〔本文〕
一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行非善なりと云云。
〔取意〕
念仏は、称える行者にとっては行でもなければ善でもないのです。これを往生のたねにしようと、自分の算段で行ずるのではないから非行だというのです。称えて功徳を積もうと自分ではからってする善でもないから非善だというのです。
ひとえに阿弥陀如来のはたらきかけによる他力であって、自分のはからいを離れているから、称えるものにとっては行でも善でもないのです。このように仰せられました。
〔参考〕
・行者のためには
念仏申している本人にとっては、ということ。称えさせている阿弥陀如来からすれば、釈迦諸仏からすればという視点があり、第三者の目からみればという社会通念があり、前条のごとく諸天善神や悪鬼悪神からすればという視点もあり得ることを暗示した言い方。
・行善
証果(さとり)に至るための修行、作善。さとりに近づくための道。この場合は「わがはからひ」という自力による、覚りに至るための試み。
・非行非善
覚りに近づこうという自力のはからいがあってのことではなく、何かの為の手段にしょうということでもないということ。
後世の蓮如上人ならば、「報恩の念仏」であると示し、これに対して、「わがはからひ」をまじえた念仏については、「まゐらせ心(して差し上げるという発想)わろし」と一刀両断に示されるところ。
〔私釈〕
「自力のこころをひるがへして他力をたのむ」という信心のあり方を、「念仏は修善ではないのか、その点では自力聖道門とも共通点があるのではないか」という問いに即しつつ、何が自力のこころであり、何が他力をたのむ姿かを示した一条である。
己のはからいこそ、他力のもよおしを見失わせる自力の本質であると端的に示す。