【後記】第一段 第二節

〔本文〕

 聖人のつねの仰せには「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。
 まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
 まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。

〔取意〕

 聖人がつねづね仰せになったことには、「阿弥陀如来がもと法蔵菩薩のいにしえに五劫もの思惟をこらして、法にそむき真実に背を向け如来から逃げることしか知らぬ者、十方一切の仏たちも導きようのない者をも、逃げてもそむいてもいやおうなく耳から入る南無阿弥陀仏の声となって、耳から心へ飛び込んで救い取ろうと誓われた本願を、よくよくかみしめてみると、ただひとえにこの親鸞一人のためであった。思えば、如来にそんな本願を起こさせねばならぬほどに重い悪業を背負う身であったのに、それを救わずにおかぬと立ち上がってくださった本願の、何とかたじけないことであろうか」としみじみ仰せられたことです。今になってあらためて思い返してみますと、善導大師の、「わが身は現に、罪深く迷い果てない凡夫であり、永劫の昔からつねに迷いと苦しみの世界に沈み、生まれ変わり死にかわり流転を重ねて、それを離脱する手がかりすらない身であると知れ」という金言と少しも違っておいでではありません。
 それも、もったいないことに、ご自分の御身にひきあててお示しくださったのは、わたくしたちが、身の罪のどれほど深いかも知らず、如来の御恩がどれほど高いかも知らぬまま迷っていることに気づかせるためであったのです。
 実際、如来の御恩ということはさしおいて、われ人ともに、善いとか悪いとかいうことばかりを言いあっております。しかし、親鸞聖人の仰せには、「善悪の二つ、どちらもまったく知らないのがわたしである。何故なら、如来の智慧で善しと見通されるほどに、わたしも知り通したのなら、善を知っているといえよう。如来の智慧で悪しと見通されるほどに、わたしも悪を知り通したのなら、悪を知っているといえようが、煩悩のかたまりでしかない凡夫のわたしたち、燃えている家のようにあてにならないこの世においては、善だ悪だと言ってみても全ては虚仮不実でしかない。その中にあって、すべてのはからいをうち捨てて本願のまことに帰依する念仏こそがただ一つの真実である」とのお示しであります。
 事実、われも人も不実なことばかり言いあっておりますが、その中でも特に心の痛むことがあります。というのは、念仏申すことについて、信心の内容を語りあい、人にも勧めようとする際に、相手の批判を封じ、論争を断ち切るために、まったく親鸞聖人の仰せでもないことまで、聖人の仰せであると言い張ることは、あまりにあさましいことと歎いております。どうか、この点について、よくよく思いめぐらし、心得ていただきたいものです。

〔参考〕

・つねのおほせ(持言)

 つねづね繰り返し言われた言葉

・親鸞一人がため

 第十八願文の「十方衆生」に対応し、「二河白道の比喩」の「汝一心正念にして直ちに来たれ」の「汝」に対応

・それほどの業

 弥陀の本願が立てられねばならないほどの業。後の「出離の縁あることなき身」と対応。

・善導の金言

 『観経疏』「散善義」に出る「二種深信」の語

・如来の御恩

 悪深く出離の縁なきものを救おうとの大慈悲

・よしあし

 善悪、善因善果悪因悪果

・如来のおぼしめすほどに

 善悪因果は如来の知見、凡夫のはからいに非ず。

・よろずのことみなもてそらごとたはごと

 万事につけ善というも悪というもみな虚仮不実

・念仏のみぞまこ

 念仏のみが真実である

・おもいとき(思い解き)

 聖人の仰せにないことを、仰せといわねばならない根底は聖人の信と異なるゆえであることを見定めよとの意。

〔私釈〕

 後記の第一段の後半に当たるのがこの部分である。その全体が、罪悪深重の凡夫を救おうとの如来の悲願のかたじけなさ、つまりは「如来のご恩」ということに集約されることを示す。
 ところが現状は如来の大慈悲を見失って善悪因果ということばかりに議論が流れてしまっているという。如来の知見である善悪を持ち替えて自力のはからいにしてしまってはいけないとし、人間のはからいは虚仮不実に過ぎず、念仏のみが真実であるという親鸞聖人の言葉を掲げる。如来のご恩を忘れた善悪のはからい、それが問題の根本であるという。 加えて、聖人の仰せでもないことを仰せということこそ何よりも慎むべきであると強調し、強く戒める。