真宗では、先祖供養をしないと聞きますが、年回法要や墓前などのお経は先祖供養ではないでしょうか。

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世世生生の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云云。
(歎異抄 註釈版 P834)

先祖供養(先祖供養は仏教と別物)

 どなた様もようこそ御参加くださいました。今日の話し合いの様子を聞かせていただいておりますと、大体どちらの班も全体的に非常に意見が一致しておったと思います。
 意見が一致しておったということは、まあ、これは実は、ここへお集まりになった皆様方だけではないということです。日本中どこへ行っても、誰に聞いてもおそらく同じ答えが返ってくるでありましょう。裏を返して言えば、つまりは、それは仏教とは別のものさしからから出てきておる考え方だということも出来るわけであります。
 つまり、仏教をまったく聞いていない人も、そして真宗の門徒だと称する人も、実はその点になると意見が一致しておるということは、言い換えれば日本人共通の考え方としてあるということでしょう。
 それでは仏教はその点についてどう言うておるのかと、まあ、こういう問題になるのではないかな、ということをまず第一に思いました。
 さて、今申しましたように、誰でも日本人なら当然の事のようにそう考えるという、その考え方ですね。それは今の問いで申しますと、「真宗は先祖供養しないというが、それはほんまかいな、そんな馬鹿なこと聞いたことないが」ということなんですね。
 聞いたことのない事が、今日ここに、連研ノートに初めて書いてあった。そういう印象をお持ちの方が多いのではないかと思うんですが、そういう問いの出てくる背景ですね。どういう考え方が裏に有るのかということを一つずつ考えてみたいんです。

先祖供養思想の内容

死者のたたり

 一つには、先程話し合いの中に少し出ましたが、死んだ者は迷うておって、放っておくと崇をする危険性があるという考え方ですね。だから、法事を勤めないで死んだ者をそのまま放って置くと気持ちが良くないということになるわけでございます。

お経が御馳走

 それから二つめにはですね、お経を読むと死んだ者が良い所に行けるという考え方ですね。そして良い所へ行くと、法事を営んでくれた、いわゆる遺族に恩恵をもたらすというか、護って貰える、或はいろんなおかげがあると。こういう事ですね。

死んだ人のため

 三つめには法要とか読経というものは、死んだ者の為にあるのだという考え方ですね。

仏から神に

 四つめには、これは話し合いの途中で少し出かかったんですが、詳しいことはおっしゃいませんでした。だいたい通念として有りますのは、死んでからしばらくは死んだ人の霊なんですが、お経を読んで貴うと迷っておったのが極楽へ行って仏様になる。そのうちに三十三回忌乃至五十回忌も過ぎると、もう一つ昇格して神様になるという考え方ですね。
 人が死んで五十回忌を過ぎると仏様から神様になるのだから、仏様も神様も同じものだ。つまり、まだ若い神様を仏様と言うし、年老いた仏様を神様と言うんだと。
 それをまとめて言うと、「敬神崇祖」という事が宗教の根本であるという考え方ですね。 敬神崇祖とは、神を敬い、祖先を崇めるということですね。更に、それをちゃんとやることが「おかげ様の生活」ということだという考え方ですね。

してあげる

 五つめはですね、生きとる者は死んだ者の為に何かを、言わば供養か何かをしてあげねばならないという観念でございます。
 今、五つの事について申しましたが、そういう様々な観念が背景にあって、おのずから先祖供養という、一言でいうとそういう考え方になって、共通の精神基盤になっているわけですね。それは、寺に生まれた者もそうであります。浄土真宗の教えを聞き、仏法とはどういうものであったかを学ぶまでは、そういうもんだと当然思っておるわけです。私もそうでありましたから。しかしながら、それは仏教がどういうものであるかという事とは全く関係のない事でありまして、日本人が伝統的にどういうふうな感じ方や考え方をしてきたか、そして社会はどういうものの考え方で動いてきたかということであるわけなんです。
 仏教の教えるところがそうであるかということになると、これがまた実は全く違っておったわけなんでございます。私自身が「あれっ、こんなことだったか」と非常に驚いた者の一人であるわけであります。

かえりみる場

 ただ、この中に出てまいりませんでしたが、私が一つだけ、ある先生のお話しを聞かせて頂いてから、「あっ、なるほどな、そういうこともあるんだな」と思っておったことを、今日、ある方のお話しを聞いておって思い出しました。
 日本人だけなんだそうですね、月見・花見をするのは。月を見てね、「やあ、いい月やなあ」というておるけどね、あんなもん、よう見ておったって、そう美しいもんじゃないと思いますよ。そうでしょう?。花見てね、「やあ、ようさいたな」と言うておるけれど、花をじっと見ておる者はおらんわけであります。
 では一体何を見ておるのか。その先生は、こう言われました。家族揃って月を見る。月を見ておるわが日暮らしを見るんだと。だからね、「去年婆ちゃん亡くなって今年は寂しくなったな。おっ、この子も早、三つになったか」。
 そういうように、日頃は何やらうかうかと過ごしておるわけですけれども、みんなで月を見ることを通して、逆に今度は、見ておる自分達を見るんだと。お花見もそうだと言われるんですね。
 その意味では、法事を勤めることも家族とか親戚末裔にとっては確かに、どうかしたら月見や花見と同じ意味合いを、持つのではないでしょうか。
 つまり、法事を勤めることで自分達のつながりや死んだ方との関わり、そして、それこそ法事の花形は「おっ、おまえのとこにこんな可愛いらしい子が出来たのか」という、まさにそれなんですね。実はそういう役目もおのずから持っておったと思うんですね。
 そして、それが実は、法要が勤められることの非常に重要なキーポイントの一つになっておったのではないかと思います。
 これは決して宗教と無関係な事柄ではないでありましょうけども、案外と見落としがちな、言わば日本人の長い間に培ってきた精神的土壌ですね。良いとか悪いとか言うよりも。私なんかそういうことは非常に日本人の面白みであり、良いところではないかなと思うんですが。

仏法が教えていること

 さて、それじゃ仏法に照らしてどうなのか。元々、法事や供養ということは、総て仏法から出たことでございますが、それを教えた人がどういうつもりで教えたのか、という事を知らなければ、あるいは、それが何故起こって来たのかということを知らなければ、これはまあ、要するにあてずっぽうの話しということになるわけです。そうしますと、それでは一体、法要・読経とは何だったのかということでございます。

お経は釈尊の説法記録

 まず、そのために押さえなければならない問題は、一つにはお経とは何かということであります。お経と申しますのは、お釈迦様の説法であります。お釈迦様の説法を記録したものなんですね。

悩める者の為に

 お釈迦様の説法。誰が誰の為に、どんなときにしたのか、ということですね。誰がとはお釈迦様がです。誰に、子供を亡くして嘆いておる母親に、内輪がうまいこといかず弱っている姑さん・嫁さんに、或は身寄りが無くなって道端に倒れておった旅人に、そしてまた、一国の王でありながら家庭問題で悩んでおる国王に説いたのであります。

苦難の時こそ

 人間にとって避けがたい悩みは、老いと病と死、別れと出会い、そして求めて得られないことであります。老いてある者が、何時までもこのまま元気で若くおられるようにと祈るのではございませんで、その老いの悲しみを乗り越えていく力を、この教えの中に見い出してくれよとお説きになったわけですね。
 病気に掛かっている人に、健康に成りたいというお祈りの仕方を教えられたのでは無くて、その病を抱えて今日の一日を乗り越えて行けるようにと教え、諭し、励まし、勇気付けられたのであります。死んで行かねばならない者に、人間は誰でも死なねばならない。その死なねばならない今、死なねばならん私が生きておる。その死なねばならん今のこのいのちをどう生きたら良いのかをお説きになったのであります。
 別れた者が戻ってくるお呪いや、お祈りの方法を教えられたのではありません。別れねばならない人生の事実。今、あなた自身が出会っているその事実を、あなた自身がどう受け止めて行かねばならないのか。それをお教えになったのであります。
 また、憎い者と会わねばならん、その会った者を憎まずにはおれないその悩みを、どう乗り越えて行ったら良いのかをお説きになったのであります。決して憎い者を呪い、そんな者がいなくなるように祈る道をお教えになったのではないわけですね。
 万事が万事、その通りでありまして、実は悩める者、迷える者の為に、そして生ける者の為にお説きになった法なんでございます。

生ける者の為に

 だから、基本的にまずしっかり弁えねばならないことは、お経とは、お釈迦様が悩みを抱えた人間のためにお説きになった御説法だということです。
 それが漢文で書かれてありましてね、そのまま読むのはおかしいではないかと言うけれど、これは儀式としてやっているわけです。儀式としてやっているとはどういうことかと言えば、お釈迦様が私の為に法を説いて下さる。その事の再現なんです。仏陀説法の再現なんですね。
 まず、お釈迦様が我が家へ来て下さる。御招待するんです。御招待申すわけですから、予めですね。お釈迦様御在世の時代もそうだったんです。明日は托鉢にお出ましにならずに、お弟子方共々に我が家でお食事をして下さいますようにと御招待に行くわけです。そしたらお釈迦様はね、黙っておられる。黙っておられればそれで解ったということなんですね。だから、黙っておられれば、「あっ、これで来て貰える」というわけです。「はい、解りました。行きます」とは言われんのですね。やっぱり仏様は偉いんですね。私等は行きますと言うて、そのうちにね、交通事故に会って行かれなくなったりね、そういうことはありますけれどもね。だから、そんな明日になってみなければ解らない事をね、行きますとは答えられない。黙っておられる。
 それでね、早速家に帰ってね、庭を掃除して、その晩から一生懸命に仕込みをしてね、そして明日の朝になったら水を打って、部屋には香を焚く。亜熱帯ですからね、熱い所ですから臭い、香を焚く。そして日本みたいに障子などという物もありませんから、家の中には明かりを灯さなければなりません。或は薫りの高い花を玄関やそこらに撒いたりすることもある。そのようにしてしつらえ、準備が整った頃にお釈迦様は、衣をちゃんと着直して、それで出掛けられるわけです。
 そうすると、迎える方の人々は、お釈迦様の前へ薫りの高い花をパッと撒くんですね。寺などでの大きな法要になったら、はなびら撒くでしょう。それと同じ事です。
 そうやってお迎えして、そして主人自らがお釈迦様とお弟子方を御案内する。お釈迦様が大黒柱の所に入り口の方を向いて座られると、お弟子方が後の方に並ぶ。そこで主人が料理を順次お出しするわけです。
 鉄鉢を持っておられますから、鉢に取り分けて、順番に回してあがられるわけですね。その時に一番先に出すものは何かと言うと、水をお出しする。何故かといえば、手足を洗われる。足を洗われて、そして手で食べられますからね、手を洗われる。だから、まず水をお出しするわけですね。それから食事が出てくる。
 それが終わると、また水を出す。今度は鉢と手を洗われるわけですね。そして洗った後の鉢の水は全部飲んでしまわれる。それは、出家の作法です。今でも禅宗の寺へ行けば同じようなことをやっておられます。それが終わると、ごちそうさまということで教えを説いて、その信者に、「あなたは、よく供養してくれた」と。
 供養とはそのことなんです。衣服や御馳走をサービスすることですよ。ようサービスして下さった。あなたがこの仏法の為にサービスなさることは大変尊いことなんだと。
 実は、まさしくそのようにしてしか、仏法は支えられて行かないわけですからね。お釈迦様だって飯食わずに説教は出来ないんですよ。そうでしょう。どれだけお弟子方が多くいたって霞み食って生きでるわけじゃないですからね。まことに、あなた方のこういう懇志によって、正に仏法は支えられて行くのだ。尊い事である。まず喜ばせ、そして教え、諭し、励ましてお帰りになる。とまあ、こういうわけなんです。
 法要儀式も同じ事をやっているわけなんですよ。基本的にはね。仏陀説法の再現、それは何かといったら、如来様に我が家へ来て貰って、この私の為に、如来様が説法して下さっている。その姿を再現しているわけです。

病めるこの私の為に

 この私とはどんな私か。まあ、結婚式の時にお釈迦様を呼んだのならですね、私達結婚しますからちょっと聞かせてやって下さい。ということになるだろうし、親が亡くなった時なら、私は親を亡くしました一言聞かせてやって下さい。ということでありましょうしね。まあ、嬉しい時に呼ぶ人より悲しい時に呼ぶ人が多いというのは、そうでありましょう。仏典を読んで見ますとね、嫁さんと姑さんが仲悪くて来てもらったというのもありますね。
 そういうことで、我が家へ来てもらって私の為に御説法して下さる。その姿の再現であるということです。基本的にこの事を腹に入れていただくと、お経というものはね、わからんお経、わかるお経。そんなことはどうでもいいんです。そうではなくて、正しく、そういうしつらえをして、私のために法を聞かせていただく、そのことを儀式として表して喜ばしていただくんですね。

儀式の根本精神を聞く

 だからこそ、そのためにはどうしても私自身が、如来様の教えをやっぱり受け取っていかねばなりません。再現の儀式だけをやっていて、中身は受け取られないのでは困るということで、お説教があるわけです。
 只今のこの一段の儀式の一番の中身である、如来様の法とは何であったのかということでお説教がある。どれだけお説教する間が無くても、御文章、蓮如上人がわかりやすく、お釈迦様の説法の肝要をしたためられた御文章を拝読して、これをもって説教に代えるということですね。そういう形で御文章というのはあるわけなんです。
 そういうことで、法要と読経とがあるということでございます。

供養すべきは三宝のみ

 次に、供養ということですけども、供養というのは何を供養するのか、それが問題です。如来様を応供と、こう申します。『大応供を帰命せよ』と正信偈にも出てまいりますが。応供というのは、まさに供養に値するお方ということで、裏を返して言えば、如来以外に供養すべきものはないのだということなんです。
 本当に供養に足るお方は、如来様より他は無い。そして、広く言えば、如来の教えに従う人であり、如来の教えを伝える人であり、如来の教えに従って生きようとする人でなければ、実は、供養に値しないのだという意味合いも、裏には隠れておるわけですね。
 如来様は供養に値するお方。こう呼ばれたということの中に、供養ということの意味がよく現れております。この供養の要はですね、供養の対象は三宝である。三宝というのは仏であり、法であり、僧であります。
 仏様を供養する。それは、おもてなしし、サービスし、崇めるわけですね。法を供養するとは、お釈迦様の教えを供養する事であって、それは、例えば写経したりね、それから、その教えをよく聞いて覚えて味わって人にも語る。これも供養です。教えに対してはそうするよりないですね。そして、その教えを伝えるために働く仲間ですね、教団であります。それを供養する。これはいろいろな供養の仕方がありましょう。お金を上げるのもそうでありましょうし、ほめ讃えるのもそうでありましょうしね。いろいろあるでしょう。対象は、あくまで三宝であるということです。

我が物をもって、我が身をもって

 では、何をもって供養するのかといえば、財物。物をもって供養する。例えば、食物とか、衣服、お金とか。財をもって供養するのと、もう一つは、法をもって供養する。即ちまさしく自らが教えを聞き、信じ、これを伝えるということをもって供養するというのと、二つある。財供養、法供養ということで、供養という言葉は、元々そういう意味であったということです。

形は仏教、心は外道

 ところが、日本の仏教界は、実はそのことがウヤムヤの形で実際動いてきたわけで、ただ見ていれば、「そんなこと言うたってあんた、ほんのこじつけじゃないか」と言うくらいに、本来のものが怪しく聞こえるくらいの歴史の現実があるものですから、なかなか厄介でございます。
 親鸞聖人が、お経を読み、袈裟をかけ、仏像を安置して姿は仏教の形をとっておるけれど、「内心外道を帰敬せり」。それは仏教とは無縁のものになっておるのだとお嘆きになったのは、そういうことであります。
 浄土真宗は、そういう仏教が仏教でない中身になってしまっていることを嘆く中から、まさに親鸞聖人によって明らかにされてきた教えでありまして、その点では他宗とは根本的に違っている。現実問題としては違っておる。道理は一つでも、現実には違っているということがあるわけでございます。

亡き人を思う

 さて、そうなってまいりますと、次に問題になりますのは、亡くなった人に対する、ということでございます。まあ、追善供養という形で言われるわけですけれども、追悼。亡くな(.た人を追悼するということは一体、どういうことなのだろうかということを考えねばなりません。
 このことを考えます時に、いろんな意味があると思います。ただ、浄士真宗の教えの上から私が今まで聞かせて戴いて、なるほどそうであったかと思うところを幾つか申し上げたいと思います。
 まず、亡くなった人の人生を思うことを通して、私の人生を考えていくということが一つあると思いますね。それが死者を思う。早い話が、「あれだけこのために一生懸命やってくださったんだから、私はやっぱり、後を疎かにしてはならん」ということだってありましょうし、「あの人はあそこで失敗した。うちの親はね、あそこで失敗した。だから、息子である私が、同じ過ちを繰り返したのでは申し訳がたたんであろう」ということもありましょう。そういう形で、亡き人を思うことを通して、自分自身の人生を見直し考えていくということが一つあるかと思います。

明日は我が身

 それと同時に、亡くなられた人を思うということは、まさに、死ぬというこの一事が、実は、明日は我が身であるということで、そのことが抜けてはならんことであります。私も死ぬ身だということを除けて、死んだ人のことを考えておれば、これは話はワヤワヤであります。
 明日は私の番だということですね。まさに、肉親の死に会わなければ、身近には感じることの出来ないことです。理屈はわかっておっても感じられないことですよね。私もこうして死んで行かねばならんというその事が、実は追悼の中で非常に重要な問題だと思います。
 そして、そういう明日は我が身であるという中から、まことの拠りどころとは何かということを求めて行かなければなりません。そして同時に、そういう事を通して、まことの拠り処に立って、私が亡くなった人と共に相会うことの出来る世界、亡くなった人と相通じ合える世界を聞かせて戴かなければならないということになるわけであります。
 まとめて言えば、私が今申しましたことはまさに、仏法の光に遇うということですね。仏法の光に遇うということこそ死者を追悼すること。仏法の光の中に死者を追悼する事であります。年忌法要ですとか、四十九日の法要とか、亡くなった人を縁として勤められる法要の総てはそうであると、このように思うのであります。

死んだらどうなる

 さて、そういうことになりますと、一つ問題なのは、じゃ亡くなった人は一体どうなるのかと、こういうことになりますね。まさに人間にとって死ぬとは一体どういうことなのか。往生とは聞くけれども、往生とは一体何だろうかということでございますね。
 仏になるとはどうなることか、往生とは一体何か。

生き死にを越えた世界を

 この問題については、また後程のテーマで出てくる筈でありますが、ただ、今この先祖供養とかいうことに絡んでの問題で申せば、そうやって死をもって別れて行かねばならない。そのことを嘆かずにいられないし、明日は我が身だと思えば楽しかろうわけがない、悩まずにはおられない。そういう私だからこそ、生き死にを越えた限りないいのちに遇わせていただき、これを拠り処として今日只今から歩ませてもろうて行こう。つまり、生き死にを越えたいのちの世界に遇わせて戴き、それに基づいて生きて行こうということなんです。

行く道は来た道

 京都へ行こうという時はですね、京都へ行く道を歩かにゃいかんのです。北海道向いて歩いておってね、京都へ行きたい言うておったって、そんな馬鹿なことはないんです。京都へ行こうと思ったら、京都からここへ続いて来ておる道を歩かねばならんですよ。京都から届いておる道を歩めば、それはそのまま、京都へ行くということなんです。
 つまり、限りない、生き死にを越えたまことから届いたものに従って生きることこそ、私共にとっては往生の道を往くということであり、生き死にを越えたまことだから、まさしくそれは、いのち終わることがそのまま仏の世界だと言えることでもあるわけなんでございます。

親鸞聖人と蓮如上人

 さて、そういうことで、仏法の立場から考えたらどうなのかということでお話をしたわけですけど、では一体、親鸞聖人はどうおっしゃっておるのだろうか、あるいは、本願寺中興の祖といわれた蓮如L人は、どう仰せになっておられるのだろうかということです。

亡き父母のための念仏はしたことが無い

 親鸞聖人は、「親鸞は父母の孝養のためとて」、つまり亡くなった親のために、親孝行のために、死んだ人への追善供養の為ということで念仏したことは一度も無い。何故かといえば、私が親を思わんからではない。念仏が追善供養の力を持たないから言うておるんじゃない。念仏は元々、そういうことのために出来上がったものでは無いからであります。
 つまり、如来様のお心に照らしたら、そんなことは言えんということなんです。

念仏の心

 では、念仏申せよとおっしゃった如来様のお心とは何か。今申しましたその言葉は、『歎異抄』という書物の中の御文でありますが、その『歎異抄』の中に次のように出てまいります。

 親鸞は父母孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。

 今亡くなったこの父・母だけが、我が父・母ではないのだと。私に念仏申せよと仰せられた如来様のお心は、生きとし生けるものは皆父母であり、兄弟であるぞというところから念仏申せとおっしゃっとるんだ。だから、「わが父・わが母」のためにということ自体が、既に念仏の道を踏み外れておるということです。

如来がなければ助からない

 それじゃ、放っておけばいいのか。いや、そうじゃないんだと。

 いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候べきなり。

 大体、この娑婆におってさえね、目の前に居てさえどうにもならんものがね、そうでしょう。つまり、如来様によらなければたすからんようなものを抱えて、ウロウロしておる私達がね。救いようがない。本当に救いたかったら私自身が如来様にならねばあかんじゃないかと。だから、私が念仏して助けるというのではない、もし本当に救いたいということであったら、私自身が如来様にならしてもらって、本当に亡き人々をも救えるような身になりたいと願わねばならないはずである。仏になる道より他に人を救う道のあるわけはない。自らが溺れておる者が、どうやって他の溺れておる者を救うことが出来ようか。というこですね。しかも、その念仏は、自分の裁量でこしらえたとか、発明したという念仏でもなければ、自分が念仏に力を持たせておる主でもない。我が力にて励む善としての念仏ではないではないか。そんなものじゃないではないか。
 称えよと言われて戴くばかりではないか。ただただ自力を捨てて、如来様のお心に従って歩ませて戴くことこそ、如来に生まれ変わって、如来様の真実の力をもって、あらゆる人々、今亡くなった方々のことが気になるんであったら、その人を救う身にもなれるのである。念仏申すより他にありはしないのだ。如来の仰せに従い、念仏申すことより他にはないのだ、と。まあ、こういう意味なんでございます。

お経は道具じゃない

 それから、お経を読むということについてですけれど、お経を読むということは、先程申しましたようなことで、尊いことなんでございます。誠に尊いことなんです。だけども、親鸞聖人は、三部経を一千回も読もうと思い立たれたことがある。それは何故かというと、お経を読んだその力でね、天の神、地の神の力を借りて、飢えて死んで行くという余りにもひどい惨めな人達を、何とか助けたいと思われてお経を読み始められた。それは、まさに、比叡山でやっていた事なんです。五穀豊穣を祈り、人々の安楽を願い、雨の降らん時は雨の降るように、人が病気なら病気が治るようにとお経を読んでおった。それと同じ事をやり始められたんだけど、四、五日してですね、あらら、こりゃとんでもない間違いであったなと思い返された。それは、お経を読むことが間違っていたわけではありません。そうではなくて、何かのためにお経を読んでと、お経の力でというのが間違っておった。まさしく、この私の為に説いて下さったお経なんですね。念仏申せ、これより他に救われる道は無いのだと、如来様が見抜いて与えて下さったお念仏であった。何の不足があってこんなことを思い立ったのであろうか。如来様のお慈悲を喜ぼうと思うたら、如来の仰せに従おうと思うたら、ただただ自らも信じ、人にも教えて、念仏申してもらうより他は無かったのにと思い返されたというのが出てまいります。
 それから、蓮如上人という本願寺の八代目の御門主ですが、この方は、朝夕、正信偈和讃を称えておる。そして、これは死んでから極楽へ参るのに役に立つか立たんかいうて問題を出された。やあ、立たんでしょうと言う人、やあ、立つと言う人、両方おったというんです。すると蓮如上人はですね、どちらも間違っておるぞ、そうではなくて、この私共を救うためにお与え下さったんだ。本願を信じて念仏申せ、たすくるぞとおっしゃっとるんだから、ようこそようこそと、有り難や尊やと思って称えさせていただくんであって、たすかるのたすからんのというような、たすかるための道具に称える正信偈ではないわいとおっしゃった。

念仏はプレゼントじゃない

 どうかすると道具に使うんですね。あるいはね、プレゼントに使おうとする。そのプレゼントに使う事が一番悪いと言うて、次のように言うて有ります。他宗では念仏を称えて、その功徳を神仏に差し上げて、その力であれを助けよう、これを助けようと、こう思っておるというんですね。だけど、浄土真宗はそうではなくて、私が念仏をいただいて、感謝し、そして喜ばせていただくものだということをおっしゃっておられます。

アリガタヤアリガタヤ ト聖人ノ御前ニテ ヨロコブココロナリ
後生タスケタマヘト タノメバ(頼りにして、それを拠り所にして従えば)
ヤガテ(ただちに)御タスケニ アヅカルコトノ アリガタサヨト マウスバカリナリト

 と、このようにおっしゃっておるのであります。

仏法ニハ マイラセ心ワロシ 

 「マイラセ心」とは、御進物に差し上げる。~して差し上げる、~してあげるという、この精神が仏法では一番いかんのやとおっしゃっておるわけですね。

仏法ニハ マイラセ心ワロシ 是ヲシテ 御心二叶ハント 思フ心ナリ 

 これをして、如来様の気にいって貰おうという心である。

仏法ノウエハ 何事モ報謝ト 存スベキナリト 

 仏法の上は何事も、ようこそこの私のためにと、御恩報謝と受け取れなければならない。とおっしゃっておるのでございます。
 これらが親鸞聖人や蓮如上人のお示しであります。

形は心にふれるためのご縁

 年忌の法要も、或は祠堂経の法要も、総ては如来様の教えを我が身にいただき、そのことを喜ばせていただく姿としてあるわけでございます.、一番元にあるのは、聞かせて戴いた如来様のこころ、そして、それを受け取らせて戴いた私の心です。そして、それが言葉に現れ、身に表して行くのであります。御恩報謝ですね。
 だけども、私共がまず仏法にふれさしていただく時は、一番外側に現れたものを見て、それから聞いて、そして元にあったこころに初めて出遇うのであります。仏法は聞かねばならないものであると言いながら、私達は、聞く前にまず見たものを通して、そこに誘われていくわけなのであります。私達が、身に表す、行うということは、本来伝道という意味を持っておるわけでありまして、聞かない者、聞く気のない者、知らない者をも実は、そういう形に表す事を通して誘っていくわけですね。私だって別に最初から仏法を聞く気も無かったのに、そういうことを通して聞かせていただいたわけなんです。

色眼鏡で見る私

 私達は、その姿だけ見たときは、私の心でそれを見るもんですから、どう見たって先祖供養にしか見えん。何故かと言えば、私の心がそういう精神だからですよ。だけども、「何でこんなことをするのか」と、それを生み出してきた仏法に聞いていくと、こうこう、こうなんだぞというものがあって、更にそれを聞いておると、「あっ、そうだったのか」と〃儀式〃を生み出して来た根元にあるこころというものに、実は初めて出遇わしてもらうわけなのであります。

それでもなお

 いかに取り違えられても、取り違えられても、それを支えておる精神が生きてあり、それが尋ねられて行くうちは、その儀式はちゃんと生きて用いて、まさに、世の人々のともしびとなっておって下さるのだから、ああ、私もそういうことを御縁に導かれてきたのだなと、こう思うのであります。だから、法要を勤めさせて戴くという事は、実は誠に尊いことなのだということであります。

問題の根本

 また、そういうことを考えます時に、「仏法は何の為に有るのか」。或は「仏法はどう受け取るべきか」。ということが、実は今回のテ―マを通しての問題であったのだなということが解るわけでごさします。

お育てのご縁

 今申しましたように、儀式というものは、やはりご縁。お育てとしてのご縁。
 もとより願いがこもっておる。そういう如来様の願いがこもっておるわけでございます。法要を勤める者にとっては、基本的には喜びに根ざしておるのが望ましい姿でありまして、そういう中で本当にご縁になる。受ける者にとってはお育てになっていくということであります。

祭る心から聞く心へ

 ですから、如来が罪悪深重の凡夫である私を救わんがため、であって、その私が誰かに何かをしてあげる為ではない。道具ではない、プレゼントではないということですね。
 私がしてあげましょう、上げましょうという祭る心から、私が聞かせて戴く、学ばせていただこうという心へ転換する事こそ、この御法要に会わせていただいた機縁ということになるのではないでしょうか。もとより、祭る心が私達の元々の心です。祭る心が有るから儀式があり、儀式をすることを通して、私の中にある「祭る心」から私自身が聞かせていただき、学ばせていただき、私の心を喜ぶこころへと転換させていくならば、そこに初めて本当に「この私のための良きお導きの手だてであったな。」と素直に受け取らせてもらうことも出来るでありましょう。
 そういう基本を学ばせてもらって、思いを馳せてみますと、実際にはこの娑婆のことでありますのでね、日本に仏教が入ってから今日まで、或は、浄土貞宗の歴史が始まってから今日まで、いろんな紛らわしいことや少しおかしい、変だと思われる事もいっぱいありましょう。だけども、私達はそのことの中で、何が一番根底にあるのか、これをしっかりと受け取って行かねばならないと思います。

已むことのないかたりかけ

 お経を〃あげる〃という言葉。お経を〃あげる〃、お経を〃いれる〃という言葉もあるんだそうで’すね。拍子木をいれるというのと同じで、バックグラウンド・ミユージックのつもりなんですね。それからね、祠堂を〃あげる〃(永代経懇志のこと)と言う人もあるけれども、祠堂を〃つける〃、もっと変わったのになると高岡の方でね、祠堂を〃打つ〃と言うんです。獅子舞の花代と一緒なんですね。
 そういうことの中に、実は仏法を受け取って行く人間の側の姿があるんです。だから、ついついそうなってしまうんです。
 しかし、そういうことの中にこそ、逆に仏法の側からは、娑婆の私らの泥にまみれながら、仏法は私達に語りかけておって下さっておるのであります。そこに私達の心をつけさせていただくことが大事かと思うのでございます。