死を考える

生あるが故に死あり

 生まれたものは必ず死ぬ。折角生まれてきたのに死ぬというのではないのです。死んでいくいのちを引き継いで生きるために生まれてきたのです。いのちあるものは生まれたもの、そして死ぬもの。死ぬゆえにいのちを引き継ぐものを産みのこすものでありました。死ぬということがなければ、生まれるということは要らないことです。そして生まれた以上は死ぬようにできているわけです。生きることの反対が死ぬことではありません。死ぬことの反対が生きることではありません。死ぬことの反対は生まれること。生まれることの反対は死ぬことです。そして、誕生は生きることの始まり、死は生きることの終わりです。いのちには始めがあり、終わりがあるということです。
 私の未来はどうなるかわかりませんが、死ぬということだけは確かです。「死ぬかもしれない」のではありません。必ず死ぬのです。何時死ぬかわからないからといって、「多分、当分は生きているだろう」ということを前提にしているのはおかしなことです。明日のことはわからなくても、五十年先のことはわかっているのではありませんか。
 もとはいなかったものが生まれてきて、やがて死んでいなくなるものが、今ここに生きているのです。まことに不思議な、すごいことです。

明日ということあるべからず

 ひとは必ず死ぬ。だからといって死ぬために生きているのではありませんね。つまりは未来のために現在があるのではないということです。
 明日のために今日があるのではありませんね。老後のために青春があるのではなく、大人になるために子どもがいるわけではないのです。そしてまた、男の子が老け込んだのが親父なのではありません。おやじの古くなったのがお爺さんではありません。それぞれが初めての今日、最後の今日、私の今日を生きているのでしょう。かけがえのない今日を生きるのです。明日はどうあろうと悔いることのない、輝ける今日でなくてはならなかったわけです。今日を明日のための手段にしてはなりませんね。今日そのものが尊い、かけがえがないいのちの時なのです。今日を昨日の残り物にしてはなりません。新しい今日なのです。昨日はどうあろうと、今日その昨日をどう受けとめ、どう生かすかなのです。昔の人は「無常は同い年」だと言いました。いのちの世界は、誰もが同級生だったのです。

過去は過ぎ去りしにあらず

 よくよく考えてみますと、死んでいなくなることが問題なのではないのです。それはどうにもならない事実です。だからこそと、今生きているこのいのちをどう生きるかが問題なのですね。愛する人、尊敬する人、大事な人、忘れられない人が、死んでいなくなったことを問題にしてもはじまらないのですね。死んでいなくなったことじゃなくて、確かに生きていた。このように生きた、という事実を大切に受けとめるべきなのでありましょう

死は死をおそれるものにとって苦

 「死んだらおしまい、何も残らない」「人は死ねばごみになる」こんなことを言う人があります。「死んでも魂は残る」という人がいるものですから、それに対する反発なのでしょうか。或いは、死というものを憎むあまりの嘆きの言葉でしょうか。考えてみれば、死んでも魂が残るといういうのも、ずいぶんこだわった言い方ですね。よっぽど、死というものを素直に受け入れられないのでしょう。どちらも、死とういう避けがたい現実に対する拒絶反応ではないでしょうか。

死は非存在の観念

 「死」というものが何か実体としてあるわけではありません。「死の世界」というものがあるのでもありません。生きていたものが、もはや生きていなくなっただけのことです。そもそもが、生まれてこなくても少しも不思議ではありません。生まれてきた。生きているということが、不思議なこと、全く特別のことであって、生まれてこないこと、生きていたものもやがては死んでしまっていなくなることは、何の不思議もない当然のことです。

生命の存在こそたずねるべき不思議

 生きているためには、数知れないほどの条件要素が揃っていなければなりませんが。死ぬのには、何の造作も要りません。コンピューター、作るは困難こわすは簡単、猿でもできる、熊でもできる、大事にしててもそのうち壊れる。人間のいのちもそうですね。
 月にも火星にもそして太陽系のどの惑星にも、あるいは宇宙に存在する数知れぬ惑星にも、生き物がいなくて当たり前で何の不思議もないことです。むしろ、この地球上にどうして生命が誕生したのか、そしてわずか四十億年ほどの間にどうして三千万種類もの多くの種類ができたのか、どうして人類が登場してきたのかが不思議なのではないでしょうか。そしてこのわたしが人間に生まれてきた。ここにいる。何という不思議でしょうか。わたしが生まれる前には、無限ともいうべき長い長い時間があったわけでしょう。そして、わたしが死んだ後、また永遠の時が流れて行くに違いありません。無限の時間の中にほんのひとときの、一瞬の輝きにも似たいのちなのでありましょう。今生きているということこそ、まばゆいほどの大不思議ではありませんか。無限の時間の中の五十年や百年の寿命は、長いとか短いとかいうべきものではなかったのかも知れません。百年生きても長くはない。十年の寿命も短くはない。与えられたいのちの不思議に目覚めるかどうか、それこそが問題なのではないでしょうか。

限りあるいのちは夢ではない

 その意味では、科学の発達と生活の豊かさによって寿命は長くなったが、人生はかえって短くなった。あれもしたいこれも見たいと夢ばかりが膨らんで、限りあるいのちの重さ不思議さを噛みしめることが少なくなった。いのちそのものに対する感動が薄くなった。すなおに死を迎えるどころか、素直に年寄りにもなれないまま、気の若いまま、死ななければならなくなった。死は受け入れがたい悲劇になってしまった。

不滅の過去、永遠なる事実

 「人は死ねばごみになる」それは変です。生きている人間はごみの本なのでしょうか。 釈尊の生涯もわずか八十年、しかし二千数百年の歳月を越えて、今も人々のこころの灯火として燃えつづけている不滅の八十年でした。親鸞聖人や蓮如上人が世にあらわれたのも、我が家に仏壇があるのも、私達が手に数珠を持っているのも、今日ここに集まったのも、二千数百年前に生きられた釈尊のいのちが今もはたらき続けていて下さる証です。今も、生きていらっしゃると思うからこそ、お釈迦様の誕生日、花祭りのお祝いがある。親鸞さまの誕生祝い、降誕会を営むわけで、誰が、死んだ人の誕生日などするものですか。 釈尊の限りある八十年のいのち、その一歩一歩が永遠なるいのちの輝きであったということです。わたしたちも死んだら終いの人生を歩いてはならないよと呼びかけられているだと思います。

 明日は明日の風が吹く」という題のドラマがありました。今日さえよければというのんきな考えかと、そのころは思っていましたが、今思うと、「悔いのない今日を精一杯生きよう。それが、明日はどんな風の吹く明日であろうと、明日もまた精一杯の明日にする道だ」という意味だったようです。
 思い違いの山でできたあやふやな現在を、明日はあしたはと、明日を追いかけながら生きて算用ちがいの死に方をするというのでは残念ですね。
 でも、そんなあやふやな私がどうやって輝ける今日を生きるなどということができるのでしょうか。難問です。
 「人生やり直しはきかないが見直しはできる」といった人があります。過去というものはもう固まってしまったものと思いがちですが、「子を持って知る親の恩」ということばがあるように、その時はわからなかったが、現在に至ってはじめて見えてくる過去の事実の意味というものがあると思います。過去を丁寧に掘り起こすことで現在が違ったものとして受け止められてくる。今あることの尊さということはそういうことではないかと思います。
 中国の高僧曇鸞というひとが「蝉やひぐらしは春も秋も知らない。この虫がどうして夏を知っているはずがあろう」ということを仰っています。蝉は夏の盛りを生きながら夏ということを知りません。春を知り、秋を知る人間は、まだ鳴かぬ先からやがて蝉が鳴きだすことを知っています。しきりに鳴いているさなかにも鳴き声がもうすぐやんでしまうことを見通しています。蝉の命のはかなさを知っています。物心がついてから意識を失うまでの現世しか知らないわたし。しかも短い人生の中のわずかな経験と知識で、見落とし聞き間違いだらけのものさしでしか自分の人生を受け取っていないわたし。生まれる前も、死んだ後も見ることのできないわたしは、実は自分の人生の意味もわかるはずがないのかも知れません。
 本当にその意味を知るのは、久遠のいにしえ以来のあらゆるいのちの歴史、目には見えない迷いと苦悩の果てしない過去を知り通し、このいのちの帰する先をも見通したもう如来さまの智慧の眼より他ないのでありましょう。

人間であることの意味

 幸いなことに、私たちはその如来の智慧を教えとして聞くことができます。如来がお知りになるように知ることはできようはずもありませんが、このわたくしにかけられた如来の底無しの慈悲、果てしない願いを聞かせていただくとき、わかった知ったというのではなく、我が思いを越えた重く尊いいのちが広大無辺なるものの中に確かに抱かれているとうなづかせて頂くのです。
 福井の永平寺をお開きになったのは道元禅師です。その道元禅師の書かれた書物から、こんなことを教わりました。

 海の真ん中へ出てみると、海はただ丸く見える。だが、海が丸いわけではない。我々の目の届く範囲がただ丸く見えているだけである。その丸く見えているさらに向こうに海は果てしなく広がっていると知らなくてはならない。海は大きすぎてその姿は見えないのである。確かなことは、今わたしがその海の中にいるということだけである。
 まさにそのように、仏法は広大過ぎて我々の理解を越えている。われわれの理解したものが仏法だなどと思ってはならない。経験を積んでも積んでも、知識が増えても増えても腹は立つし、欲は深いし、愚痴も多いことは、幾つ何十になっても一向に治らない。そんなおろそかなわたしの智慧で、そんなさもしいわたしの心でわかるものは仏法ではない。ちっぽけなわたしの心にはおさまる筈のない果てしなく大きな真実、そして悲しいわたしが確かにその中にいる。わたしを抱いていて下さる確かな世界。わからないからといって心配しなくてもよい、納得できなくても疑う必要のない大きなまこと、それが仏法だったということを教わったのです。
 人間であることの意味は人間の智慧で明らかになるものではありませんでした。如来のみこころを聞く中に尋ねるべきもの、うなづきよろこぶべきものであったのです。

寿命は長くなったが、人生はかえって短くなった。

 死んでいなくなることが問題なのではない。今生きているこのいのちをどう生きるかが 問題なのである。死んでいなくなったことを問題にしてもはじまらない。確かに生きていたという事実を大切に受けとめるべきなのである。

  • 明日は明日の風が吹く
  • 死は万人に約束された安らぎ 老病死あって死がなければどうなるか
  • 死を恐れるは猶予の生きかた故、不安と恐れの経験の投影
  • 死を望むは、苦痛・屈辱・孤独・空虚感などの絶えがたい生活への拒絶反応
  • 死を悲しむは生存への愛着。
  • 死を受け入れることは、人間として自分が生まれて来たことへの謝念の上に
  • 死を安らぎと受け取ることは、自分のあるがままの人生をよきものとして受け入れて
  • 死と歴史
  • 不滅のいのちに遇う