて、ものをだして、ひとつ頼みます。ということなんですね。これはもう人間関係の中でいつもやっておることですね。
 その世界に欠けておるものは何かというと、相手のいうことを聞くということが欠けているわけです。こちらのいうことを聞いてもらっている。そしてお互いに自分のいうことを聞かせようとばかり考えておる。ひとつも相手の心を聞こう、相手の言いなりになってみようということを知らない。日本の政治の歴史を見てもそうでしょう。頂点にいたのは天皇ですが、誰も天皇の言うことを聞いた時代はないのでしょう。いつも祭り上げて、その権威を利用しようとばかりですね。自分達に都合のよい勅命をださせる。争いが起こるとみんな天皇を自分の側に引っ張りこもうと躍起になってきました。いつも祭られてきたのであります。祭り上げ、担ぎあげて利用するだけです。誰も本当に信じよう、言うことを聞こう、いいなりになろうとは思っていなかったのです。そういう心で聞けば、「他力」がどういうふうに聞こえてくるか、おのずから分かりましょう。
 それからもう一つは、依存する、頼って他人まかせのことだと思ってしまう。いろんなものを頼りにし、また当てにして生きているから、やっぱりいろんなものを頼りとし、当てにしなければ生きていけないという自分の思いで解釈するからそうなるわけですね。文明が進めば進むほど、そして生活に恵まれれば恵まれるほどそうであります。私は成る程そうだと思うのですが、苦しい時代を生き抜いた人は、どこが強いかというと、「なにいざという時は、あのときのことを思えば、あれがなくても、これがなくても俺は生きていける」という、これは大変な強さなのですね。それが恵まれた世界に生きていると、あれもなければ、これもなくてはいけないと、なけりゃならんものばっかりです。恵まれておるというかわりに、「これのお陰で」というものは縛られる。その結果は何かというと〃不安〃です。恵まれているのだけれども不安だ。幸せだといって感謝せよといっても、感謝できるわけがないのであります。不安なのです。これがなかったらどうしよう。あれがなかったらどうしよう。お釈迦様は全部捨てられたのですね。何もかも捨てられた。何にもたよりにしない。たよりにしてもだめだということが、本当だったからです。
 それから、自力ということでいえば、自力というのは努力することだと思う.、自力というのは責任をとることだと思うのです。つまり、自分は責任のある人間だと。自分は無責任でなまくらな人間だとあまり思わないですから、自力とは自分のことだから、自力とは努力することであり、責任感のあることであり、他力とは無責任で努力しないことだと思ってしまうわけですね。
 まさに、自分の根性がみんなでてくるわけですね。時間がきましたが、実は今日は、他力ということだけで終わらせていただこうと思っていたわけですが、本願ということにつきましても、何故、本願ということが説かれねばならなかったのかという、そこが非常に大切な処でございますけれども、これはこの次に譲らせていただくことにします。
 ともかく他力本願という時、それは一体何であるか、一言で申せばこういうことでございます。聞かせ、信じさせ、称えさせて仏にしたい。これが如来の本願でございます。南無阿弥陀仏の六字の意味は、そこにこもる如来の願いは、南無阿弥陀仏の精神は、南無阿弥陀仏を聞かせ、信じさせ、称えさせ仏にしたい。如来に生まれ変わらせたい。それが本願でございます。他力とは、まさしくその如来の願いの真実の力によって、現に私共が聞かせていただき、信じさせていただき、称えさせていただき、喜ばせていただくことが、これが他力でございます。他力本願とはこういうことでございます。