「人身受け難し。今すでに受く。仏法聞き難し。今すでに聞く。この身、今生に向かって度せずんば、さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」どんな聖典にも最初の方に出ている『礼讃文』のことばです。
人間に生まれたことほど大きな幸せはなかった。そしてその人間に生まれたことの不思議さ尊さに気づかないわたくしに、気づかせて下さる仏法があった。それを聞くことができたことは驚くべき幸運である。この一生のうちに迷いを越えて、不滅の真実に遇わなかったら、何時、何に生まれたときに真実に出遇おうというのか。こんな意味だろうと思います。
人間はいのちに苦悩する生き物なのです。しかし、いのちに苦悩する人間は、ただの生き物ではありません。いのちを知る生き物いのちを知るいのちなのです。いのちを知るからこそ悩む生き物なのです。生まれようと思って生まれてきたいのちじゃない。だから老いようと思わないのに老いていく。病を願うことなどないのに病む、逃げようとして逃げられないのが死です。我がいのちでありながら、我が意のままにならないのがこのいのちですね。しかし、一人一人の自分の命は短いけれど、長い長い大宇宙の歴史の中に不思議にも誕生した地球上の生命の歴史、重ねられてきた数知れぬいのちの営み、そのいのちの歴史を今ここに引き継いで生きている重い存在です。
いのちを知るいのちである人間ひとり一人、それは大宇宙が生んだまなこ、大宇宙に開いた耳、大宇宙に生じたこころ、大宇宙に芽生えた知恵です。まさしく一人一人の人間こそ大宇宙の輝く宝石であり、地球上の生物三千万種類の中に誕生したいのちの中の花ではないでしょうか。
考えてみれば、人間に生まれたということほどすごいことはなかったのです。その人間どうしの間で人と自分を比べて、小さな違いを見つけては上だ下だとこだわることほど愚かなことはなかったのではないでしょうか。お互いが人間に生まれ合わせたことほど、驚くべきことがありましょうか。
老病死に苦悩することは誰もが経験します。一方、限りあるいのちの中に限りない輝きを見いだし、自他のいのちを輝かす道を見いだすことは、先人の深い智慧に学ばなければできないことです。その意味では私たちの持ち前の知恵は、中途半端な知恵です。いのちに悩むことはできても安らぎ喜ぶことのできない智恵です。他人は見えても自分は見えない智恵、いや自分さえも見えない故に他人も本当は見えていないおろそかな智恵でしかありません。
本当の智慧、あらゆるいのちを輝かす智慧、それが自己との果てしない苦闘の末、釈尊が体得された「さとり」でした。
いのち故の苦悩を越えて、いやいのち故の苦悩を通して、いのちの限りない輝きを見いだすことこそ仏法のテーマでした。そして人間に生まれた以上、誰でもが背負っている宿題でもあったのです。
苦しみ悩みから逃げてはならなかったのです。苦しみ悩みから逃げることは、生き物であること、人間であることから逃げることでした。喜びやすらぎの原料を捨てることだったのです。幸せであろうとして、私ははますます不幸のなかへ逃げ込んでいこうとしていたのです。「占いやまじないは人を不幸にする。近づいてはならない」と教えられてきた意味がはっきりわかったような気がします。
立って歩くこと、火を使うこと道具を作ることは、確かに人間の特徴に違いありませんが、それはただ動物として生きるための技術に過ぎないと言えるかも知れません。しかしことばを持つようになった。誕生と死を知った。聞いて考えるようになった。これは他の生き物と決定的に違う生き物が現れたということです。
言葉は単に人間がつかう道具や手段ではありません。確かに意思伝達の手段として、ものに名をつけ、言葉を使うということがあります。しかし一面、親から言葉によって名乗られ、語りかけられ、やがて言葉に目覚めて人間になってきたということがあります。言葉は人間を呼び覚ますもの、人間を人間にするものであるという一面があります。
仏法は釈尊の覚りが言葉になったもの、わたくしたちを呼び覚まして人間であることの意味に目覚めさせるものだということだったと思うのです。
言葉によっていのちに目覚めた人間は過去未来現在という時の観念を持ちました。そしてそこに現在を作り上げた過去、現在が作ろうとしている未来という因果関係を見て、現在の生きかたを考えるようになりました。過去を振り返り、未来を想像しながら現在の生き方を選ぶのが人間だということです。