唯信鈔という題号についての解説
『唯信鈔』といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。
「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれ、この他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり」 『唯信鈔文意』
唯信鈔という題名には、次のような意味があります。唯とはただこのこと一つという意味です。二つはあり得ないという意味のことばです。(唯一無二の唯)また唯には独りという意味合いがあります。(独立独歩して他を必要としない)
信はもう疑いようがない、猶予は要らないという心です。これがそのまま真実の信心です。虚仮(そらごと・たわごと)を離れたこころです。虚は不実をいい、仮は不真をいうのです。
本願他力をわがためと受けとめて自分中心のものさしを捨て離れたこと、これを唯信というのです。鈔はすぐれた内容の文章を抜き出し集めた書物という意味の言葉です。以上のような意味をこめて唯信鈔と名づけてあるのです。
また唯信ということは、この他力の信心の他に余のこと(自力の菩提心・修行)など一切行わないのだという明確な決意をあらわしています。それこそが、弥陀如来の本(久遠の昔以来の)弘(悪逆までももらさぬ)誓(果たし遂げるまではやむことのない)願(この私達をわがいのちと引き受けていて下さる御心)を受け取ったもののすがたであるからです。
- 八宗兼学が理想とされ、円密禅戒を並べ修する比叡山。法華一乗といっても、法華の教えを最上最高とするのであって、「唯」の立場から廃立することは全く革新的な視点であった。それ故にこそ激しい法然教学批判が巻き起こったのである。宗祖は『正信念仏偈』の要所ごとに「唯」の字を置かれた。合計六か所ある。正信偈は唯信偈でもあったのである。
- 「唯」は「ただ」と読む。只・但との字義の違いに注目すべきである。もとよりこれより他はありえなかったという意味である。「ひたすら」「これだけ」というのとは異なる。