いのちを見つめる智慧(成道会法話)

2005年 12月8日 11時20分より 岡西法英

成道とは覚りを開くこと

 成道とは覚りを開くことです。覚りを開くとは、悩みや苦しみを超える深い智慧を身につけることです。この智慧をインドの言葉ではボーディと言います。中国・日本では菩提と当て字で読んできました。菩提と呼ばれる智慧とはどんな智慧なのでしょうか。

なぜ覚りを開かねばならないのか いのちにもがくわたし

 「せっかく生まれてきたのに、せっかく生きてきたのに、死ぬ」のではありません。「老いと病いと死があるいのち、死にゆくいのち」だからこそ、いのちを引き継ぐものとして生まれてきたこのいのちです。はからずも与えられたいのちです。ままならない、ままならないともがく私のわがままを黙ってささえながら、不思議にもはたらき続けているいのちです。
 私がいのちを忘れ、いのちを粗末にし、いのちに背き、いのちを裏切った生きかたをしている時も、その私はそのいのちの上にもがいていたのです。もろいいのち、限りあるいのち、滅びゆくいのちの上にです。

老病死の苦悩

 どんなに幸せ多い人生にも、どれほど恵まれた平穏な人生にも、老いと病と死と別れがあります。それ故、人には未来に対する憂いがあり、死と別れの悲しみがあり、若ければ若い故の苦しみ悩み、老いれば、あるいは病めば、老い病むが故の苦悩があります。
 また、一人生きる身ではありませんから、他の人との縁の中に、ある時は支えあい、ある時は傷つけあいながら、愛憎のしがらみを紡ぎ出し、自分自身につまずいてゆかなければなりません。このような人間であるからこその苦悩は、誰も避ける術を持ちません。そして、最後のゆくえは死の闇の中であると思う時、誰が悶えずにいられましょうか。
 しかし、老病死あるいのちと知って悩むのは、人と生まれたからです。人間なればこその智恵です。人間は大宇宙が生み出した「いのちを知るいのち」です。そして、いのちの不思議に驚くことのできるいのちです。限りあるいのちと知って限りない輝きを求め、見いだすことのできる生きものです。

いのちを輝かす智慧を求めて

 老病死に苦悩することは誰もが経験します。一方、限りあるいのちの中に限りない輝きを見いだし、自他のいのちを輝かす道を見いだすことは、先人の深い智慧に学ばなければできないことです。その意味では私たちの持ち前の知恵は、中途半端な知恵です。いのちに悩むことはできても、安らぎ喜ぶことのできない智恵です。他人は見えても、自分は見えない智恵、いや自分さえも見えない故に、他人も本当は見えていない、おろそかな智恵でしかありません。

 本当の智慧、あらゆるいのちを輝かす智慧、それが自己との果てしない苦闘の末、釈尊が体得された菩提という智慧でした。

智慧を得られないわたしたちのために

 では、私たちも釈尊にならって菩提を求めなければならないのでしょうか。家を捨て、衣食住の安定を捨て、全ての既得の知識も文明の恩恵も捨て離れて、一個の生きものとして、人間として、身一つ、いのち一つの原点に立ち返り、自己をみつめ、自己を統御し、自己を離れることから修行を始めることが可能でしょうか。
 素朴な古代社会に生きて、身も心も骨太で野性味に富んでいた時代の人々のまねなどできないのが、現実の私たちなのではないでしょうか。
 釈迦の教えは伝わっているが、今やついてゆける人がいないから、覚りを開くものなど一人もいるはずがない。これは、釈尊の予言であり、親鸞聖人のなげきでありました。
 しかしまたその釈尊の教えの中に、「わたしのまねができないからとて悲しむな、これを聞けよ、これを信ぜよ、これを光と仰げ、力とたのめ」と説かれた教えがありました。それが、阿弥陀如来の救い、本願念仏の教え、浄土往生の道、浄土真宗です。

釈尊が阿弥陀如来の救いを説くことは阿弥陀如来のはたらき

 歴史上の人物として現れた教え主釈迦如来は自らの覚りの智慧に立って、自らを目覚めさせ歩ませた不滅の法を阿弥陀如来の本願・名号と説き開いて下さいました。欲といかりと愚かさから脱することができず、空しく命の時を通り過ぎようとする凡夫に不滅の法を受け取らせ、苦悩を乗り越える道を見いださせるためです。
 釈迦如来の覚られた不滅の法とは、色なく形なく、言葉で表しようなく、こころで思いようもないものです。迷いの凡夫は、これを知らず、求めることもありません。ところが釈迦如来は凡夫のこころの暗闇を哀れんで、光をかかげ、よりどころを与えようと、あえてこの法を阿弥陀如来の本願と名号、浄土として説き示されたのです。名を表し形を示して、凡夫が耳に聞き、心に信じてよりどころとすることができるようにしてくださったのです。
 釈迦如来が不滅の法を阿弥陀如来の願力と説き明かしてくださったことは、観点を変えれば阿弥陀如来の願力にもよおされて釈迦如来は道を求め、覚りを開き、世の人々のために法をお説きになったということになります。阿弥陀如来が釈迦如来に身をやつして人の世に現れ人々に救いの道を示してくださったのだということです。

如来は衆生救済の願いから現れる

 病に苦しむ人に共感し、何とかして癒したいと願う願いから、薬が見い出され、医者が現れたように、限りある命を空しくついやそうとする私たちの迷いと苦しみを哀れんでこれを救おうという願いから、そしてはてしない努力の積み重ねから、数知れぬ如来は出現したと、説かれています。

 如来は造物主でも、宇宙の支配者でも、人を裁く審判者でもありません。如来は全能
の権力者などではなく、「神」ではありません。病めるものに、どこまでも見捨てることなく付き添う医師のごとく、父母のごとく、友のごとくであると譬えられます。
 『仏説無量寿経』には次のように説かれています。
 十方世界に数知れず現れたもう全ての如来は、限りない慈悲をもって、迷いと苦しみ
の中に生きる全てのものを、あわれみかなしんで下さるのです。釈迦如来が人の世に現
れたのも、覚りの智慧から流れ出るまことの教えを説いて、人びとを覚りへの道へ導き
あたかも、日の光が、大地に埋もれて芽も吹かぬままの萌しを、はぐくみ育てて芽を吹
かせ、繁らせ、花を開かせ、ついには実を結ばせるごとく、人間にとって、真の実りで
ある覚りを得させて、同じく如来(仏)に成らせようと願われてのことでした。
 そして、あらゆる如来を世に生み出す原動力は、阿彌陀如来の大誓願のはたらきであったのです。

阿弥陀如来の願い

阿弥陀如来とはどんな仏なのでしょうか。思いも及ばぬはるかな昔、一人の国王が、世自在王仏という如来の説法を聞いて、感動し、我もまた覚りを得て、迷い苦しむものの光となり、いのちとなりたいという大いなる志を抱きました。そして、法蔵菩薩と名のって道を求め、あらゆる如来たちの足跡を学んで、果てしなく広大な誓願を立てました。
 「わたしが覚りを得たあかつきには、わたしの開く浄土には、地獄・餓鬼・畜生の苦なく、また再び落ちる恐れなく、生まれ来る人は皆、不滅の輝きを放つ身となり、美醜の別ないように。過去世を見通し、思うまま見、思うままに聞き、誰の心の底も知り通し、思うままに行き、我欲を離れて、自在に衆生を導き救う身となるように。私の浄土に生まれたいと願うものは、そのたちどころに、成仏確定の菩薩として生きる身となり、わたしの国に生まれては、必ず覚りを得てわたしと同じく仏となり、十方衆生の救済者となるように。そのためにわたしは、光もいのちも限りない徳を具えよう。そして、その徳があらゆるものにとどいて、一人ひとりの光となりいのちとなるようにせねばならぬ。それ故、わたしの真実のすべてをわたしの名にこめて、あらゆるものの耳から流れこむようにしよう。一切の仏たちがわたしの名号を讃える伝達者となるようにしよう。そして仏たちの口を通して呼びかけるわたしのまごころが、一人ひとりに至りとどいて信心とはたらくようにしよう。この信を得た人々は、どこにどのように生きるも、念仏もろとも仏となるべき身として生き、命尽きれば我が国に生まれ来て、十方衆生の救済者となる。このようにできないならわたしは仏にはならないのである。悪逆のもの・仏法をそしるもの、背くものたちよ。そのままで空しく流転してはくれるな。耳を開いて聞け。疑いのこころをひるがえせ。わたしはあなたのために現れる光でありいのちである。わたしがあなたの光になろう、わたしがあなたのいのちとなろう」
 この願いを果して現れたのが阿弥陀如来なのだと説いてあるのです。

阿弥陀如来の成道と救いのはたらき

 阿弥陀如来の覚りは、あらゆるいのちを迎え入れて浄化するはたらきをそなえる極楽浄土として具体化されています。極楽浄土はいのちと心の浄化槽です。あらゆるものを迎えいれて仏に生まれ変わらせるのです。だから浄土と呼ばれるのです。
 この阿弥陀如来もその覚りも浄土も南无阿弥陀佛という呼び声となって人々の耳から心へ、「さぁここへ来いよ」と語りかけていて下さっています。浄土真宗は、往生浄土の成仏道です。
 阿弥陀如来をわが光と仰いで南无阿弥陀佛を称え、浄土に往生して成道を果たすのが浄土真宗です。何のために成道を果して仏になるのか、迷い苦しむものの力となり、光となり、安らぎを与え喜びをもたらすためです。
 願っても願っても思うようにはならない世の中、醜く悲しい人の世の現実、努めても励んでも、頑張れど頑張れど、変わってはくれない自分。自分で自分に愛想が尽きるということがあります。駄目でも駄目でも、駄目だとわかってはいても、いや駄目だとわかっているからこそ、願わないではいられない。それが人間なのではないでしょうか。そんな願いの中から阿弥陀如来の本願は生まれ、覚りの智慧は開かれたのだとわたくしは受けとめるのです。このわたくしの光となろう、力となろう、それが阿弥陀如来の成道であり、それを覚って説き示して下さったのが、釈迦如来の成道と説法であったわけです。