第十一条  誓願不思議を信ずるか、名号不思議を信ずるか

〔本文〕

 一 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。
    誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざる
なり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり、これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

〔取意〕

 一字も読めない人達が念仏しているのに対して、お前は誓願不思議を信じて念仏しているのか、それとも名号不思議を信じて念仏しているのか、どちらなのだ、と言い脅し、しかも二つの不思議の関係についての明確な説明もせぬままにして、人の心を惑わすものがいるとのこと。このことは、よくよく注意して分別すべき重大問題です。
 私たちの思いもはからいも超えた誓願の真実によって、おぼえ易く称え易い名号を生み出して下さって、「この名字を称える者に仕立てて迎え取ろう」とお約束下さってあるのですから、まず、この弥陀の大悲大願の不思議にたすけられて、生死の迷いと苦悩を離れさせて頂くことができるのであると信じて、念仏の出ることも阿弥陀如来のおはからいなのだと思うわけですから、少しも自らのはからいは混じっていないゆえに、本願のお約束にぴたりとかなって、真実の報土に往生するのです。
 このことは、誓願の不思議を専一に信じたてまつれば、自ずから名号の不思議を信ずる意味合いも、そこに具わっていて、誓願・名号の不思議は一体であり、決して別物ではないということを示しています。
 次に、自己中心的なはからいをさしはさんで、善と悪の二つについて、善は往生の助けとなるが、悪は往生の障りとなると、二通りに分け隔てして考えるのは、誓願の不思議を信ぜずして、自分のはからいで往生のための行業を励み、その中で称える念仏をも自力の行とみなしてしまう行き方です。この人は、名号の不思議もまた信じていないことになります。名号の不思議を信じてはいないのですが、念仏している以上は、浄土の辺地、あるいは懈慢界、あるいは疑城胎宮などの方便の土に往生して、疑いの罪をつぐなった上で、果遂の誓い(遂には真実報土に転入させようという第二十願)あるゆえに、結局は真実報土に往生することになるのですが、それは名号不思議のはたらきによるものです。このようにして、疑いを抱くものまでも名号不思議によって引き入れ救おうというのが、誓願不思議そのものなのですから、二つの不思議はそのまま一つなのです。

〔参考〕

・誓願不思議と名号不思議

 文意にしたがえば、誓願の不思議とは、称えやすい名号を与えて、善人悪人のへだてなく救おうという本願が、人間の思惑を越えた真実であることを指し、名号の不思議とは、名号を称えるものは、信心の人は真実報土に、信心欠けたものは辺地・懈慢疑城胎宮等の方便化身の土にまずは往生させ、ついには等しく真実報土に導き入れるという慮外の徳力あることをいう。本願と名号は一体のものであるから、誓願不思議と名号不思議を別物のようにいうのは誤りであると示唆している。

・実報土

 信心の行者が往生する真実報土。阿弥陀如来と等しく真如法性の覚りをうる世界という。

・辺地・懈慢・疑城胎宮

 辺地は浄土の中の辺境ということ。懈慢界はなまけ・おごる者たちのとどまる世界ということ。疑城胎宮はおのれの疑いに閉じこもる者がとどまる世界で、母の母胎中に譬え、開かぬ蓮の華に閉じこもるに譬える。五百年間浄土の仏・法・僧を見聞することができない状態を譬えるのである。

・果遂の願

 第二十の願をいう。果遂とは果たし遂げるの意で、まずは方便の化土への往生を遂げさせ、ついには第十八願に相応した真実報土への転入を果たさせるという意味をはらんだ願であるということ。

〔私釈〕

 聖道門的な自力疑心のはからいで、本願念仏の道を解釈するところにさまざまな異義が生ずる。まず第一に取り上げられたのは、本願の真実を信ずることと、名号の力を信ずることを別物とする異義である。法然聖人のもとにあって、まずは名号の善根を積み立てて往生しようとするはからいが、問題となった。またこれとは逆に、弥陀の誓願を信ずればもはや称名を重ねる意味はなく、称名を尊ぶのは、かえって不信自力のすがたであるという異義が生じた。いずれも、人間の自己中心的な分別、自力のはからいのなせるわざである。如来の御はからいを置き忘れた自見の覚悟というべきものであることを、本願と名号の不離であることを示して、諭すものである。
 名号を称えさせて迎え取ろうというのが弥陀の誓願であったことを明かして、この異義が自力のはからいであることを示し、自力のはからいをひるがえして、如来の御はからいをたのみたてまつれとすすめるのである。

〔証文に当たる聖人の仰せ〕

・第一条

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこる」

・同

 「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず・・・本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」

・第六条

 「弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ひと」

・第八条

 「わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ」