第十七条 辺地往生を遂ぐる人つひには地獄に落つべしといふこと

〔本文〕

 一 辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。
 信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑ひの罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。

〔取意〕

 疑いの心をもったままで念仏して、辺地と呼ばれる方便の浄土に往生する人は、最後は地獄に落ちるであろうということ。
 このことは、どのような経典や論釈にその典拠が見えるというのでしょうか。学者がまえの人たちの中から言い出されたと聞きますが、まことに浅ましい話です。経典・論釈などの聖教をどのように見なされていらっしゃるのでしょうか。
 信心の欠けた念仏行者は、本願を疑う罪によってまず浄土の辺地に往生して、疑いの罪をつぐなって後、真実報土に至って覚りを開くのだとうけたまわったことです。同じく念仏申す行者の中にも、信心の行者は少ないので、方便化身の浄土に多くは導き入れられるという大悲のお手回しであるのに、結局は無駄ごとになるのだなどと言うことこそ、如来を嘘つきに仕立て上げていらっしゃることになります。

〔参考〕

・辺地往生

第十一条の〔参考〕参照。
 『仏説無量寿経』巻下に、阿弥陀如来の浄土に、真実報土に化生したものと方便化身土に胎生したものとの二種ものがあることを説き、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生まれんと願わん。仏智・不思議智      乃至      この諸智において疑惑して信ぜす。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生まれんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ」とある。これを、辺地の往生とも、懈慢界・疑城・胎宮の往生とも呼ぶことが、第十一条にも見える。

・学生だつる

 学者であることを誇ること。

・経論正教

 浄土三部経や七高僧の論釈等の聖教、ほか親鸞聖人が読むように勧めた兄弟子たちの著作、そして親鸞聖人自身の著書などを含む。
 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』、龍樹の『十住毘婆沙論(易行品)』と『十二礼』、天親の『浄土論』、曇鸞の『浄土論註』『讃阿弥陀仏偈』、道綽の『安楽集』、善導の『観経疏』『法事讃』『往生礼讃』『般舟讃』『観念法門』、源信の『往生要集』、法然の『選択本願念仏集』、聖覚の『唯信鈔』、隆寛の『一念多念分別事』『自力他力事』著者未詳の『後世物語聞書』など。

・報土のさとり

 念仏申しながらも仏智を疑惑した罪により、辺地・懈慢界・疑城胎宮と譬えられる方便化身の浄土に往生したものは、五百年間その地に留まって罪を償って後、真実報土に転入して覚りを開くこと。

・化土

 方便化身土のこと。

・如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふ

 阿弥陀如来の誓願(第十九・二十の願)も、釈迦如来の経説(『仏説無量寿経』をも虚妄の説と見なし申し上げることになるということ。

〔私釈〕

 念仏を申してはいても信心が得られないままで終わる人は、ただちに真実報土には往生せず、方便化土の辺地に往生して、五百年の間疑いの罪をつぐなって後に、報土に生まれると説かれてあることについての異義である。辺地に往生するものは、後に報土に生まれるどころか、結局は地獄に落ちるであろうと説くものがいたというのである。
 信心を得るものは少ないのを憐れんで、信心を得て直ちに真実報土には往生できずとも念仏を申させて、まずは化土辺地に導き入れようと誓われた大悲を思わない議論である。 このような議論は学者ぶった者が言い出したようだが、そんな典拠など何処にもないはずなのに、弥陀の誓いも釈迦如来の教えも偽りごとにしたててしまうものであると、嘆いてある。自らの知識を誇って、無知の門弟たちの上に君臨し、特権的地位を得ようとする野心が生んだ異義であると思われる。

〔証文にあたる聖人の仰せ〕

・第一条

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなり」

・第七条

 「念仏者は無礙の一道なり。・・・罪悪も業報を感ずることあたはず」

・第十条

 「念仏には無義をもつて義とす。不可称、不可説、不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」