1. この問いを掲げたねらい
仏(如来)とは何かを明らかにしたい。この点を聞き開くことこそが聞法の肝要である。
2. さまざまな意見──話し合いのヒント──
- お釈迦さまといっても、要は私たちと同じ人間であろう。阿弥陀様とお釈迦様とは違うのか。
- お仏壇の中にかけてある、あんな姿の方がどこかにおられるというのは信じがたい。
- 死んだらみんな仏様なのではないか。ご先祖様を拝もうと、仏壇屋のコマーシャルでも言っている。
- 死ねば誰でも仏なら、わざわざ教えを聞くまでもないのではないか。
3. 話し合いを深めるために
釈尊の時代のインドでも、さまざまな神があがめ祭られていた。その中から出家して道を求められたのは何故かを考えてみましょう。
〔参考〕
○弥陀・釈迦二尊と十方諸仏の関係
(歴史上の人物として現れた教え主釈迦如来)
教主釈迦如来は自らの覚りの智慧に立って、自らを目覚めさせ歩ま
せた不滅の法を阿弥陀如来の本願・名号と説き開いて下さった。欲と
いかりと愚かさから脱することができず、空しく命の時を通り過ぎよ
うとする凡夫に不滅の法を受け取らせ、苦悩を乗り越える道を見いだ
させるためである。
釈迦如来の覚られた不滅の法とは、色なく形なく、言葉で表しよう
なく、こころで思いようもないものである。迷いの凡夫は、これを知
らず、求めることもない。しかるに、釈迦如来は凡夫のこころの暗闇
を哀れんで、光をかかげ、よりどころを与えようと、あえてこの法を
阿弥陀如来の本願と名号、浄土として説き示された。名を表し形を示
して、凡夫が耳に聞き、心に信じてよりどころとすることができるよ
うにしてくださったのである。これが釈迦の慈悲である。
(仏法の原動力としてはたらく救い主弥陀如来)
釈迦が不滅の法を阿弥陀如来の願力と説き明かしてくださったこと
は、観点を変えれば、阿弥陀如来の願力にもよおされて釈迦如来は道
を求め、覚りを開き、世の人々のために法をお説きになったというこ
とである。阿弥陀如来が釈迦如来に身をやつして人の世に現れ人々に
救いの道を示してくださったのだということである。これが弥陀の慈
悲である。
(十方諸仏は釈迦と同じく弥陀の分身)
釈迦と同じく不滅の法にうながされて覚りを開き仏陀となるものは
十方世界に数知れず現れる道理であることを示すため、さまざまな仏
が語られる。釈尊は唯一無二の絶対者ではないし、誰でも釈尊のよう
に仏になれる可能性があるからである。
〇仏とは何か
・梵天・帝釈天の転宝輪勧請の故事の意味するもの
──神は人間ではないから、人間を救えない。人間ゆえの苦悩を越える道を見いだ
し、人間に光をもたらすのは人間の仕事、目覚めた人間、仏陀の仕事。
・崇拝の対象ではなく帰依所(日々を生きるためのよりどころ)
──仏の教えがあり、共に歩むべき仲間があり、自らが仏となることをめざすよろ
こびがある。
・父母・師・医王・不請の友・純孝の子に譬えられる
──生まれた子ゆえに男女が父母となる。子のための親であって、親が子をうむわ
けではない。子ゆえに親が生まれた。病人ゆえに医師が登場した。
・スーパーマンでも、オールマイティーでもない、造物主でも神でもない。
──仏は力ではなく願いである。力に仕えるものは魔に帰依するも。
・仏は衆生救済の誓願から現れる。──慈悲が生み出した智慧こそもう一つの力。
・ジャータカ物語を貫くもの──慈悲と真実の追求
〇出典根拠
『仏説無量寿経』に学ぶ
──この経こそ、釈尊やその弟子たちのみならず一切の仏・菩薩・仏弟子を、生み
出し動かす原動力が阿弥陀如来の願力であることを明らかにすることを通して
仏とは何かを総合的、根底的に解きあかした経典である。
・光かがやく顔──身も心も悦びに満たされた姿。釈尊・世自在王仏── 一切諸仏。
──心に燃える願いを持たない者の顔が光り輝くことはない。
・生死勤苦の本を抜き、真実の利を恵むために立ち上がった法蔵菩薩の本願とは
思いも及ばぬはるかな昔、一人の国王が、世自在王仏という如来の説法を聞いて
感動し、我もまた覚りを得て、迷い苦しむものの光となり、いのちとなりたいとい
う大いなる志を抱きました。そして、法蔵菩薩と名のって道を求め、あらゆる如来
たちの足跡を学んで、果てしなく広大な誓願を立てられました。
「わたしが覚りを得たあかつきには、わたしの開く浄土には、地獄・餓鬼・畜生の
苦なく、また再び落ちる恐れなく、生まれ来る人は皆、不滅の輝きを放つ身となり
美醜の別ないように。(①無三悪趣の願・②不更悪趣の願・③悉皆金色の願・④無
有好醜の願)
過去世を見通し、思うまま見、思うままに聞き、誰の心の底も知り通し、思うま
まに行き、我欲を離れて、自在に衆生を導き救う身となるように。(⑤~⑩六神通
の願)
私の浄土に生まれたいと願うものは、そのたちどころに、成仏確定の菩薩として
生きる身となり、わたしの国に生まれては、必ず覚りを得てわたしと同じく仏とな
り、十方衆生の救済者となるように。(⑪入正定聚・必至滅度の願)
そのためにわたしは、光もいのちも限りない徳を具えよう。(⑫光明無量の願・
⑫寿命無量の願)
そして、その徳があらゆるものにとどいて、一人ひとりの光となりいのちとなる
ようにせねばならぬ。それ故、わたしの真実のすべてをわたしの名にこめて、あら
ゆるものの耳から流れこむようにしよう。一切の仏たちがわたしの名号を讃える伝
達者となるようにしよう。(⑰諸仏称名の願)
そして仏たちの口を通して呼びかけるわたしのまごころが、一人ひとりに至りと
どいて信心とはたらくようにしよう。この信を得た人々は、どこにどのように生き
るも、念仏もろとも仏となるべき身として生き、命尽きれば我が国に生まれ来て
、 十方衆生の救済者となる。このようにできないならわたしは仏にはならないのであ
る。悪逆のもの・仏法をそしるもの、背くものたちよ。そのままで空しく流転して
はくれるな。耳を開いて聞け。疑いのこころをひるがえせ。わたしはあなたのため
に現れる光でありいのちである。わたしがあなたの光になろう。わたしがあなたの
いのちとなろう。(⑱至心信楽の願)」
──『仏説無量寿経』の意による──