本文
南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかればなにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。
これを心得べきやうは、まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも南無阿弥陀仏の体は、すなはちわれら衆生の後生たすけたまへとたのみまうす心なり。すなはちたのむ衆生を阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたへましますなり。これを衆生に回向したまへるといへるは、この心なり。
されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。
これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応六年五月二十五日これを書きをはる。
取意
(まず、南無阿弥陀仏の意味とは何か、またどのように阿弥陀仏を信ずれば、往生を遂げることができるのかという問いを掲げる)
南無阿弥陀仏という言葉の意味とはどのようなことでありましょうか。ついてはまた、どのように阿弥陀仏を信ずれば、真実報土に往生を遂げることができるのでしょうか。
(次に、それを心得ることは、南無阿弥陀仏の六字のすがた(相)に込められた意味あいを明確に心得ることであり、それがとりもなおさず信心なのであると展開する)
これを心得るには、まず、南無阿弥陀仏の六字のすがた(相)に込められた意味あいを明確に心得た上で、弥陀を信むことが大切なのでございます。
(これをうけて、南無阿弥陀仏の本体とは、私たちの信心であり、阿弥陀如来はすでに名号というこの上ない大利益・大功徳をお与え下さっているわけなので、これを、如来から私たちへの回向と言い表しているのだと説き明かす)
そもそも、南無阿弥陀仏の本体とは、私たちの「はい、ありがとうございます。どうぞこの私の後生をおたすけ下さいませ」と受け取る信心です。このように信ずる私たちを、阿弥陀如来はよくお見通しになっていらっしゃって、すでに南無阿弥陀仏というこの上ない大利益・大功徳をお与え下さっているわけなのです。このことを、如来から私たちへ回向して下さったと言い表しているのでございます。
(最後に、要約すれば、南無と信ずる機にしたてて、その機をたすけて下さる阿弥陀仏の法であるから、このことを「機法一体」の南無阿弥陀仏と言い表すのであると示し、このような機法一体の南無阿弥陀仏こそが、往生の確定した他力の信心の本体なのであると心得なさいと結ぶ)
以上を要約すれば、南無と信ずる機にしたてて、その機をたすけて下さるのが阿弥陀仏の法でございますから、このことを「機法一体」の南無阿弥陀仏と言い表すのでごさいます。このような機法一体の南無阿弥陀仏こそが、往生決定の他力の信心そのものなのであると心得ればよろしいのでごさいます。
まことにもったいないことでごさいます。謹んで申し上げた次第でございます。
参考
- いかなる心
いかなる道理・意味あいかということ。 - たのみて
信受して - 報土
真実報土 自力疑心の行者の往生する方便化身土に対す。 - すがた
南無と阿弥陀仏が一体となって南無阿弥陀仏の六字になっていることの意味合い - 体
本体、当体、事体、ものがら、ことがら、そのもの。 - すなわち
南無阿弥陀仏の六字の全体がそのまま信心、そのままが回向されたものということを強調するためのことば - すでに
たのむことそのものが阿弥陀如来の回向によるものであることを示すためのことば「如来すでに発願して衆生の行を回施したもうの心なり」善導の六字釈の中の発願回向の釈についての親鸞聖人の釈。 - 無上大利の功徳
功徳とは功能徳用の意 善果を招く善根。ここでは往生成仏の正因。「それかの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍すること乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」『仏説無量寿経巻下』『注釈版聖典』八一頁 - 回向
回転趣向 阿弥陀如来からとどけられ、与えられること(回施)。
私釈
まず、南無阿弥陀仏の名号にこめられた道理とは何かということを問い、その問いが同時に往生の要因としての信心とは如何なるものであるかという問いに通ずるものでもあることを示した。
これに答えて、南無阿弥陀仏は信心をあらすものであり、阿弥陀如来は私たちに南無阿弥陀仏(の信心)という大功徳を与えて、往生成仏の大利益に至らせて下さるのであると示し、これが回向ということであると明かす。
その上で、阿弥陀仏の法が、南無と、機にはたらいてたすけて下さるのであって、阿弥陀仏をはなれて南無はない。そういう南無阿弥陀仏のすがたを機法一体という。機法一体の南無阿弥陀仏は私たちの救いをあらわす。そして、この私たちのすくいを表す機法一体の南無阿弥陀仏こそが他力の信心そのものだと心得なさいと結ぶ。
南無阿弥陀仏をはなれて信心も往生もない。浄土真宗とは南無阿弥陀仏であるということを端的に示された一章である。八十三才という最晩年、おそらくは大阪御坊においてしたためられたものである。