経釈明文章 五帖目 第二十一通

本文

 当流の安心といふはなにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。
 かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ経釈の明文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」ともいふなり。されば、ただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。
 このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

取意

 (まず、親鸞聖人以来受け伝えてきた浄土真宗の安心(信心)とはどのようなものかを述べる)
 浄土真宗の安心(信心)と申しますのは、あれこれとはからい煩うことはいらないのでございます。念仏以外のさまざまな行や善にこだわる(自力の)こころを捨て離れ、わが身がどれほど罪深くとも、(そのままを阿弥陀仏は目当てとして下さるのであると)仏の仰せのままにしたがわせて頂いて、「ありがとうございます。
 おたすけくださいませ」と思うことでございます。このように信ずる人は、十人あろうと百人あろうと皆ことごとくたすけて下さるに間違いはないのでございます。このことはさらに露ほども疑う必要のない道理でございます。このように信ずる人を、安心を確かに得て往生の決定した人というのでございます。

 (次に、信心を得るときすなわち往生がさだまる利益を述べ、経典・論釈に確かな根拠があることを示す)
 この趣旨をあらわすためにこそ、出典根拠として、経典論釈には「一念発起住正定聚」(信ずる一念起こるときすなわち往生さだまる)とも「平生業成の行人」(信心を得て臨終を待たずして往生の定まった人)ともいってあるのでございます。

 (最後に、上に述べたところのまとめとして信心為本の宗義を述べ、報謝の称名念仏を勧めて結ぶ)
 このようなわけでございますから、こころを一つにして阿弥陀仏をふかく信ずること唯一つが肝要であると心得ねばなりません。これ以外に心得るべきこととしては他でもなく、阿弥陀如来がこのわたくしを、何の難しいこともいわず間違いなくたすけて下さる御恩の深さを思い、寝ても覚めてもへだてなく、つねに称名念仏させていただくばかりでございます。
 まことに勿体ないことでございます。謹んで申し上げた次第でございます。

参考

  • なにのようもなく
    何のはからいも必要ないとの意。他の善も要にあらず、智慧も要らず才覚もいらずの意。
  • 当流
    他流に対す。同じく本願の念仏を受けた法然門下の中の他流に対して親鸞聖人によって受け継がれ、他流に異なる独自性を持つ浄土真宗をいう。かつは、真宗の他派に対していう。
  • 安心
    信心のこと。もともと善導大師の用語。称名の行や、その他の行業に対して、根源としての心中のあり方を指して言った。ここでは、信心を得るのに智慧も才覚も経験も努力も要らない。得やすい信心であることをあらわし、弥陀の願力は無窮であるから、我が身の愚かさも罪深さも案ずる必要はなく往生を危ぶむ必要がないことが明らかとなった信心であるから安心であるという意を含む。
  • 雑行雑修のこころ
    自力の心、我が身をよしと思い、わが身をたのむ心。
  • 「捨てて」と「まかせまいらせて」
    他章には「ふりすてて」「うちすてて」ともある。
    雑行雑修自力の心は、廃棄せよの意味で「ふりすてる」という。
    罪悪深重の身であることについては、放置せよの意味で「うちすてて仏にまかせまいらせて」とある。
    雑行雑修自力の心とは自力作善の心、信罪福心(善因善果悪因悪果を自分の計らいにする)であり自分の良心を誇るこころである。罪悪深重の身を嘆くことは卑下慢であり、自分の判断裁定に間違いはないと誇るこころが潜んでいる。如来の願力の絶対性を疑い、救われがたいという自分の判断にこだわるのである。
    「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。念仏るまさるべき善なきゆえに。悪をも恐るべからず。本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」『歎異抄』
    人間のちっぽけな善悪とはからいを遠く越えた如来の真実に帰して、善をほこる心も悪をなげく心も捨てて、如来のお心を光と仰ぎいのちとたのみ、如来の仰せにしたがうのが信である。善も悪も捨てて、願力に帰す。これが信心である。これが迴心である。この迴心をもたらすものが如来他力の回向である。
  • 一念
    即時と一心の二義があるが、ここでは一心の義。
  • つゆほども
    疑う余地がないこと、猶予躊躇のいらない如来の大慈悲を表す。

  • ここでは「法」を受け取る「人」を指す
  • 決定
    我が身の往生は疑いようがないと心定まること
  • このこころ
    この趣旨
  • 経釈の明文
    「正定聚」は『仏説無量寿経』、「一念発起」は曇鸞『浄土論註』「平生業成」は覚如『改邪鈔』などに出る

私釈

 趣旨は、聖人一流章と同じく、信心正因称名報恩という、真宗教義の根幹を簡明に敷き明かしたものである。
 「罪業深くとも、それをば仏にまかせまゐらせて」「ただ弥陀仏を一念に深くたのみ たのみたてまつること肝要なり」「十人は十人百人は百人ながら」「疑ふこころつゆほどもあるべからず」などの常套句を用いて、全体が強調構文になっていることが特徴である。