第十二条 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよし

〔本文〕

 一 経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行道となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひ住するひと、順次の往生いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑いをあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。今の世には、学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられ候ふにや。学問せば、いよいよ、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いらしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷わさんとす。つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

〔取意〕

 経典や論釈を読んだことのない無学なものは、往生不確定であるということ。
 この物言いは、まったくもって言うにも足らぬ心得違いと申さねばなりません。
 本願他力の真実を説き明かすさまざまの聖教が指し示すことはただ一つ、本願を信じて念仏を申せば仏になるということです。このことを知るほかに何の学問が往生のために必要だというのでしょうか。
 まことにもって、この道理にすらまだ迷っているという人は、どれほどでもよくよく学問して、無学のものをもすくい取りたもう本願のみ心を知ってもらいたいものです。経典や論釈を読んで学んではいても、その聖教の本意がわからないというのでは、何とも情けないことです。
 一字も読めず、経典論釈に示された筋道もわからない人でも、称えやすいようにと選ばれたのが名号ですからこそ、易行というのです。学問を要件とするのは聖道門です。これを難行と名づけるのです。心得違いから学問して、名誉や利得を期待している人は、この度の往生はどうなることやらと、聖人が仰せられた証文もあるはずです。
 この頃、専修念仏の人と聖道門の人とが法門の優劣を争う論議を企てて、「わが信ずる宗旨こそが優れている。他の宗旨は劣っている」などというために、宗教上の敵対者も出て来るし、仏法を誹謗することまで起こるのです。これはそのまま、自分で自分の奉ずる法門を攻撃し、誹謗しているに等しいではありませんか。
 たとえ他宗の人々が口をそろえて、「念仏は無能な人間のためのものであり、その教義は浅く低劣である」と言ったとしても、すこしも言い争うことなく、「わたくしどものような根機劣った凡夫、文字一つも読めぬものでも、信じる一つでたすかるのだとお聞かせいただいて、その通りに信じておりますので、根機すぐれた方々にとっては全くつまらない道でありましょうとも、わたくしどもにとりましては、この上ない教えでこざいます。たとえ、他の道の方が優れていたとしても、自分にとっては器量の及ばぬことでございますから、実践しようがありません。誰も彼もが迷いと苦しみを離れることこそ、あらゆるみ仏がたのご本意でございますから、下劣の凡夫が念仏を信ずるのをさまたげないでおいて下さいませ」と、気にさわるような態度をとらなければ、誰が危害を加えましょうか。かつはまた、言い争いをすればさまざまな煩悩が起こるものだから、智慧あるものはそこから遠ざかれとの証文もあるほどです。
 故親鸞聖人が仰ったことには、「この念仏の法を信ずる人もあり、謗る人もあろうと、釈尊が説き残されたことですから、わたしはすでに信じておりますが、一方で謗る人もあるからこそ、釈尊の仰せはまことであったと知られるのです。だからこそ、わが身の往生はいよいよ間違いないと思わせていただくのです。もしも謗る人がいなかったとしたら、信ずる人はいるのに、どうして謗る人はいないのだろうかと思ってしまうにちがいありません。このように言ったからといっても、わざと人から謗られようというのではありません。釈尊ははじめから信ずるものも謗るものもいることをお見通しになって、人々に疑いを抱かせまいと、あらかじめ言い当てておいて下さっていることを申しているのです」とのことでした。
 この頃は、学問の力で人から謗られるのをやめさせ、論議問答を本分としようとこころがけていらっしゃるのでしょうか。学問をするのならば、いよいよ釈迦如来出世のご本意をわきまえ、弥陀大悲の本願の広大さも心得て、このようなつまらぬ者が往生できるのだろうかと心配している人にも、本願真実の前には、人に善悪のへだてなく、業に浄穢の別もなく救い取られるのだという道理を、お説き聞かせになってこそ学識あるものの値打ちもあろうというものです。それなのに、ただ何のはからいとてもなく本願のみ心に相応して念仏する人にまでも、学問してこそ往生できるのであってそのままでは駄目だなどと言いおどすのは、仏法をさまたげる魔物です。仏陀の仇敵です。自らに他力の信心が欠けるのみならず、誤って他の人まで迷わせようとするものです。慎み恐れねばなりません、先師のみ心に背くことを。かつまた悲しまねばなりません、弥陀の本願に反することを。 

〔私釈〕

 聖道自力の心、「ゆゆしき学生」構えの見識で、念仏往生の教えを擁護しようとするときに生ずるものが、「学問してこそ」「わが宗こそすぐれたれ」「謗られまじ」というはからいであり、経典・論釈を読むこともなく学識もないままでは、往生は不確定であるという同朋同行への「言い脅し」である。これに対し、著者唯円は、「法の魔障」「仏の怨敵」という最大級の非難を浴びせている。
 「仏法者が仏法を破る」「獅子身中の虫の獅子を食らふがごとし」という『御消息集』のことばを参照すべきである。この護教者気取り、学生がまえこそが、専修念仏を仏教の伝統を破壊する邪法と決めつけ、法然聖人・親鸞聖人を流罪に処した元凶であった。『歎異抄』末尾の流罪記録が何を意味するかをこの章が語っているともいえる。すでに、法然聖人の定められた『七箇条制誡』において、愚者の身であることを忘れてはならない旨の戒めがあり、後に「たとひ牛盗人とは呼ばるとも、仏法者・後世者と見ゆるようにふるまふべからず」という親鸞聖人のことば(口伝)は浄土真宗の掟となった。
 自力のはからいがどれほど恐ろしい性格を秘めているかを示し、無知の凡夫の本願相応の、無義為義の念仏こそが真の仏道であることを明らかにする一章である。

〔証文にあたる聖人の仰せ〕

・第六条

 「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこときはめたる荒涼のことなり」

・第九条

 「よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定・・・しかるに仏、かねてしろしめして煩悩具足と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」