『唯信鈔』聖覚法印(意訳)

(1) ― 本文 ―

 そもそも、生死(無常・苦悩・迷い)を離れて仏の覚りを成就しようとするのに二通りの道があるといいます。一つには聖道門(釈尊の覚りを追体験しようとする行き方)であり、二つには浄土門(浄土に生まれかわってそこで覚りを開こうとする行き方)です。聖道門というのは、この娑婆世界にいて、修行に励み功徳を積んで、この一生のうちに覚りを得ようとするのです。いわゆる真言を行ずるともがらは、この身のままで大日如来と同
じ覚りの位に上ろうと思い、法華を修するたぐいは、今生において眼耳鼻舌身意の六つの感覚を浄化して煩悩を離れた境地を得ようと願うのです。
 まことにそれらの教えの本意からすればその通りでありましょうが、末法濁世になってしまった上は、現在のこの身で覚りを得ることは、幾億の人があろうと一人もでき難いのです。
 このため、今の世にこの聖道門を修行する人は、この身のままでの覚りということについてはみずから絶望して、あるいは遙に弥勒が仏となって出現する未来に期待して五十六億七千万年先の暁の空を想い、あるいはさらに遠く後の世の仏が世に現れて下さるのを待ち望んで、果てしない永い間、幾多の生死に流転を重ねなければならぬやらわからぬ夜の雲に惑っています。あるいはまた、わずかに釈尊説法の旧跡霊鷲山・観音の聖地補陀落に生まれたいと願い、あるいは再び迷いの世界に過ぎぬ天上界・人間界の小さな果報を目指しています。
 仏法に縁を結ぶという点ではたしかに尊重せねばなりませんが、この世のさとりという看板は既に有名無実も同然です。願うところは迷いの三界のうちに過ぎず、望むところまた輪廻の世界の果報です。どういうわけで、それほどの修行と学問をつぎ込みながらこんな小さな果報をめざすのでしょうか。まことに、これこそ大聖釈尊の時代を去ること遙かに遠い末世であるからであり、聖道門の教えに込められた理はあまりに深く、今の私たちの理解力はあまりにお粗末であるからといわねばなりません。

(2) ― 本文 ―

 二つに浄土門というのは、この一生のうちに善根功徳を積んで覚りに至ろうとする姿勢を転換して、次の世に浄土に生まれて浄土において菩薩としての修行を全うして仏になろうと願うのです。
 この門は末代の人間にふさわしい行き方です。まことにたくみな如来の導きといえましょう。
 ただし、この門にまた二つの異なった道筋がわかれるのです。一つには諸行往生、二つには念仏往生です。

(3) ― 本文 ―

 諸行往生というのは、あるいは父母に孝養し、あるいは師匠先達に奉仕し(世福)あるいは在家の五戒・八斎戒をまもり(戒福)、あるいは布施・忍辱を行ずることをはじめとして真言宗の「三密」・天台宗の一乗の行などの大乗仏教の修行の功徳(行福)を転用して浄土に往生しようと願うのです。
 これらの行き方も皆往生できないわけではありません。一切の善行徳行は皆たしかに浄土門の行(阿弥陀如来が法蔵菩薩のいにしえに一切衆生を救わんがため至心をもって行ぜられた修行の内容)であるからです。
 ただ、これは自らが修行に励んでその力で往生しようと願うのですから、自力の往生と名づけるのです。修行・生活が真実でなくおろそかであれば(法蔵菩薩と異なり、虚仮不実な行でしかなかったとしたら)往生を遂げることは不可能です。これはかの阿弥陀如来の願っていて下さる道ではありません。摂め取って捨てぬ救いの光が照らすことはありません。

〔参考〕

  • 順次生 ―  この次の生、「後生」というに同じ。
  • 菩薩の行 ―  仏とは菩薩の願行の完成したすがたである故にこのようにいう。
  • たくみなり  ― 如来が巧みなてだてをもって、衆生を真実の世界に導き入れることを善巧方便という。人間の行き方の巧みさをいうにあらず。
  • 五戒・八戒  ― 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒(以上五戒)不香油塗身・不歌舞観聴・不高広大床(八戒)不非時食(斎)
  • 布施  ― あまねく施すこと(私が・彼に・これをしてあげたというとらわれを捨てて、施したという思いを離れた 三輪清浄 惜しみない施し)
  • 忍辱  ― 辱めを忍ぶこと。どのようなことも受け入れること。
  • 三密  ― 身口意の三業において如来と一体化することをめざす真言宗の行
  • 一乗  ― 仏法のあらゆる道は結局、ただ一つの成仏道に帰するという天台宗の法華一乗の教義を体得すること。
  • 世福  ― 世間的な福徳 道徳的な善行・戒福 戒律中心の小乗仏教的善行
  • 行福  ― 自力修行によってこの世での覚りをめざす大乗仏教的善行『観無量寿経』の説を受けて善導大師が、示されたもの
  • 浄土の行  ― 浄土に至ることのできる道。阿弥陀如来が浄土建立のために修行された道。ただし一寸も一瞬もごまかしのきかない道。
  • 摂取の光明  ― (阿弥陀如来の)光明遍く十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまはずと『観無量寿経』にある。

(4) ― 本文 ―

 二つに念仏往生というのは、阿弥陀如来の名号を称えて往生を願うのです。これはかの阿弥陀仏がもともと願っていて下さるところにそのままお従いする道でありますから正定の業(往生・成仏確定の道)と名づけます。ただ一方的に阿弥陀如来がかけて下さる願力にひかれるばかりですので、他力の往生と名づけます。
 そもそも名号(南無阿弥陀仏)をとなえることが、何の故に阿弥陀仏の本願にかなうというのかといえば、そのことの起こりは、阿弥陀如来が未だ仏になっていらっしゃらない昔、法蔵比丘と申しました。その時に仏がいらっしゃいました。世自在王仏と申しました。法蔵比丘はすでに菩提心を起こして、清浄な世界をわがものとして、すべてのいのちあるものに光あらしめんとお思いになり、世自在王仏のもとに参上して申されました。「わた
くしはすでに菩提心を起こして清浄な覚りの国土を開設したいと思います。願わくは、仏陀よ、わたくしのために覚りの国を築き上げるためのありとあらゆるすぐれた道をお教え下さいませ」と。その時、世自在王仏は二百一十億の諸仏の浄土の人間・天人がどのようなよき果報を得ているか、どのようにすぐれた国土であるかをことごとく説き明かし、ことごとくこれを目の前にお見せになったのでありました。
 法蔵比丘はこれを聞きこれを見て、悪しきは捨て善きを取り、粗末なるは捨て秀妙なるを願い求められました。たとえば、三悪道のある国土は選び捨てて、三悪道なき世界を願い取られました。その他の願もこれに準じてその趣旨を理解することができます。このようにして、二百一十億の諸仏の浄土の中からすぐれた点を選び取って極楽世界を建立されたのです。譬えていえば、柳の枝に桜の花を咲かせ、二見の浦に清見が関を並べたようなものです。これを選ぶことは一生だけの思案ではありませんでした。五劫の間こころをしずめて考え尽くされたのです。
 このように妙にして清らかに飾られた国土を開設したいと願った上で、重ねて思惟なさいました。国土を開設することは衆生を導くためである。国土がすぐれていたとしても、衆生が往生し難いのでは、大悲大願の趣旨に反することになる。そこで往生極楽のための特別のみちを定めようとするけれども、一切の行はどれもたやすくはありません。孝養父母を往生の道として選び取ろうとすれば、不孝のものは生まれることができません。読誦大乗を往生の道として採用しようとすれば、文句を知らないものは可能性がなくなります。布施・持戒を往生の因と定めようとすれば、慳貪・破戒の人々は漏れてしまいます。忍辱精進を往生の業としようとすれば、瞋恚・懈怠の人々は捨てられることになるでしょう。その他の一切の行もまた皆この通りです。
 このようなわけで、一切の善悪の凡夫がひとしく生まれることができ、皆ともに往生を願わせるために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえることを往生極楽の特別の業因としようと、五劫の間深くこのことを思惟しおわって、まず第十七に諸仏にわが名字を称揚されるようにという願を起こされました。この願は深くそのこころを汲まなければなりません。
 名号をもってあまねく衆生を導こうとお思いになるからこそ、まずはその名号がほめたたえられるようにと誓われたのです。そうでなければ、仏のお心においては名誉を願われるはずがありません。諸仏にほめられて何の意味がありましょうか。
 「如来の尊号は甚だ分明なり 十方世界に普く流行す但だ称名する有りて皆往くことを得 観音勢至自ら来迎したもう」と法照禅師の『五会法事讃』にいうのはこの趣旨でありましょうか。

〔参考〕

  • 本願  ― 本(昔からの)弘(背くものまで漏らすことのない)誓(果たし遂げるまで止むことのない)願(捨ててはおけぬと引き受けてくださるまごころ)
  • 順ずる ―  随順・信順
  • 正定  ― 因果一貫の義 柿の種(柿の実の中にできた、柿の実がなる種)のごとく、往く道はそのまま来る道であるように外れようがないこと。
  • 他力  ― 如来の利他の作用 (如来からこの私へのはたらき)
       ─┬ 本願力(体) 衆生を捨てておけぬ如来の真実心の力を本体とす
        ├ 摂取不捨(相) 真実に背を向けるからこそ、如来の方から追いか
        │         けてつかまえるのがそのありよう
        └ 無義為義(用) わがはからいなど無用であったとはからいを捨て
                  ることこそよき計らいと知らせるはたらき
  • 比丘  ― 男性の出家修行者
  • 仏 ―  仏陀(ブッダ)の略語、覚者と訳す。自ら目覚め他を目覚めさせる者
  • 菩提心 ―  菩提(覚り)を求める心。上菩提を求め、下衆生を化すことを志す。
  • 清浄 ―  他に汚されることがなく、汚れたものをも浄化する力を具えること。
  • 利益  ― 苦を抜き楽を与えること、疑いを除き信を得させること。究極的には迷いを転じて悟りを得させること、即ち生死を離れ仏道を成ぜしむ事。『無量寿経』には「生死勤苦の本を抜く」とある。
  • 荘厳 ―  築きあげること、うるわしく仕上げること、飾りつけること。
  • 人天  ― 人間と天人(神々)
  • 三悪道 ―  地獄(火途)・餓鬼(刀途)・畜生(血途) 貪・瞋・痴の所感。
  • 柳の枝に桜の花 、二見の浦に清見が関を並べる ―  長所美点のみを取り合わせて、世に超えすぐれたものを成就する譬え。
  • 読誦大乗  ― 大乗仏教経典を声に出して朗読すること。 仏陀説法の再現
  • 布施  ― あまねく施すこと。自分が誰に何を施したという執着を離れて
  • 持戒  ― 五戒・八戒・十善戒等をたもって破らないこと。
  • 忍辱 ― はずかしめをしのぶこと。何事も受け入れて耐え忍ぶこと。
  • 精進 ―  努め励んで止むことがないこと。 以上六波羅蜜の行の前四行。
  • 別因 ―  往生のための特別の業因
  • 五劫  ― 劫は、梵語カルパの音写、甚だ永い時間。
  • 思惟  ― 心を静めて深く考えること。
  • 第十七願 = 諸仏称揚の願、諸仏称名の願、名号成就の願。
    「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」
  • 咨嗟  ― 讃嘆の意

    ※釈尊が今、浄土三部経を説いて阿弥陀如来の本願名号を説きたもうのも、そのままが、久遠のいにしえ以来の阿弥陀如来の第十七願のなせるわざであり、釈尊のことばはそのまま、阿弥陀如来の本願の呼び声であるとの意を示す。

『唯信鈔文意』

 如来の尊号は甚だ分明なり 十方世界に普く流行す
 但だ称名する有りて皆往くことを得  観音勢至自ら来迎したもう 『五会法事讃』

 「如来尊号甚分明」の「如来」というのは無碍光如来のことです。「尊号」というのは南無阿弥陀仏です。「尊」は尊く優れているということです。「号」は成仏の後(果位)の御名をいいます。これに対して「名」というときは未だ成仏していない時の(因位の)御名をいうのです。
 この如来の尊号は、称えようも説きようもなく、思いは量りようもない真実の現れであって、あらゆる衆生を無上の大涅槃に至らせて下さる大慈大悲の誓いの御名であります。この仏の御名は、他の一切諸仏の名号より優れていらっしゃいます。他に越え優れた誓願から出たものであるからであります。
 「甚分明」の「甚」というのは、はなはだ優れているという意味です。「分」は分けるということ。さまざまな衆生を(十把ひとからげにせずに)一人ひとりごとに特別にあつかうという意味です。「明」は明らかであるということ。十方一切の衆生をことごとくたすけ導いて下さるありさまは、明らかに特別に優れていらっしゃるということであります。
 「十方世界普流行」の「普」というのは、あまねく、ひろく、きわなしということです。「流行」というのは十方の微塵の如く数知れぬ世界にあまねく広まって、勧め行わせて下さっていることです。
 何故かといえば、大乗・小乗の聖人(菩薩や阿羅漢など)も善凡夫・悪凡夫もみな共に、自力の智慧をもっては大涅槃に至ることができないので、無碍光仏の御はたらきは智慧の光でいらっしゃるからということで、この仏の智願海(海の如く広大な智慧の誓願)に入るよう勧めて下さるのです。一切諸仏の智慧を集めた御はたらきです。光明とは智慧のことであると思えばよいのであります。

 「但有称名皆得往」の「但有」というのはひとえに御名を称える人のみ、みな往生するとおっしゃるのです。その故に「称名皆得往」といってあるのです。

 「観音勢至自来迎」というのは、南無阿弥陀仏は智慧の名号でありますから、この不可思議光仏の御名を信受して憶念すれば、観音・勢至はかならず影の形に添うようにして下さるのです。

 この無碍光仏は観音と現れ、勢至とすがたを示して下さるのです。ある経には「観音を宝応声菩薩と名づけて日天子と示す。これは無明の黒闇を払って下さる。勢至を宝吉祥菩薩と名づけて月天子と現れる。生死の長夜をを照らして智慧を開かせて下さる」といってあります。
 「自来迎」の「自」はみずからということです。弥陀の無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆がみずから常に時を嫌わず、処を隔てず、真実信心を得た人に寄り添って護って下さるから自らといってあるのです。また「自」はおのずからということでもあります。おのずからというのは自然ということです。自然というのはしからしむ(そうさせる)ということです。しからしむというのは、(信心の)行者がことさらにあ
れこれと意図しないのに、過去(世)・今生未来(世)の一切の罪を転ずるのです。転ずるというのは善に変換することをいうのです。求めもしないのに一切の功徳善根を、仏の誓いを信ずる人に得させるから、しからしむというのです。ことさら意図しないので、自然というのです。
 誓願真実の信心を得た人は、摂取不捨の御誓いにおさめとって護って下さるのですから、行者の意志ではありません。金剛の信心を得る故に憶念も自然のことなのです。この信心の起こることも、釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便(お手回し)によって起こるのです。これは自然の利益であると思いなさいとおっしゃるのです。
 「来迎」の「来」は浄土へ来させる(来生)ということです。これはそのまま若不生者(往生させられなければ仏にはならぬとの第十八願)の誓いを表すお言葉です。穢土を捨てて真実報土に来させるとおっしゃるのです。すなわち他力を表すお言葉です。また「来」は帰る(帰去来)という意味を含んでいます。帰るとはどういうことかといえば、海の如き願(願海)に入ったからには必ず大涅槃に至るを法性のみやこ(楽)へ帰るということ
です。法性のみやこというのは、法身という如来のさとりを自然にひらくことを、みやこへ帰ると表現するのです。これを真如実相を証すともいうのです。
 (このさとりを開くということを)無為法身ともいいます。滅度に至るともいいます。法性の常楽を証すともいうのですこのさとりを得ればただちに大慈大悲が極まって生死の海に帰り入ってあらゆる衆生をたすけるを普賢の徳に帰すともいうのです。この利益におもむくことを「来」(還来)といいます。これを法性のみやこにかえるというのです。
 「迎」というのは迎えて下さるということ、また待つという意味です。選択不思議の本願・無上智慧の尊号を聞いて、一念も疑うこころのないのを真実信心というのです。金剛心とも名づけます。この信楽を得るとき必ず摂取して捨てたもうことがないので、ただちに正定聚の位に定まるのです。このように信心が破れず、傾かず、乱れぬことは金剛のようであるので、金剛の信心というわけなのです。これを「迎」というのです。
 『大経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とおっしゃってあります。「願生彼国」は、彼の国に生まれたいと願え(生まれさせて頂けるとよろこべ)ということです。「即得往生」は信心を得ればすなわち往生するということです。すなわち往生するというのは不退転に住することをいいます。不退転に住するということは、そのまま正定聚の位に定まるとおっしゃるお言葉です。これを「即得往生」といってあるのです。「即」はすなわちということです。すなわちということは時を経ず日を隔てぬことをいうのです。
 そもそも、十方世界にあまねく広まることは、法蔵菩薩の四十八大願の中の第十七の願に、「十方無量の諸仏に我が名をほめられん、となえられん」とお誓いになった一乗大智海の誓願を成就して下さったからであります。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまをみても明らかです。証誠護念のご趣旨は『大経』にも現れています。また称名の本願が余行を捨ててこれ一つで救おうとの選択の根本であることはこの悲願に現れています。この文句の趣旨については私の思いの全部は申しません。以上述べたところによって推し量って下さい。
 この引用文は後善導法照禅師という聖人の御解釈です。この和尚を法道和尚と慈覚大師はおっしゃいました。また『伝』(高僧伝)には廬山の弥陀和尚とも呼んであります。浄業和尚とも呼びます。唐の時代の光明寺の善導和尚の化身であります。この故に後善導と呼ぶのです。

〔参考〕

  ・微塵世界 ―  大地を粉微塵に砕いた程の無数の世界
  ・無碍光仏  ― 衆生の悪業煩悩をさまたげとせずにとどく光=阿弥陀如来の徳号。
  ・化仏化菩薩 ―  阿弥陀仏のはたらき により臨時に衆生の前に仏・菩薩の姿を示
              したもの。
  ・功徳善根 ―  善行のこと。覚りと安楽のの根本であり、それを生む功能あり、
             そのままが徳であるから。
  ・利益 ―  仏法によって与えられるもの。智慧と慈悲、安らぎと喜び。
  ・来生  ― こちらからいえば往生、浄土からみれば来生。
  ・帰去来  ― 安住の地へ帰ること。
  ・還来 ―  浄土へ行って生まれ変わった上で、人々を救うために迷いの娑婆世界
          に立ち戻ること。
  ・法性  ― 万物にみちわたる不変不滅なる法。
  ・法身  ― 不滅の法をもって身とすること。法性も法身も単に「法」というに同じ。
  ・真如実相 ―  普遍にして不滅なる真実こそがあらゆるものの本質的様相である
             こと。
  ・無為  ― 迷いなく計らいなきこと。
  ・滅度  ― 涅槃(ニッバーナ)の訳語。煩悩の苦(因)を滅し、生死の苦海(果)
          を渡ること。
  ・普賢の徳  ― 普賢菩薩の具えている徳。普く人々を善に導くこと。阿弥陀如来
             の究極の仏智に裏付けられた菩薩の慈悲。還相の菩薩の具える徳。
  ・選択不思議  ― そむくものまでも救うために、余の一切を無効と選び捨て、こ
              れよりほかはないと称名念仏をもって救うことを誓われた本願
              は、我々の想像を越え離れたものであること。
  ・一念 …  一瞬の思い。思い初める最初。
  ・金剛 ―  破壊不可能なこと。ダイヤモンドの異名。
  ・正定聚  ― 覚りに至ることが確定した菩薩の仲間。
  ・不退転 ―  覚りに至ること確実で、決して退歩しないこと。
  ・証誠護念  ― 六方の諸仏が念仏の救いの法の真実なることを証言し、説き勧め
             て、行者を護り育てられること。『阿弥陀経』の説くところ。

― 本文 ―

 さて次に、第十八に念仏往生の願を起こして、十念(十声の称名)の者をも導き救おうと仰せられました。まことによくよくこのことの意味あいを考えてみますと、この願は甚だひろく深い内容を秘めているといわねばなりません。
 (阿弥陀の)名号はわずかに三字ですから、周利盤特のごとき愚か者でもおぼえやすく、これを称えることは、歩いていても、止まっていても、座っていても、臥していても、何時でも何処でもどんな場合にもさしつかえなく、在家で有ろうと出家であろうと、男であろうと女であろうと、老いも若きも、善人も悪人もわけへだてはありません。何人がこれに漏れるでありましょうか。
 「彼の仏の因中に弘誓を立てたまへり 名を聞きて我を念ぜば総て迎え来たらしめん貧窮と富貴とを簡ばず 下智と高才とを簡ばず多聞と浄戒を持てるを簡ばず 破戒と罪根深きとを簡ばずただ回心して多く念仏せしむれば よく瓦礫をして変じて金と成さしむ」と『五会法事讃』にいうのはこの趣旨でありましょうか。これを念仏往生とするであります。

『唯信鈔文意』

 「彼仏因中立弘誓」、この意味は、「彼」はかのということ。「仏」は阿弥陀仏です。
「因中」は法蔵菩薩と呼ばれた時のことです。「立弘誓」は「立」は立てるということ、なるということ。「弘」はひろいということ、ひろまるということ「誓」はちかいということです。法蔵比丘が世に超えすぐれこの上のない誓いを起こして、広くひろめたもうというのです。世に超えすぐれているというのは、余の仏の御誓いに超えすぐれていらっしゃるということです。超はこえすぐれていることであり、この上なしということです。如来が弘誓を起こされたありさまは、この『唯信鈔』にくわしくあらわされています。
 「聞名念我」というのは、「聞」は聞くということ、信心をあらわすお言葉です。「名」は御名ということ、如来の誓いの名号です。「念我」というのは、誓いの御名を憶念せよということです。諸仏称名の悲願(第十七願)にあらわしてあります。憶念とは、信心を得た人は疑いがない故に本願をつねに思い出すこころの絶えないことをいうのです。
 「総迎来」というのは、「総」はふさねてということ、総て皆という意味です。「迎」は迎えるということ、待つということ、他力をあらわす意味があります。「来」は帰るということ、来させるということ法性のみやこへ迎え率いて来させ、帰らせるということです。法性のみやこから衆生利益のためにこの娑婆世界に来る故に、「来」を来るというのです。法性のさとりを開く故に、「来」を帰るというのです。
 「不簡貧窮将富貴」というのは、「不簡」はえらばず、きらわずということです。「貧窮」は貧しく、困っているもののことです。「将」はまさにということ、もってということ、つれてゆくということです。「富貴」は富めるひと、よきひとということです。これらをまさにもってえらばず、きらわず、浄土へつれていくと仰るのです。
 「不簡下智与高才」というのは、「下智」は智慧浅く、狭く、少ないものと仰るのです。「高才」は才学広いもの、これらをえらばず、きらわずと仰るのです。
 「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」は聖教を広く多く聞き信ずることです。「持」はたもつということ、たもつというのは、ならい学ぶこころを失わず、散らさぬことです。「浄戒」は大乗小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて出家在家の戒品、これらをたもつことを「持」というのです。このようなさまざま
の戒をたもっているすぐれた人々も、他力真実の信心を得てのちにこそ真実報土に往生を遂げるのです。自らの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善によっては真実報土には生まれないとの仰せです。
 「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」は上に述べたあらゆる出家在家の戒を受けながら破り捨てたもの、これらをきらわないということです。「罪根深」というのは、十悪五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おおよそ善根少ないもの、悪業多いもの、善心浅いもの、悪心深いもの、このような浅ましくさまざまの罪深いひとを「深」というのです。深いということばです。すべてよき人、あしき人、尊き人、卑しき人を、無碍光仏の御誓いには
きらわずえらばず導いて下さることを第一にし本旨とするのであります。真実信心を得れば真実報土に生まれると教えてくださることを、浄土真宗の正意とするのであると知りなさいとおっしゃるのです。「総迎来」は、すべて皆浄土へ迎え率いて、帰らせるというのです。
 「但使回心多念仏」というのは、「但使回心」はひとえに回心なさいませという言葉です。「回心」というのは自力の心をひるがえし捨てることをいうのです。真実報土に生まれる人は必ず金剛の信心の起こるのを「多念仏」というのです。「多」は大の意であり、勝の意であり、増上の意です。大は大きいこと、勝はすぐれていること、あらゆる善にまさっているということです。増上はあらゆることよりすぐれているということです。これはまったく他力本願無上の故です。自力のこころを捨てるというのは、いろいろさまざまな大乗小乗の聖人も善凡夫悪凡夫も、自らの身をよしと思うこころを捨てて、自分は間違いないなどと思わず、あしきこころを卑下せず、ひとすじに具縛の凡愚・屠沽の下類も、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽するから、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるのである(と信ずることである)。具縛とはあらゆる煩悩に縛られているわたしたちのことです。煩は身をわずらわす、悩は心をなやますということです。屠はあらゆる生き物を殺し、ほふるものです。これは猟(漁)師というものです。沽はあらゆるものを売り買うものです。これは商人です。これらを下類というのです。
 「能令瓦礫変成金」というのは、「能」はよくということ、「令」はせしむということ、「瓦」はかわらということ、「「礫」はつぶてということです。「変成金」とは、「変成」は変えなすということ、「金」はこがねということです。かわら、つぶてを黄金に作り変えておしまいになるようなものだと譬えていらっしゃるのです。猟師・商人ほかさまざまなものとは皆、石・瓦・礫のようなわたしたちのことです。如来の御誓いをふたごころな
く信楽すれば、摂取の光の中におさめとって頂いて、必ず大涅槃のさとりを開かせて下さることは、猟師・商人などが、石・瓦・礫のように、よく黄金とならせて下さるようなものだと譬えていらっしゃるのです。摂取の光というのは、阿弥陀仏の御こころの中におさめとって下さるからこのようにいうのです。
 この引用文の意味は思う程には言い表しませんが、あらあらを申し上げるのです。深いことはこれで推し量って下さい。この文は慈愍三蔵という聖人のご解釈です。中国では恵日三蔵といいます。

〔参考〕

  • 五戒 ―  不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒
  • 八戒 ―  八斎戒のこと、五戒に不香油塗身戒・不歌舞観聴戒・不高広大床戒。不非時食戒(斎)を加える。在家信者が、一日だけ出家修行者とともに修行生活をする際の戒。
  • 十善戒  ― 五戒に不悪口・不綺語・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不愚痴を加える。
  • 具足戒  ― 出家修行者の守るべき戒律。『四分律』では、比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒をさだめている。
  • 三千の威儀 ―  二百五十戒×行住坐臥の四威儀×過去未来現在の三世。
  • 六万の斎行  ― 六度万行の別称か。
  • 梵網の五十八戒  ― 『梵網経』に説く十重禁戒と四十八軽戒。十禁戒は十善戒。
  • 大乗一心金剛法戒 ―  前項の戒がその体は一心真如であり金剛の如く不破とす。
  • 三聚浄戒  ― 摂律儀戒(止悪)・摂善法戒(作善)・摂衆生戒(利益衆生)
  • 道俗 ―  出家と在家。
  • 報土  ― 誓願の果報として出来上がった国土。願土ともいう。浄土のこと。
  • 謗法 ―  誹謗正法の略。仏法にまことなし、道を得たる人なしと言うこと。
  • 闡提  ― 断善根と訳す。仏法に遇いながら、捨て去って可能性を失った人。
  • 回心 ―  回向と対応する語。自力のこころをひるがえし、投げ捨てること。
  • 具足  ― 欠け目なくすべての(煩悩)を具えること。
  • 大涅槃  ― 完全なる煩悩の消滅。さとり、安楽を意味する。
  • 信楽 ―  信じ喜ぶこと。楽は、愛楽と熟語して、よろこびたのしむこと。

(5) ― 本文 ―

 竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』(易行品)の中に「覚りへの道を行くのに、難行道と易行道がある。難行道というのは、陸路を徒歩で行くようなものである。易行道というのは、海路で順風を得たようなものである。また、難行道というのは、五濁の世にいて、覚りに向かって不退転の菩薩の位に相当するようにしようという発想である。これに対して、易行道というのは、ただ仏を信ずるという因縁(原動力)によって浄土に往生するのである」
といってあります。
 難行道というのは聖道門です。易行道というのは浄土門です。わたくしに言わせれば、浄土門に入りながち諸行往生の道に励む人は、海路で船に乗りながら順風を得ず、櫓をこぎ力を入れて潮路を逆上り、波間を分け進むのにたとえることができるのではないでしょうか。

(6) ― 本文 ―

 次に、念仏往生の門についていえば、専修と雑修の二行に分かれます。専修というのは、極楽を願う心を起こし、本願をたのむ(わがためと受け取る)心を起こした上で、ただ念仏の一行を励んでまったく余行をまじえないのです。他の経や呪文(陀羅尼)もならいおぼえず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号を称え、ひとえに弥陀一仏を念ずる、これを専修と名づけるのです。
 雑修というのは、念仏を中心にするというものの、また余の行をも併せおこない、他の善をも兼ねて行ずるのです。
 この二つの中では、専修の方が優れています。そのわけは、すでにひとえに極楽を願うからには、彼の土の教主阿弥陀如来を念ずるほかに、何故に他事をまじえるのでしょうか。いなずまや朝露のごとく消えやすいものがいのちであり、芭蕉の葉のうえの水泡のようにはかないものがこの身であるのに、わずかに一生だけの努力によって、たちまちに(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の)迷いの世界である五趣の古巣を離れようというのです。どうして、たるんだ気持ちで諸行を兼ね行ぜられましょうか。
 諸仏菩薩の後継者となる結縁は、浄土往生しての随心供仏のあしたを期すればよいのであり、大乗小乗の経典の教義に通達することは、往生の後、百法明門の智慧を得る夕べを待てばよいのです。弥陀の浄土ひとつを願い、弥陀一仏を念ずる他は、なにものも役に立つはずがないということです。
 念仏の門に入りながら、まだ余の行を兼ねる人は、その意識を探ってみれば、おのおのがもともと習いおぼえてきた修行法に執着して捨てがたく思っているのです。あるいは天台宗の一乗教を保持し、あるいは真言宗の三密の行を修ずる人は、おのおのその行をふりむけて浄土を願おう思う心を改めずに、念仏に並べてこれを励んでも何の咎があろうかと思うのです ただちに本願に順ずる易行の念仏をつとめずして、まだ本願において選び捨てられた諸行を並べ修することは道理のないことです。
 このようなわけですので、善導和尚は『往生礼讃』の中で仰せられました「専修念仏の道を捨てて雑行雑修におもむくものは、千人中に一人も生まれず、専修のものであれば、百人中百人ながら生まれ、千人中千人ながら生まれる」というのです。
 また、「極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善恐らくは生じ難し。故に如来要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにして専らならしめたまへり」『法事讃・下』といってあります。随縁の雑善ときらうのは、もともとの修行法にとらわれるという意味からです。たとえば、宮仕えをする場合に、主君に近づき、その命を受けて心服し、ひとすじに忠節を尽くすべきであるのに、本当の主君に親しみながら、かねてまた疎く遠い人に志を尽くしておいて、その人が自分の主君に会ったときには良いように言ってくれることを期待するようなものです。直接に忠節をもって仕えるのとの優劣ははっきりわかっているはずです。二心あるのと一心であるのと天地ほどもはるかにことなっているというべきでしょう。

『唯信鈔文意』

 「極楽無為涅槃界」というのは、「極楽」と申しますのはかの安楽浄土であって、さまざまな楽しみが常にあり、苦しみの混じることがないのです。かの国を安養といいます。曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」と仰せられたことです。また(天親菩薩の)『浄土論』には「蓮華蔵世界」ともいってあります。「無為」ともいってあります。
 「涅槃界」というのは、無明の惑いをひるがえして、無上涅槃の覚りを開くのです。「界」はさかいということ、覚りを開くさかいです。大涅槃と申しますものの別名は数えきれませんので、くわしくは申し上げようがありません。ざっとその名を挙げることにします。「涅槃」を滅度といいます。無為といいます。安楽といいます。常楽といいます。実相といいます。法身といいます。法性といいます。真如といいます。一如といいます。仏性といいます。仏性はそのまま如来です。この如来は、微塵のごとく数知れぬあらゆる世界にみちみちていらっしゃるのです。すなわちいのちある一切のものの心のことです。この心で(阿弥陀如来)の誓願を信楽するのですから、この信心はそのまま仏性です。仏性はそのまま法性、法性はそのまま法身です。法身は色もなく形もおありになりません。ですから、こころで及ぶことも、ことばで表すことも不可能です。この一如のなかから形を現して、方便法身と呼ばれる御すがたを示現して、法蔵比丘とお名のりになって、不可思議の大誓願をおこして現れたもう御形を、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」とお名づけ申し上げられたのです。この如来を報身と申します。誓願という業因に報いられたのですから報身如来と申すのです。報というのは因に報いたということです。この報身より応 (身) ・化(身)等の無量無数の身を現して、微塵のごとく数知れぬあらゆる世界に無碍の光明を放っていらっしゃるのですから、尽十方無碍光仏と申す光であって、形もおありでなく、色もおありになりません。無明の闇をはらい、(衆生の)悪業にさまたげられることもありません。この故に無碍光仏と申すのです。無碍はさまたげられることがないということです。ですから阿弥陀仏とは光明です。光明は智慧のすがたをあらわしたものであると知ることができます。
 「随縁雑善恐難生」というのは、「隋縁」は衆生が各々の縁にしたがって、各々のこころにまかせて、諸々の善を修するのを極楽(往生の業因として)回向(転用)するのです。すなわち八万四千の法門です。これは皆自力の善根ですから、真実報土には生まれずときらわれる故に「恐難生」といってあります。「恐」はおそれるということ。真の報土には雑善・自力の善(の者)が生まれるということを恐れるのです。「難生」は生まれ難いということです。
 「故使如来選要法」というのは、釈迦如来があらゆる善の中から名号を選びとって、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに与えて下さったと知るべきであるということです。これを「選」といいます。ひろく(あらゆるものの中から)えらぶということです。「要」はもっぱらということ、もとめるということ、ちぎるということです。「法」は名号のことです。
「教念弥陀専復専」というのは、「教」は教えるということ、のりということです。釈尊の教勅です。「念」は心に思い定めて、あれこれとはたらくことがないという意です。すなわち選択本願の名号を一向専修でありなさいと教えられる御言葉です。「専復専」というのは、はじめの「専」は一行を修すべきだということです。「復」はまたということ、かさねてということです。ですから、「また専」というのは一心であれということです。
一行一心を専らにせよということです。「専」は一つという言葉です。もっぱらというのはふたごころなかれということです。あれこれと移るこころこころのないのを「専」というのです。
 この一行一心である人を「摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」と光明寺の和尚(善導)は仰せられました。この一心は横超の信心です。横はよこざまということ、超はこえてということです。あらゆる法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるが故に超というのです。これはそのまま大悲誓願の力によるものです。この信心は如来によって摂取されているわけですから金剛心(不壊の信心)となるのです。これは『大経』(仏説無量寿経の第十八願中にある至心信楽欲生)の本願の三信心です。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」であると仰せられました。この信楽は仏になろうと願うというこころです。この願作仏心はそのままが度衆生心です。この度衆生心というのは、すなわち衆生に生死の大海をわたらせるこころです。この信楽は衆生を無上涅槃にいたらせる心です。この心はすなわち大菩提心であり、大慈悲心です。この信心はすなわち仏性であり如来です。この信心を得ることを慶喜というのです。慶喜する人は諸仏と等しい人と名づけます。慶はよろこぶということです。信心を得てのちによろこぶのです。喜はこころのうちによろこぶこころ絶えずして常なるをいうのです。得べきことを得てのちに、身にもこころにもよろこぶこころです。信心を得た人を「分陀利華」(観経)と仰せられました。
 この信心の得難いことを『経』(称讃浄土経)には「極難信法」と仰せられました。そして『大経』(仏説無量寿経巻下)には「若し此の経を聞きて、信楽し受持するば 難中の難も此の難に過ぎたるはなし」と教えて下さっています。この経文の意は、「もしこの経を聞いて信ずること、有り難い中でも有り難いことでありこれに過ぎて有り難いことはない」と仰せられる御言葉です。
 釈迦牟尼如来は五濁悪世に出てこの難信の法を行じて無上涅槃に至るとお説きになります。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生に与えると仰せられるのです。十方諸仏の証誠も、恒沙如来の護念も、ひとえに真実信心のひとのためです。釈迦は慈父、弥陀は悲母です。わたくしたちのちち・はは、種々の方便によって無上の信心を開き起こして下さったのだと知るべきであるということです。おおよそ、過去久遠の間に三恒河沙の(数知れぬ)諸仏の世にお出ましになったみもとで、自力の菩提心を起こしたのです。恒沙の善根を修したからこそ、今願力に遇わせて頂くことができたのです。他力の三信心を得人は、決して余の(念仏以外の)善根をそしり、余の(弥陀・釈迦以外の)仏・菩薩をさげすむことがあってはならないということです。

〔参考〕

  • 極楽 ―  「もろもろの苦あることなく、ただ楽のみ受くるがゆえに極楽という」
  • 無為 ―  有為に対する語。因縁によってつくられたものでない不滅の真実。
  • 涅槃界 ― ニルバーナの音訳。滅度・寂滅と漢訳する。
  • 安楽  ― 「極楽」と同じくスカーバテイーの漢訳。
  • 浄土  ― 穢土に対する語。菩薩の清浄の行によって建立された国土。
  • 蓮華蔵世界  ― 蓮華(清らかな覚りの象徴)から出生した浄土。
  • 無明  ― 本当の智慧がなく、暗闇の中に迷うがごとき状態
  • 滅度  ― 涅槃の漢訳。煩悩を滅し、生死の流れを度脱すること。
  • 常楽  ― 永劫に変わることのない安楽。
  • 実相  … 一切のものの如実の真相。
  • 法身  ― 真如そのものを仏身とする。
  • 法性  ― 法の法たる本性。真如の異名。
  • 真如  ― 衆生の虚妄分別を超えた存在の如実相。
  • 一如  ― 真如の異名。真如は絶対不二なるがゆえに一如ともいう。
  • 仏性  ― 仏の本性、覚りの本質。
  • 如来  ― 真如より現れ来たりし者。
  • 法性法身 ― 形色を離れ、分別の対象を超えた真如そのものを本体とする仏身。
  • 方便法身 ― 方便はアプローチの意。仏が善巧方便(真実に引き入れる)ために示現した仏身。
  • 示現  ― 名を示し、形を現すこと。衆生の認識の対象となること。
  • 尽十方無碍光 ― 十方世界の衆生ことごとくを悪業煩悩にもさまたげなく照らすこと。
  • 報身  ― 菩薩のときの願と行を因に応じ、果報として成就した浄土の仏身。阿弥陀如来はその代表。
  • 応身  ― 衆生済度の誓願の故に、衆生の機根に応じて、穢土に出現した仏身。釈迦如来がその例。
  • 化身. ― 衆生を導くために、相手に応じて種々の姿を現した仏身。応化身ともいい、応身と同義にも用いる。
  • 横超  ― 横は他力による救いを表し、超は即時に不退転の位に就くことをさしていう。
  • 金剛心 ― 金剛はなにものにも破壊されないこと。信心の智慧はその本体は弥陀の仏智であるから金剛心という。
  • 願作仏心 ― 自ら仏になろうと願う心。
  • 度衆生心 … 一切衆生を済度(救う)しようと願う心。
  • 生死の大海 ― 生死無常・生死の苦・生死輪廻の空しさの止めどなく果てしないことを海にたとえたもの。
  • 分陀利華  ― プンダリーカの音訳。白蓮華と漢訳する。念仏者をたとえる称賛の語。妙好華ともいい。妙好人という念仏者賞賛の語もある。
  • 五濁悪世  ― 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁に満ち、虚仮不実なる世。
  • 智慧の名号  ― 名号は阿弥陀如来の無上の智慧の結晶であり、衆生に信心の智慧をもたらす故に、かくいう。
  • 証誠  ― 諸仏が誠実の言説をもって弥陀の願力の信ずべきことを証明し、信ぜよと勧めたもうこと。
  • 護念  ― 弥陀の名号を聞くひとを、諸仏がつねに護り念じて、浄土の覚りを得させるようにして下さること。
  • 菩提心 ― ボーデイすなわちさとりを求める心。願作仏心・度衆生心のこと。弥陀より回向される心。
  • 善根  ― 善本・徳本とも訳す。諸善を生ずる根本。功徳のたね。無貪・無瞋・無痴を三善根という。
  • 他力の三信心 ― 第十八願中に示された至心・信楽・欲生の三信。

(7) ― 本文 ―

 これについて人が疑うには「たとえば、人がいて、毎日の行として一万遍の念仏を称えて、そのほかは終日遊び暮らし、一晩中眠りにふけっているのと、また同じく一万遍の念仏を申して、その後でさまざまの経を読んだり、阿弥陀仏以外の余の仏をを念じたりするのと、どちらがすぐれているでしょうか。『法華経』に「(この経を読むものは)即ち安楽(世界)に往生する」という文句があります。これを読むことが遊び戯れと同じ(つまらぬ)ことでありましょうか。『薬師瑠璃光如来本願功徳経』には、八菩薩の引導が説かれています。これを念ずることは、むなしく眠っているのと似ているはずがありません。前者を専修と褒め、後者を雑修と嫌うというのは、どうしても納得がゆきません」と。
 今一度これを考えてみますに、それでもやはり専修の方がすぐれているといわねばなりません。何故かと申しますと、(私たちは)もとより濁世の凡夫であって、何事につけても障り多いのです。阿弥陀如来はこれを鑑みて易行の道を教えて下さったのです。終日遊び戯れるのは、心を乱す煩悩の強い者です。一晩中眠りにふけるのは意識を鈍重にする煩悩の強い者です。これはみな煩悩のなせるわざであって、断ち切りがたく克服しがたいところです。遊びが已んだならば念仏を称え、眠りが已んだならば本願を思い出すに違いありません。専修の行に背いてはいないのです。
 (一方)一万遍を称えて、その後で他の経や他の仏を読んだり念じたりするのは、ちょっと聞いたところはよくできた話のようですが、念仏は一万遍にかぎれと誰が決めたのでしょうか。精進の者だというなら終日(念仏を)称えるべきです。念珠を手に取ったなら、ほかならぬ弥陀の名号を称えるべきです。本尊として拝もうとするなら、他ではなく阿弥陀如来の形象に向かうべきです。直接に阿弥陀如来の来迎を待つべきです。何の故に八菩
薩の道案内など待つのですか。もっぱら弥陀の本願のお導きをたよりにするべきです。煩わしく『法華経』の効能などあてにすべきではありません。
 行者の器量能力に上・中・下があります。上根の者は、夜もすがら・日暮らしに絶えず念仏を申せばよいのです。どこに余仏を念ずる暇などありましょう。深くこの点を思慮すべきです。みだりがわしく疑ってはなりません。

(8) ― 本文 ―

 次に念仏を申そうとするなら、三心を具えねばなりません。ただ名号を称えるだけなら、誰が一念(一声)・十念(十声)の功をそなえないでしょうか。しかしながら、往生する者は極めて稀です。これは三心を具えていないからにほかなりません。
 『観無量寿経』に「三心を具えれば必ず彼の国に生まれる」といってあります。善導の解釈(『往生礼讃』)には、「この三心を具えれば必ず往生することを得る。もし一心もかけたならば生まれることはできない」といってあります。三心の中の一心でもかけていたならば生まれることはできないというのです。世の中に弥陀の名号を称える人は多いけれども、往生する人がなかなかいないのは、この三心を具えていないからであると心得なければなりません。

(9) ― 本文 ―

 その三心というのは、一つには至誠心、これは真実の心のことです。大体、仏道に入るには、まずまことの心をおこさねばなりません。その心がまことでなければ、覚りへの道は進めません。阿弥陀仏が、むかし菩薩の菩薩の行を立て、浄土を設けられた時も、ひとえにまことの心をおこされたのです。こういうわけですから、かの国に生まれようと思う者も、またまことの心をおこさなければならないのです。
 その真実心というのは、不真実の心を捨てて真実の心をあらわせということです。本当に深く浄土を願う心はないのに、人に対しては深く願っているように言い、内心では深く今生の名誉や利得に執着しながら、外相には現世を厭っているようなふりをし、外側は善心あり、尊い心根ありげな様子を現して、内側には不善の心もあり、ふしだらな心もあるのである。これを虚仮の心と名づけて、真実心と違う相とするのです。これをひるがえし
てこそ真実心とは何かを心得ることができるのです。
 この意味を間違って心得た人は、あらゆる点でありのままでなければ虚仮になるであろうというわけで、自分にとって憚られるような恥ずかしいことまでも人前に暴露してかえって放逸無慚のとがを招くことになります。
 今、真実心というのは、浄土を求め穢土を厭い、仏の願を信ずる点で真実の心でありなさいということです。必ずしも恥をあらわにし、とがを示せということではありません。
事により、折りにしたがって深く斟酌すべきです。善導の『観無量寿経』の注釈書『観経疏』には「外に賢善精進の相を現して、内に虚仮を懐くことがあってはならない」といってあります。

〔参考〕

  • 引導  ― 迷いの衆生を覚りへの道に導きいれること
  • 精進  ― 仏道に向かって努力を重ねること。熱意を持って精励すること。
  • 上根  ― 仏道に向かう器根がすぐれているもの。
  • 一念  ― 「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」『仏説無量寿経下巻末』
  • 十念  ―「たとひ我仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて乃至十念せん。もし生ぜずは正覚を取らじ」『仏説無量寿経』
  • 三心  ― 「一者至誠心 二者深心 三者回向発願心 具三心者必生彼国」『観経』
  • 虚仮  ― そらごと・たわごと 不真実
  • 斟酌  ― よくよく意味するところをくみ取ること

(10) ― 本文 ―

 二つに深心というのは、信心のことです。まず信心のありさまを知るのがよいでしょう。信心というのは、深く人の言葉を受け取って疑わないのです。たとえば、自分に対して少しも腹黒いところがなく、深く受け入れている人が、まのあたりよくよく見たことを教えて、「そこには山があり、向こうには川がある」と言うのを深く受け入れて、その言葉を信じた後に、別人が「それは間違いだ。山も川もない」と言っても、決して嘘をつくはずのない人の言ったことなので、後で百人・千人が言っても取り上げず、もと聞いたことを深くこころに刻む、これを信心というのです。
 今、釈迦の所説を信じ、弥陀の誓願を信じてふたごころのないこともまたこのようであるべきです。
 さて、この信心について二つの内容があります。一つには、わが身は罪悪生死の凡夫であり、曠劫の昔よりこのかた、つねに迷いの底に沈み、つねに苦しみの境涯を流転して、脱出する道がどこにもないと信ずる。二つには、阿弥陀仏の四十八願がそのような衆生を摂め取って下さることは間違いないと、疑わなければ、弥陀の願力に乗じて、往生を得ることは確定である信ずるのです。
 世の人々は大抵言います。「仏の願を信じないわけではないが、わが身の程(のおろそかなこと)を考えれば、罪障の積ることは多く、善心の起こることは少ない。心はつねに散乱して一心を得ることは困難である。この身はどこまでも楽な方へばかり走って、向上努力のこころもありません。仏の願は深いといっても、どうしてこんなものを迎えとって下さいましょう」と。
 このような思いは、まことに賢いようにみえます。おごりもたかぶりもありません。しかしながら、人間の思いはからいをこえた仏の力を疑うというとががあります。仏の力がどれだけのものだと見切って、罪悪の身であるから救われ難いなどと思うことが妥当なのでしょうか。
 五逆の罪人すら、十念の念仏ゆえにあやまたず刹那の間に往生を遂げる。況んや、罪は深くとも五逆には至らず、功は少なくも十念には過ぎるものであってみればなおさらです。
罪深ければいよいよ極楽を願うのが本当です。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といってあったではありませんか。積んだ善が少なければますます弥陀を念ず(名号を称える)べきです。「三念五念仏来迎」(法事讃下)と述べてあります。むなしく身を卑下し、気弱になって、仏智不思議を疑ってはなりません。
 たとえば、ひとりの人が、高い崖の下にいて岸にのぼることができないでいるとき、力の強い人が岸の上にいて綱をおろして、この綱につかまらせて、「わたしが岸の上に引きあげよう」と言った場合に、引く人の力を疑い、綱が弱いことを危ぶんで、手を引っ込めたまま綱を握らなかったら、決して岸の上にのぼることはできません。迷いなくその言葉に従って、手をのばして綱をとってこそのぼることができます。仏力を疑い、願力を受け入れない人は、覚りの岸にのぼることは困難です。ただ信心の手をのばして誓願の綱をとればよいのです。
 仏力は無窮ですから、罪障深重の身を重しとはしません。仏智は無辺ですから散乱放逸のものをも捨てることはありません。信心を要とするのです。その他は問題にしないのです。信心が定まってしまえば、三心はおのずから具わります。本願を信ずることまことで、ある上は虚仮のこころではありません。浄土を待つこと疑いない以上は、回向の思いがあるわけです。このようなわけですから、三心はそれぞれ別々で異なっているようにはみえてもみな信心に具わっているわけなのです。

(11) ― 本文 ―

 三つには回向発願心とありますのは、その名称で意味内容が知れます。くわしく述べる必要はありません。過去から現在までの身口意の三業の善根をふりむけて極楽に生まれようと願うのです。

〔参考〕

  • 深心 ―  至誠心・深心・回向発願心の三心の中の第二。至誠心は真実心、深心は深信の心の義というのが善導『散善義』の釈。
  • 信心のありさま  ― 『二河白道の比喩』(『信巻』に引用・『愚禿鈔』に釈義)
  • 罪悪生死  ― 罪悪は因、生死は果。生死は無常・苦・空(虚仮不実)
  • 曠劫  ― 数えるのもむなしい程の劫数。
  • 十念  ― 十声
  • 刹那  ― 極めて短い時間の単位
  • 五逆 ―  殺父・殺母・殺羅漢・出仏身血・破和合僧
  • 仏智不思議  ― 仏の智慧は諸菩薩・諸天人の思い計らいをもはるかに越えている。
  • 仏力無窮、仏智無辺 ―  「願力無窮にましませば罪業深重もおもからず、仏智無辺にましませば散乱放逸もすてられず」『正像末和讃』
  • 信心を要とす。そのほかをはかへりみず  ― 「唯信」の義
  • 本願を信ずるこころまこと  ― 信心すなわち真実心、深心すなわち至誠心ということ。
  • 浄土を待つこと疑いない ―  「作得生想」(生ずることを得る想いを作す)、「決定要期」信心定まれば回向の思いあり  深心には自ずから回向発願心が具わる。
  • 心口意の三業の善根をふりむけて  ― ふりむけては回向しての意― 雑行雑修自力のこころをふりすてて

(12) ― 本文 ―

 つぎに、本願の文には、「乃至十念せん。若し生まれずは、正覚を取らじ」といってあります。いま、この十念ということについて、人が疑っていうには、「『法華経』にいう〈一念随喜〉というのは、深く非権非実の理に達することである。いま十念といってあるのも、(深い義があるはずで)なに故に十辺名号を称えることと(余りにも浅く)解釈するのか」と。この疑いを解く解釈を示せば、『観無量寿経』に下品下生の人のすがたを説いて、このように言ってあります。「五逆十悪の罪をつくり、諸々の不善を具えるもの、臨終の時に至ってはじめて善知識の勧めによって、わずかに十辺の名号を称えて、即ち浄土に生まれる」というのです。これは決して静かに観じたり深く念じたりするのではありません。ただ、口に名号を称えるのです。「汝、若し念ずることあたわざれば」と(善知識は)言うのです。これは、深く想うのではないということを表すのです。「まさに無量寿仏と称うべし」と説くのです。ただ浅く仏号を称えなさいと勧めるのです。「十念を具足して、南無無量寿仏と称せしむ。仏名を称するが故に、念念の中に於いて、八十億劫の生死の罪を除く」といってあります。十念というのは、ただ称名の十辺なのです。本願の文(にある乃至十念)もこれに沿って理解すべきです。
 善導和尚は深くこの趣旨をくみとって、本願の文意をお述べになって、「若し我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せんこと、下十声に至るまで、若し生まれずは正覚を取らじ」(往生礼讃)とお示しになりました。十声といってあるのは(念というのは)口に称えることだということをはっきり表すためです。

〔参考〕

  • 非権非実  ― 方便(権)即真実(実)という中道の理を達観すること
  • 善知識 ―  『観無量寿経』には善友ともいってある。「よきひと」も同義
  • 南無無量寿仏 ―  『観無量寿経』には「南無阿弥陀仏」とある

(13) ― 本文 ―

 一、次にまた人がいうには、「臨終の念仏は功徳が甚だ深い。わずか十念で五逆の罪を消滅するするのは、臨終の念仏の力が甚大だからである。通常の(時の)念仏にはこの力はあり得ない」というのです。
 これについてよく考えてみると、なるほど臨終の念仏は功徳が特にすぐれているに違いありません。但し何故そうなのかという意味あいをつかんでほしいものです。もし人が命終わろうとするときは、あらゆる苦しみが身に集まり、精神状態は乱れがちです。そのような時に仏を念ずることに、何ゆえにすぐれた功徳があり得るのでしょうか。思いますに、病重く、生命の危機が迫った時には、おのずから信心も起こりやすいわけです。
 現実に世の人のならいを見ていますと、自分の身が健康で安らかな時は、医師も陰陽師も信ずることはないけれども、病が重くなってくると、これを信じて「この治療法をすれば、病が癒えるであろう」と言えば、実際に癒えるように思って、口に苦い味の薬をも嘗め、身に痛い療治をも加えます。「もしこの祀りをしたならば、命は延びましょう」と言えば、金品も惜しまず、力を尽くして、これを祀りこれを祈るものです。
 これはすなわち、命を惜しむこころが深いから、命を延ばしますよと言えば、深く信ずるこころがあるわけなのです。臨終の念仏に大きな力があるということも、これになぞらえて考えればよくわかるはずです。
 命の危機が一刹那に迫って、もう生きていられるはずはないと思った時には、後生への恐れ苦しみがたちまちに現れ、あるいは地獄へ運ぶ火の車のすがたが見え、あるいは地獄の鬼獄卒のすがたが眼をよぎるのです。どうやって、この苦しみを免れ、恐れを離れればよかろうかと思っている時に、善知識の教えによって、十念の念仏による往生のことを聞くと、深重の信心たちまちに起こり、疑うこころもないものです。
 これはすなわち苦しみを厭うこころ深く、楽しみを願うこころ切なるが故に、極楽に往生できると聞くと、信心たちまちに起こるのです。命が延ばせますよというのを聞いて、医師や陰陽師を信ずるようなものです。もしこのこころでいるならば、最後の刹那に至らなくても、信心決定したならば、一称・一念の功徳も、みな臨終の念仏に等しいでありましょう。

(14) ― 本文 ―

 二、また次に世の中の人の言うには、「たとえ弥陀の願力を信じて極楽に往生しようと思っても、過去世に積み重ねた罪業の程は知れません。どうしてたやすく生まれることができましょう。業障には種々あります。順後業というのは、必ずその業を作った生のうちではなく、後後生に果報が出るのです。ですから今生に人間界の生を受けたとしても、三悪道行きの業を身に具えているかも知れません。その業の方が強くて悪趣の生をひくなら
ば、浄土に生まれることはできないのではないか」と。
 この疑義はまことにすじが通っているように見えますが、疑網断ちがたくて自分勝手な妄想を起こしているのです。
 おおよそ業は秤のようなもので、重いものがまず牽くのです。もし、わが身に具えた悪趣の業の方が力強ければ、人間界の生を受けずにまず悪道に落ちるはずです。すでに人間界の生を受けていることで知ることができるのは、たとえ悪趣の業を身に具えているとしても、その業は人間界の生を受けた五戒の業力よりは、力が弱いということです。もしそうだとしたら、五戒の力さえもさまたげ得ないのですから、まして十念の念仏の功徳はなおさらのことです。
 五戒はいまだ有漏の業であり、一方念仏は無漏の功徳です。五戒は仏の願の支えはなく、念仏は弥陀の本願の導くところです。念仏の功徳は十善にすらなおすぐれ、総じて三界の一切の善根にもまさっています。いわんや五戒の小善にはなおさらのことです。五戒さえもさまたげ得ない悪業なのですから、往生の障りとなり得るはずはありません。

(15) ― 本文 ―

 三、次にまた人が言うには、「五逆の罪人が、十念の称名によって往生するというのは、宿善によるのである。しかるにわれらは宿善を具えている可能性は少ない。どうして往生することができようか」と。
 これもまた、愚痴の闇に惑うゆえに、いたずらにこのように疑うのです。何故こういうかといえば、宿善の厚いものは(過去世と同じく)今生にも善根を修し、悪業を恐れるものです。宿善少ないものは今生に悪業を好み善根を作らぬものです。宿業の善か悪かは、今生のありさまで明らかに知れるものです。しかるに善心がないとすれば、宿善少ないことが計り知られるわけです。ところが、われらは罪業重しといえども五逆は作っておらず、善根少なしといえども深く本願を信じている。五逆のものの十念すら宿善によるのです。いわんやいのちあらんかぎりの称名念仏が宿善によるものでないはずがありましょうか。何のゆえに、五逆のものの十念は宿善によると思い、われらの一生の称名念仏は宿善が浅いなどと思う道理があろうか。小智は菩提のさまたげというが、まことにこの類をいうのでありましょうか。

(16) ― 本文 ―

 四、次に念仏を信ずる人がいう。「往生浄土の道は、信心を第一とする。信心決定した上は、あながちに称名念仏を必要としない。『仏説無量寿経』には、すでに乃至一念と説いてある。故に一念(一声)で十分である。遍数を重ねようとするのは、かえって仏の願を信じていないすがたである。念仏を信じていない人であるというわけで、大いに嘲り深くそしるのである」と。
 まず専修念仏といって、諸々の大乗仏教の修行を捨てて、次には一念の義を立てて、自ら念仏の行をやめてしまったわけです。まことにこれは魔界にあやつられて、末世の衆生をたぶらかすものです。
 この説には、正しいところと誤ったところの両方が含まれています。往生の業因は一念で充足するというのは、道理からいえばまことにその通りなのですが、遍数を重ねるのは不信のすがたであるというのは、甚だ行き過ぎた言い方です。一念では足りないと思って遍数を重ねなければ往生できないと思うのならば、真に不信というべきでありましょう。しかし、往生の業因は一念で十分ではあるが、いたずらに明かし、いたずらに暮らす身であるからこそいよいよ(念仏の)功を重ねることが大切ではないかと思って、これを称えるならば、ひねもすに称え、夜もすがら称えるとしても、いよいよ功徳を添え、ますます業因決定する道理です。
 善導和尚は「力の尽きない間はつねに称名念仏する」と仰っています。これを不信の人などといえるでしょうか。ひとえにこれをあざけっていますが、あってはならないことです。
 一念といってあるのは、そもそも『仏説無量寿経』の文です。これを信じないならば、釈尊のお言葉を信じないことになります。それゆえ、一念で往生決定したのだと信じて、しかも一生おこたりなく(念仏)申すべきであります。これが正しい教義であるというべきです。念仏についての肝要な心得は多いのですが、略して述べれば以上のようであります。

(17) ― 本文 ―

 この文章を読む人は、きっと嘲るでありましょう。しかしながら、信ずることも謗ることも縁となって、皆やがて浄土に生まれることができるのです。今生の夢のような結びつきを道しるべとして、来世のさとりに向かう縁としたいものです。
 わたくしが遅れるとすれば人に導かれ、わたくしが先立つとすれば、人を導くこうではありませんか。生まれ変わり死に代わるともつねに善き友となりあって、互いに仏道を歩ませ、何処に.生まれても真の友となってお互いに迷いと執われを断ち切ろうではありませんか。
 本師釈迦尊、悲母弥陀仏、左辺の観世音、右辺の大勢至、
 清浄なる大海衆、法界の三宝海、一心の念を証明して、哀愍して共に聴許したまへ

 草本にいはく、「承久三歳仲秋第四日、安居院の法印聖覚の作る」と。
 (一二二一年八月十四日)
 寛喜二歳仲夏下旬第五日、かの草本真筆をもって愚禿釈の親鸞これを書写す。
 (一二三〇六月二十五日)