第七条 念仏者は無礙の一道なり

〔本文〕

 一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

〔取意〕

 念仏者は何者にもさまたげられることのないひとすじの道を行くのです。
 それはどういうことかといえば、本願を信じ念仏の道を歩む行者には、仏となって世を救うべき人であると、天地の神々も敬いひれ伏し、悪魔や異教徒も本願の大道をさまたげることはないからであり、また、どのような罪悪もその報いによって念仏者の行く道を拘束することはできず、いかなる善も大慈大悲の本願念仏には遠く及ばないからです。このように仰せられました。

〔参考〕

・念仏者

 念仏者とは、念仏の行者であり信心の行者であることが示されている。『正像末和讃』に、「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり」「真実信心うるゆゑに すなはち定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」等とある。
 信心の行者は、仏となろうと願い、衆生を救おうと願う浄土の大菩提心に生きるものであり、次の生には成仏することの定まった弥勒菩薩と等しい存在であり、阿弥陀如来の不可称不可説不可思議の功徳を身に帯びた人なのであると示してある。

・無碍の一道

 「念仏者は無碍の一道なり」という文章は主語と述語が整っていない。念仏者となることが無碍の一道であるというのか、念仏者は無碍の一道を歩むというのか紛らわしい。あるいは「念仏者」を「念仏ハ」と読ませるために「ハ」という字を振りがなとして加えたのであって、「念仏は無碍の一道なり」と読むのだという説もある。
 ここでは、「念仏者」と「信心の行者」は同義語と見る解釈に従う。
 無碍の意味は、・天神地祇も敬服し、・魔界・外道の障碍せず、・罪悪も業報を感ぜず ・諸善もこれに及ぶことなしの四点で示されている。
  このうち・と・、・と・は対をなして互いに補い会う関係にあり、一つのことの両面と見られる。
 ・と・については、『現世利益和讃』に、「天神・地祇はことごとく善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」「願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり」と示されている。
 ・と・については、すでに第一条の末尾に述べられていた所であるが、基づくところは、不可称不可説不可思議の本願力他力であることは明らかである。
 いずれにしても、念仏は魔除けのまじないでもなければ、滅罪の祈りでもない、自力の修善ではないのだという確認の意味を含むものであろう。

・業報を感ずる

 因業(悪しき業が因となって)が果報(悪果を招きよせる)をもたらすということ。
 釈尊の教説としての、「善因善果悪因果悪果」は因果応報の道理と称されて、日本人の精神に多大な影響力を及ぼした。この教説の解釈として、現在の姿(男女の別や、身分の違い、さまざまの禍福)は過去世の因業の結果であるとされ、この世での行い(職業、暮らしぶり、)が、来世を決定するとされた。皇族・公家・僧侶などは前世に功徳を積んだ証としてそのような身分なのであり、殺生犯すこと少なく、経典を書写・読誦し、仏法僧の三宝を供養すること頻繁なるゆえ、来世もまた善き所に生まれることが期待できる。これらはまさに善き人びとである。これに対して、漁師や猟師・商人・農民・武士などは、或いは殺生を以て生業とし、両舌や妄語・綺語を用いて取引きをし、あるいは心ならずも殺生を伴う耕作にたずさわり、戦場で殺し合いをせねばならない。これらの人は悪しき人びとである。前世の功徳薄きゆえに今生にはこのような身を受け、今生に悪を作ること多きゆえに来世もまた暗いというわけである。
 このような論理に縛り上げられた庶民はたまったものではなかろう。「善悪」とはこのような現実的意味をもって人々の心の大空を覆っていたのである。
 これに対して真っ向から批判の矢を放ったのが親鸞聖人であった。『正像末和讃』の末尾に、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」と詠じられた。『後記』に出てくる「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」という述懐の意味は甚だ重いのである。
  ここでは、「罪悪も業報を感ずることあたはず」と、信心の行者は因果応報の呪縛を受けないのだと明言してある。

〔私釈〕

 「自力のこころをひるがえして他力をたのむ」ということを、天地の神々のたたりや悪業の報いなど、目に見えぬものへの恐れおののきという問題に即して、他力浄土の大菩提心、不可思議広大の本願力の支えある身は、この迷いの世界のいかなる力にも、因果にも束縛されることがないのであると、他力の力強さを示唆し、念仏者を勇気づけ励ます一条となっている。