本願他力の信心2

六、法蔵菩薩永劫の修行と成仏、そして安楽浄土の建立

 四十八の誓願を立て終わった法蔵菩薩は、その誓いを実現するため、永劫の修行と取り組まれました。あらゆる境涯に生まれ変わって徳を積み、何があろうと一瞬も我欲をおこすことなく努め励まれました。ただひとえに一切衆生に救いの光をもたらすためでした。
そして遂に今から十劫の昔、誓願は成就して法蔵菩薩は成仏して阿弥陀如来となられました。阿弥陀如来の開かれた世界は安楽とも極楽とも呼ばれ、広大無辺際であって、そこに生まれた者はいかなる者も浄化されて仏の覚りを開き、十方衆生の救済者となるのです。
この安楽浄土の徳はしばしば大海に譬えられます。一切の濁流を抱き入れて浄化し、一味の海水に変える、地球最大の浄化槽であるのが大海であるからです。

 また、阿弥陀如来の放ちたもう智慧と慈悲の光は、誓いの通り十方の世界を遍く照らしその光の種類また無量であって、すべてを見通し自在に癒し導くのです。阿弥陀如来の寿命は永遠にして、神々も菩薩たちも量り知ることはできません。

七、十劫と十万億仏土

 最初にのべましたように、ここに説かれてあることは,全体が姿形も言葉も越えた不滅の真実を、あえて姿形と言葉の上に表現してくださったものであるのですから、法蔵菩薩の願いはもとより成就するに間違いのない真実そのものであったわけです。

 その点から考えますと、十劫の昔の成仏ということや、西方十万億仏土の彼方の極楽浄土と示されてあることの意味もおのずから受け取れるように思います。

 劫とは長い時間を表す単位で、一説には、四十里立方の大岩を、三年に一度、天人の羽衣の裾でこすって、この大岩が磨滅してなくなるのに要する時間を一劫とするといいますから、途方もない長い時間を指すわけです。一劫の間には、我々の住むこの大宇宙が出来たり壊れたりを浜の真砂の数ほど繰り返さねばなりますまい。その意味からすれば、私たちにとっては、「思いも及ばぬ昔からすでに聞けよ信ぜよと呼んでいて下さったのだ。それなのに私は、耳を塞ぎ背を向けて逃げつづけてきたのだ。何とお恥ずかしくもったいないことであろうか」ということになります。しかし一方阿弥陀様からすれば、願いを定めるだけにすら五劫を要し、不可思議兆載永劫の修行をを重ねた上のことですから、「喜んでくれよ、ついに今し方、わたしは阿弥陀仏となった、ついに汝を救う力をそなえたのだ」ということになるでしょう。

 西方十万億の仏土を過ぎたところに安楽と名づける世界があるというのはどういうことでしょうか。西方は日の沈む所、鳥たちが帰るところです。また、三千大千世界すなわち千の三乗倍である十億の世界に一人ずつの割合で仏陀が現れたもうということで、一仏土とは十億の世界のこと、十万億仏土とは十億の二乗倍の世界を指します。その十億×十億の世界を過ぎたところに安楽浄土はあると説いてあるわけです。まさしく私たちからすれば、想像したこともなく、考えてみようもない程に遠い所であるといわねばなりません。
 ところが『阿弥陀経』には、その極楽浄土の人々は、午前中の食事の前に十万億の仏たちを供養して回られるといってあります。つまりはお浄土の阿弥陀様からすれば十万億仏土の彼方といってもすぐ近くにすぎないということです。私たちからすれば、阿弥陀様もお浄土も「思いも及ばぬ遠い存在」でありながら、阿弥陀様からすれば、「何時もおまえのそばにいるのだ。何もかも見ている、聞いている、わかっているのだから、何があってもなげ嘆いてくれるなよ」ということであったわけです。これはいわば、迷いの中にいる私と大いなる真実との関係を象徴的に表したものであると思われます。元来、極楽浄土とは覚りの世界にほかならず、覚りの世界の広大さ・尊さ・安らぎ・よろこび・気高さをイメージ表現したものであるわけです。疑うことを永く忘れて、ほれぼれとうなづかずにおられましょうか。

八、聞くままが信、信ずるままが往生決定

 法蔵菩薩の誓願が実現して阿弥陀如来の救いの力が生きてはたらくこととなったわけですが、その何よりの要は南無阿弥陀仏の救いということです。『仏説無量寿経』下巻の始めに、釈尊は次のように説き示されました。「十方世界のガンジスの砂の数ほど多くの仏たちは、みなともに阿弥陀如来の不可思議な救済力をほめたたえられる。あらゆる者は、その仏たちのほめたたえ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信心歓喜するたちどころに、阿弥陀如来のまごころが届いてきたわけであるから、かの国に生まれたいと願うままに往生は定まり、かならず仏の覚りを得る身と確定するのである。ただし、仏法に背を向け、反逆すること未だやまぬものは除く」

 今、釈迦如来がこのように阿弥陀如来の徳を讃えたもうことも十方の如来と同様であって、しかもそのままが阿弥陀如来の願力のしからしめるところであるから、釈迦・諸仏のほめ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号は、そのままが阿弥陀如来の名乗りであり、呼び声であるわけです。その名号を、このわれを呼びたもう阿弥陀如来の声と聞くことが信心であり、信心はまた自ずから歓喜であるとお示し下さっています。

 信心は、阿弥陀如来の私にかけてくださるまごころが届いたすがたですから、「如来を信ずる私の心」ではありません。「私にまで届かずにおかなかった如来様のまごころ」ということです。ですから信心を「まことの心」呼んで、「信ずる心」とは言わない習わしになっています。その阿弥陀如来のまごころのありったけは南無阿弥陀仏の名号となり、釈迦如来の勧めたまい、人の称える声となって下さっているのですから、信心の中身は南無阿弥陀仏の名号より他はなく、南無阿弥陀仏の名号の中身は阿弥陀如来の真実心であるのです。

 浄土真宗においていう信心とは、私の祈る心や、願う心ではありません。間違いないと確信する私の判断でもありません。「ああ、この私に仰って下さっていたのですね。この私を呼んで下さる声だったのですね」と受けとめることです。阿弥陀如来の真実を釈迦如来が、教えとして説き、南無阿弥陀仏と発信してくださったところを、我がためにようこそと受信することです。そしてそれは、取りも直さず、人間の思惑を越えた大いなる真実に遇うこと、大いなる真実からの呼び声を聞くことでもあります。聞くままが信心なのです。心の持ち方の問題ではありません。心を越えたものを聞くのです。もとより往生させずにはおかないという大いなる真実を聞くのですから、聞くことがそのまま、往生の定まることでもあるのです。

  「信」という字は、人という字と、言という字が合わさってできています。第一には、人の言うことが真実であるという意味です。それから転じて、第二には人の言うことを真実だと受け取るという意味です。発信するものと受信するものがいて、通信が成り立つことを表しています。インドの言葉で書かれた経典の言葉を翻訳する中で用いられた文字ですが、実に阿弥陀如来の真実と、それを語り聞かせて下さった釈迦如来のお言葉、それを聞いて、如来が私にかけて下さるまごころを知るということの全体を的確に表すぴったりの文字が中国にあったというわけです。発信するのは阿弥陀仏と釈迦仏、受信するのは私たちです。

 「如来が私に、如来が私を」という受け止めをもたらして下さるのが本願のはたらき、他力です。主語は如来、目的語はこの私という世界です。我が身にかけられている如来の底無しのお慈悲を知る。それが信心です。

 「ひたすら信ずる」「信ずるよりほかない」「私は信じます」「信ずるものは救われる」「信じていればよい」「信心が足りない」「心から祈る信心」など、さまざまな言い方で信心が語られますが、それらの不安の世界とは全く別の、驚きと安らぎと喜びの世界を示すのが本願念仏の信です。

     親鸞聖人の用語には、「信心獲得」「獲信見敬大慶喜」といってあります。英語に置き換えてみますと、「獲」はキャッチであり、「得」はゲットです。信はメッセージです。

 「信心」は、「アミダズマインド フォアミー」ということになります。信心を獲得することは、「キャッチ ザメッセージ フロム アミダ」であり、「キャッチ アミダズマインド フォア ミー」ということになろうかと思います。

 天親菩薩は自ら得た信心を、「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」と述べられました。「このみ教えを説き残してくださった釈迦如来に申しあげます。あなたのおお仰せを今こうむりましたこのわたくしは、あなたの仰せの通り、十方世界ことごとくを照らしてさまたげられることのない光である阿弥陀如来の御心のままにしたがいたてまつって、阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせていただくのだと喜び努めさせていただきます」という意味です。これこそが浄土真宗の信心、他力の信心のお手本とされてきました。

九、信心にそなわる利益と報恩の称名

 信心を得ることは、如来の真実に遇うことですから、そこには感動と喜び、大いなる勇気づけと励ましがそなわります。そしてそれにとどまらず、いかにお粗末とはいえ、この私にこそ如来は願いをかけてくださっていた。「お前が仏になって、世の光となってくれよ。必ず浄土に引き入れて仏にするぞ」という阿弥陀如来の仰せであると知った上は、精一杯に如来の願いに応えたい。またこの如来の大悲を他の人にも知ってもらいたい、伝えたいという念も起こってきます。その人なりの行動が生まれるはずです。これが報恩、あるいは知恩報徳と呼ばれる利益です。ありがたや尊やと念仏することは報恩であると説かれてきたのもうなづけます。そしてそこに如来の大悲を凡夫である私が行ずる、如来の救済の業に私たちが参加させていただくという意味もそなわるのです。親鸞聖人が、天親菩薩のお言葉に沿って、「本願力に遇ひぬれば 空しく過ぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と讃えられたのもこのことであろうと思います。

 親鸞聖人は「信心の智慧」といわれました。信心の本質は如来の智慧が届いたものだからでしょう。「自身教人信」、自ら信じ、人にも勧めて信じさせることこそ、如来の願い に応え、愚かな凡夫の身のままに、一切衆生のために生きる道であるとお示し下さいました。そして「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしと説きたまふ」と讃えられました。如来は私たちに信心の智慧を与えて、自ら道を切り拓かせ、信心の智慧の人を世の灯火として送り出してひとの世を照らして下さるのであると受け取らせて頂くのです。

  現代社会の矛盾や時代のさまざまな問題を生み出したのは神でも魔物でもありません。私たち人間の愚痴が作りだしたのです。解決してゆかなければならないのは、神でも仏でもなく、私たち自身なのではありませんか。祈ったり願ったりしていては的外れではないでしょうか。願えども願い通りにならぬ自分があり、世の中の現実があります。しかし、ならねどもならねども、願わずにいられない、いや願われていると知る中で、「どうせ」などと足を出すことなく、力らを尽くして倦むことのない生きかたをしたいものです。

 私たち一人一人が信心の行者になって、念仏を力に、精一杯に自らと現代の課題を背負って生きることより他に、他力もなければ救いもなかったのです。「どうか、信心の智慧の行者になってくれよ」、それが如来が私にかけて下さった願い、南无阿弥陀佛に込められた願いだったのです。

以上